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第3話:揺れるプライドと夜の影

 翌週の火曜日。山岸優香(やまぎし・ゆうか)は出社すると同時に、不穏な空気を感じた。オフィスに入った途端、いつもは温厚な先輩社員の柴田(しばた)が机を叩いているのが見えたからだ。

「こんなの、無茶ですよ……!」

 声を荒げる柴田に対し、社長は苦々しい顔をしている。どうやら新規の開発案件に関して、大幅な納期短縮をクライアントから迫られているらしい。柴田は五十手前の中堅エンジニアで、チームの精神的支柱のような存在。だがその彼がここまで感情を爆発させるのは珍しい。


 優香も詳しい話を聞こうと近づくと、社長が気まずそうに切り出す。

「実はね、顧問としてお願いしてる“ドクター高城”が、今回の案件にも少し絡んでいて……。クライアントが彼の提案を気に入り、うちに追加仕様を依頼してきたんだ。しかも納期は来月末だと」

 高城の存在に思わず胸がざわつく。確かに彼が経営コンサル的な立場で企業を助言すると聞いてはいたが、まさか真っ先に自分たちの案件に影響が及ぶとは。少し複雑な気持ちがよぎる。


 柴田は社長に食ってかかる。

「いくらなんでも高城さんの提案は理想的すぎますよ! うちの開発リソースを超えてます。こんなの無理だ、ってきちんと伝えないと……」

「でもクライアントが“ぜひ”と言っていてね。高城さんが説得したらしい……」

「じゃあ俺たちが背負うんですか? あの人、いろいろすごい経歴みたいだけど、現場の苦労なんてわかるんですかね!」


 柴田の言葉に刺々しさが増していく。そのまま上着を手に取り、空気の重いオフィスを出て行ってしまった。優香は急いで後を追う。柴田はオフィスビルの非常階段で一人座り込み、タバコを吸っていた。普段は「健康が大事」と言う人なのに、よほど追い詰められているらしい。

「柴田さん、大丈夫ですか……?」

「悪いな。見苦しいとこ見せちまって」

 彼はうなだれ、短い灰を落とす。

「まさか“ドクター”とかいう人のプランが、俺たちの首を絞めるとは思わなかった。あの人、本当に何者なんだ? 現実的な見積もりもせずに、クライアントの夢を煽るだけ煽って……」


 その言葉に、優香の胸の奥がちくりと痛む。“ドクター高城”がどんな人物か、正直まだ掴めていない。路上のトラブルを収めたり、護身術のジムを持っていたり、落ち着いた雰囲気の裏に何かが隠れているようにも思える。

「私も、正直よくわからないです。でも……少なくとも護身術ジムでは、私みたいな初心者でも頑張れるように環境を整えてくれてるんです。あの人、現場を軽んじるタイプじゃないと思うんですが……」

 優香の拙いフォローに、柴田は皮肉っぽく笑った。

「それと開発業務は別だろ。いくら護身術ができても、徹夜でコードは書けないからな」


 やり場のない苛立ちが優香にも伝わってくる。結局、柴田はこのまま今日は早退すると言ってタバコを消し、重い足取りで帰っていった。


 夕方、優香は社長に呼ばれ、相談を受ける。

「うちの現場と高城さんのプランの調整役を、君に任せたい。女性である君がまとめ役ってわけじゃないが、いろいろ柔軟に考えてくれそうだし、柴田も君のことは信頼しているから」

 突然の大役に戸惑うが、断るわけにもいかない。優香は内心の不安を抱えながら「わかりました」と頭を下げた。


 帰宅後、エプロン姿で夕飯の準備をする。健太はまだ部活から帰っていない。野菜を切りながら、どうにも落ち着かない気持ちになる。

 (仕事でこんなに重要な役回り、私にこなせるのかな……)


 ふと思いつき、護身術ジムのスケジュール表を確認する。翌日の夜に初心者クラスがある。行こうかどうか迷ったが、少し身体を動かせば頭も整理できるはずだ。背筋を伸ばし、自分に言い聞かせる。

