第2話:最初の一歩、痛みを越えて
仕事を終え、夜の街を少し急ぎ足で歩く。山岸優香は、いつもの自分とは違う行動をとろうとしていた。
――やるなら今しかない。そう思ったのは一昨日、“ドクター高城”と名乗る不思議な男が、路上でトラブルを静かに制圧してみせた光景を目の当たりにしたからだ。
「護身術体験クラス」――ポスターで見た文字がずっと頭から離れず、行くかどうか迷っていた。まさか自分が格闘技めいたことをやるとは。けれど、あの瞬間の“無力感”や“怖さ”をもう味わいたくない。シングルマザーとして、息子にも堂々と胸を張れる自分でいたい。
小さなビルの二階。白い照明のもと、大きな鏡が貼られたスタジオを覗いてみると、すでに十数名ほどがウォーミングアップしている。「初回体験・大歓迎」と書かれた看板を頼りに扉を開けると、少し日焼けした引き締まった女性が目を上げた。
「いらっしゃい。今日、体験の方?」
「は、はい。山岸です……」
「私は吉成。よろしくね。案内するから、そこの更衣室で動きやすい服に着替えて」
予想外に明るい雰囲気だった。キリッとした吉成の笑顔に少しほっとする。着替えを済ませてスタジオに戻ると、周りには老若男女が入り混じっている。高校生くらいの男の子もいれば、ビジネスマン風の人や、いかにも運動慣れしていそうな女性もいた。優香と同年代くらいの姿も何人か見受けられ、心強い。
――ここなら、もしかして私でもやっていけるかも。
クラスが始まると、まずはストレッチと基本的な体操。吉成が指導してくれるのは、パンチやキックのフォームというよりも「咄嗟に危険を回避するための動き」。思ったよりハードだが、参加者みんなが笑い交じりに「キツいねー」と励まし合っている。その空気感がありがたかった。
ミットを使った練習になると、腰を落とす姿勢が甘いのか、バランスを崩してしまった。周囲が温かい眼差しでフォローしてくれるものの、自分の非力さが浮き彫りになる。申し訳なさや悔しさがこみ上げ、心が折れそうになる。
(やっぱり私には無理かな……)
そのとき、ふと視線を感じて振り向くと、スタジオの奥、暗がりのようになっている壁際に見覚えのあるシルエットが立っていた。
「ドクター高城……?」
向こうもこちらに気づき、小さく会釈をする。その笑みは静かで、どこか達観しているようだ。医者ではないと聞いているのに“ドクター”と呼ばれ、人材育成からジム経営まで幅広く手がける謎多き男。まさかここが彼の運営する場所なのか、と察した瞬間、妙な緊張が走った。
意識を奪われたせいか、目の前のミットを持っていた吉成が声をかける。
「大丈夫? 次は思いきり打ってみて」
「あ、はい。すみません……」
深呼吸して拳を握りしめる。ひとつ、ふたつ――恐る恐るパンチを繰り出す。初めは力がこもらず、情けない音がミットに当たる。それでも吉成は「いいよ、腰を回して!」と励ましてくれる。すぐ隣で同じように体験している主婦仲間らしき人と視線が合い、「難しいねー」と苦笑し合った。すると、少し気持ちが軽くなる。
反復練習を繰り返すうち、3発目のパンチでカツン、と今までにない手応えが得られた。
「いい感じじゃない! 力がちゃんと伝わってる」
吉成が嬉しそうに声を上げる。その瞬間、胸の奥でほんのり高揚感が生まれた。これまで味わったことのない種類の達成感。
(私でも、こんなふうに“打つ”ことができるんだ……)
クラス終了後、汗でシャワシャワになった髪をタオルで拭きつつ、吉成にお礼を伝える。
「初心者でもやってみようかなって思える雰囲気でした……ありがとうございます」
「よかった。続けていけば体力もつくし、反射神経も鍛えられるよ。もし気に入ったなら、正式に入会してみてもいいかもね」
そう言って吉成が手渡してくれた案内パンフレットには、ジムの代表名に「高城」とあった。やはり彼だった。
帰り際、ふとスタジオの角で彼と鉢合わせする。高城はスマホで何か連絡を取っているようだったが、優香に気づくと軽く会釈をした。
「今日は体験クラスへ? ……どうだったかな」
どこまでも落ち着いた物腰。優香は少し動揺しながらも答える。
「いや、思ったよりきつかったです。正直、情けないくらい非力で……」
「最初は皆そうだよ。大事なのは、一歩踏み出す勇気。続けるうちに体も心も変わっていく」
「……そうなんでしょうか?」
「確実にね。もし何かあれば吉成に言ってみて。彼女はいい指導者だよ。僕? 僕はちょっと“別方面”を見てるから」
と、明言せずに曖昧な笑みを浮かべる。やはり底が知れない男だ。
夜道を歩き、家路につく。最近、息子の健太は部活で帰宅が遅めだが、今日は既にリビングで宿題を広げていた。
「おかえり。なんか汗くさいよ?」
「うるさいな……でも、悪い気はしないの。ちょっと運動してきたんだ」
「運動? へえ、いいじゃん」
健太は興味なさそうに見えながらも、どこか安心したような表情を浮かべる。
シャワーを浴び、鏡の前で髪を拭きながらふと思う。たった数十分、パンチとキックの練習をしただけで、こんなにも気分が違う。心の中の澱んだ気持ちがわずかに洗い流された気さえする。
(……私、どうするんだろう。これから)
仕事の問題も、息子との将来も、未解決のまま。けれど少なくとも「自分は変わりたい」と行動を起こした一歩がある。そして、その背後には謎めいた“ドクター高城”や、同じクラスの仲間たちが待っている。
――もしかしたら、これが新しい道の始まりなのかもしれない。
夜空にかかる薄明りを眺めながら、優香はそっと拳を握ってみる。あのとき感じた手応えが、まだ手の内に残っている。いつか、この拳がただの護身術以上の“強さ”へ繋がるといい。なんとなく、そう信じたくなる。
明日はどんな朝を迎えるのだろう。まだ何も決まっていないが、人生の歯車が僅かに回り出す予感がする。――誰かが変わる瞬間は、こんなふうにして訪れるのかもしれない。