第1話:朝焼けの片隅で
朝の光が射し込む台所で、山岸優香は慌ただしく食器を並べていた。中学生の息子・健太は寝坊ギリギリ。時計の針はもうすぐ七時を回ろうとしている。三十代半ば、シングルマザーになってから数年。仕事と家事で目の回るような毎日を送るうち、自分がどんな人間だったのか、たまにわからなくなる。
「健太ー! 朝ごはん、食べないと遅刻するよ!」 無言で出てきた息子は寝癖のついた頭を片手で押さえ、かろうじてテーブルにつく。半分あきれ顔で呟いた。 「……なんかさ、最近イライラしてるよね?」 図星を突かれた優香は言葉を失う。この子に当たった覚えはないが、そう見えているのかもしれない。あまりに毎日がバタバタで、ゆとりの欠片も感じられないのは事実だ。
出社準備を慌ただしく済ませ、家を出る。会社は街外れにあるシステム開発会社の小さなオフィス。社員は少ないが、フレックスや在宅勤務にも理解があるため、子育てしやすい環境ではある。だが最近、プロジェクトのトラブルでクレーム対応が増え、優香自身もかなり精神的にまいっていた。
「おはようございます……」 力なく挨拶をすると、社内は妙にざわついていた。どうやら今日から“ある人物”が来るらしい。社長が小声で説明する。 「今回、顧問で入っていただく方なんだけどね。いろんなジャンルで活動されていて……。自称“ドクター高城”って言うんだ」 「自称、ドクター?」 「医者ではないらしいよ。アカデミアで客員教授とか、企業顧問、俳優、さらには格闘ジムも経営されてるとか、なんでもやってる人らしい」
数十分後、社長に連れられて姿を現した男は、四十八歳くらいだろうか。落ち着いたスーツ姿に柔らかな表情。きちんとした身だしなみだが、どこか“異様な空気”が漂っている。 「皆さん、はじめまして。高城と言います。いろいろ顔は持っていますが……まあ“ドクター”と呼んでいただいて構いません。よろしく」 彼が言葉を発した瞬間、優香は奇妙な居心地の悪さを感じた。相手を見透かすような目、柔らかな声の奥に潜む不思議な圧迫感。近寄りがたいが、なぜか目が離せない。
昼休み、優香はいつものように外へランチを買いに出た。コンビニまでの道のりは徒歩数分。ところが今日は途中の路地で、荒々しく言い合う男たちの声を聞く。 「おい、金返せって言ってんだろうが!」 「ちょっ、待って! もう少し猶予を……」 見れば、背の低いサラリーマン風の男性が壁際に追い詰められている。相手は二人組で、いかにも柄が悪そうな雰囲気。優香は咄嗟に足を止めたが、逃げるべきか通報すべきか迷った。しかしスマホで110番する前に、後ろから誰かがスッと通り過ぎていく。 「……困っているようだね」 聞き慣れた柔らかな声。振り返ると、そこには先ほど挨拶を交わしたばかりの“ドクター高城”がいた。彼はゆっくりと二人の男の前に立ちはだかる。 「何だテメェ?」 柄の悪い男たちは、ちらりと高城を見るが、そのまま威圧を続ける。優香は凍りついたように成り行きを見守るしかない。 「大声を出したり、暴力を振るっても解決しない。まずは落ち着いて話を――」 一人が激高して拳を振り上げたが、高城は軽く身をかわす。続けざまにもう一人が襲いかかるが、返り討ちに合うようにあっという間に地面に転がされていた。
そこに警官が駆けつけ、男たちは押さえ込まれた。高城は相手が殴る寸前にうまく動きを制していただけのようだが、その動作はまるで格闘技の達人のような洗練があった。
「大丈夫でしたか?」
取り調べを受ける前に高城は男たちにそう声をかける。どこまでも落ち着き払った態度に、相手は一瞬言葉を失う。サラリーマン風の男性は涙ながらに「ありがとうございました」と頭を下げていた。
一連のやり取りを遠巻きに見守っていた優香は、動悸が止まらない。体が震える。自分には何もできなかった――。いや、むしろ巻き込まれたくなくて傍観していた。
(私には、ああいう“強さ”はない……)
わかってはいたつもりでも、目の当たりにするとショックだ。さらに驚くべきは、会社であんなに柔らかく挨拶をしていた高城が一瞬で男たちを制圧した事実。そのギャップに息を呑む。
午後、何とか仕事を再開するが、落ち着かないまま時が過ぎる。帰り際に社長から耳打ちされた。
「高城さん、やっぱり只者じゃないな……。先ほどの騒動は聞いたかい? 怪我人が出なくて幸いだったよ」
「わ、私、近くで見てしまって……正直、びっくりです」
「実は高城さん、護身術とか格闘ジムの経営もしてるらしいんだ。会社にメンタルや健康管理のアドバイスをしてくれるだけじゃなくて、希望者には軽いトレーニングやセミナーもやってくれるらしい」
頭の中に「護身術」という言葉が浮かぶ。ふと、最近の自分の姿を思い返して、優香は思わず唇をかむ。仕事に追われ、家では苛立ち、息子にも心配されている。どこかで怖れと疲労を抱え込みながら“無力”を感じている自分がいるのだ。
翌朝。いつもの駅前に向かう足取りは重い。しかし、その途中で貼り紙が目に入る。「初心者歓迎! 護身術体験クラス」という文字。ジムのオーナー名を見て、優香は目を見張った。
「高城……同じ人、だよね」
なぜだろう。ポスターの彼の写真は、昨日の凄みとはまるで別人の穏やかな笑顔だった。それでも、あのとき見せた鋭い動きが脳裏に焼きつく。「一歩踏み出すなら、今かもしれない」――優香の心の声は、そうささやいている。
(私にも“強さ”って手に入れられるのかな? そしたら、何かが変わる?)
そのとき、スマホにLINEの通知が入った。息子・健太からだ。「今日は少し早めに帰れるなら、晩メシ手伝うよ」と珍しく積極的なメッセージ。優香はクスッと笑い、背筋を伸ばす。
「……よし。私もやってみようかな」
この瞬間から、彼女の日常はわずかに軌道を変え始める。駅へ急ぐ足取りが、いつもよりほんの少しだけ軽かった。誰もが見過ごす片隅で芽生えた“何か”が、やがて彼女自身を、そして周囲を巻き込み、大きな変化のきっかけとなるかもしれない――まだ誰も知らないが。