 「悩むくらいなら、一回やってみよう……」


◇◇◇


 翌夜、優香は仕事を終えて再びジムへ向かった。今日も吉成(よしなり)が中心となって初心者クラスを進行している。前回よりは少し慣れたつもりでも、体力的にはまだキツい。それでも、ミットを打ち込むたびに胸がすっと軽くなるような感覚が得られた。

 休憩時間、ふとスタジオの隅に目をやると、高城が立っているのが見える。あいかわらず表情は穏やかで読めないが、周囲を観察する眼差しには一切のブレがない。“この人、何を考えているんだろう”――優香は少しだけ勇気を出して声をかけた。

「すみません。ちょっと相談いいですか?」

 高城は静かに微笑む。

「もちろん。……仕事のことかな?」

「はい。私の会社の案件に、高城さんが提案されたプランが導入されることになって。で、私が現場とプランをつなぐ担当に……柴田さんって先輩が、かなりピリピリしてて……」


 半ば支離滅裂に状況を説明すると、高城はしばらく黙って聞いていた。やがて、深く頷く。

「そうか。柴田さんは優秀なエンジニアだよね、確か。現場の苦労を背負い込んでしまうタイプかもしれない。自分が企画したことで、無理を強いる形になったなら申し訳ないと思う。が……」

 そこで言葉を切り、高城は優香の目をじっと見つめた。

「最初から“無理だ”と決めてかかるのは、それこそ開発者の可能性を狭める気がしてね。新しい挑戦には痛みが伴うけど、その先にしか得られないものがあるだろう?」

「でも、彼はほんとに追い詰められてるんです。このままだと退職も考えかねない勢いで……」

「たとえば、君が柴田さんと一緒にプランを再調整しながら、できる範囲をクリアにしていくのはどうだろう。僕の提案は、あくまでも“ゴールの理想図”に過ぎない。やり方は柔軟に変えていいんだ」


 柔らかな口調の中に、強い確信を帯びた言葉。優香は、ミットを打つときの“痛み”や“恐怖”を思い出す。最初から無理だと思いこんでいたのに、やってみれば少しずつ手応えを掴めるようになった。あれと同じことが、仕事にも言えるだろうか。


 クラス終了後、汗をぬぐいながら吉成がさりげなく話しかけてくる。

「高城さんって、ああ見えてけっこう辛口だよね。挑戦には痛みがあるけど、そこを越えないと次がないって……でも、このジムに来てる人はみんな、その言葉に助けられてると思うよ」

 優香はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。

「私、仕事でも“一歩踏み出してみる”のが大事かも……」


◇◇◇


 夜道を一人で歩く帰り道、頭の中で柴田とのやり取りやプロジェクトの未来像がぐるぐる回る。

 ――“痛みを恐れて何もしない”か、“痛みを覚悟で踏み出す”か。


 自分はもう、何もしないままではいられないと気づく。どんなにこじれた案件でも、少しでも改善できる方法を見つけよう。それこそが「護身術」を始め、自分を変えたいと思ったきっかけでもある。いま苦しいからといって、そこで止まれば何も進まない。


 スマホを取り出し、柴田にメッセージを送る。「提案があるので、明日少しだけ時間をください」。心臓がドキドキして、手が震える。だが、送信ボタンを押した瞬間、肩の荷がわずかに軽くなったように感じた。


 家にたどり着くと、健太はすでに寝息を立てていた。起こさないように静かにリビングへ行き、バタバタの台所を片づける。湯を沸かし、ハーブティーを一口含むと、香りがすっと落ち着きを与えてくれる。


 頭上の照明がふと滲んで見える。自分で決めた“最初の一歩”が、本当に正しいかどうかなんてわからない。それでも、動かなければ何も変わらない。これは、護身術のパンチと同じだ。痛みを恐れていては手応えなんて得られないのだから――。


 夜の静寂の中、優香はぎゅっと拳を握りしめた。いつか、この小さな一歩が“誰かが変わる瞬間”を生むことを信じながら。

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