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遺影

作者: 雉白書屋

 とある晴れた日の午後。風が吹き抜け、カーテンを揺らす。ベッドの上で上半身を起こして窓の外を眺める彼女は、すぅと鼻から息を吸った。そして、彼女は春の香りに思いを巡らせる。春は出会い、そして別れの季節だと……。

 彼女は今度は息を吐いた。ただし、そばにいる彼に気づかれないように、そっと。彼が動かす筆の音を聞いていたいから。

 しかし、彼はぴたりと手を止め、彼女を見つめる。それに気づいた彼女が困ったように笑顔を作ってみせると、彼もまた同じように笑う。


 ――わかってる。『あたしはもう長くない』なんて後ろ向きなことを考えること自体よくない、あなたがやめて欲しいって思っていることは。でもね……


 彼女は心の中でそう呟き、そしてその言葉を押しとどめる。彼女がまた息を吸うと今度は嗅ぎ慣れた病院の匂いが鼻腔を満たした。


 ――あたしが生きてこの病院から出ることはないんだろうな……。


 彼女は今浮かんだその想いを頭を軽く振って追い払い、そして彼に向かって明るい声で話しかけた。


「どう、よく描けてる?」


「……ああ」


 彼はそう答え、イーゼルに立てかけたキャンバスと彼女を見比べた。

 そして、また筆を動かし始めた。彼女はその音に聞き惚れるように目を閉じ、微笑を浮かべる。


「……ありがとね」


「何がだ?」

 

「わがままを聞いてくれて」


「別に、これくらいわがままのうちに入らんよ。そもそも、絵を描き始めたのはおれだ」


「あら、そうだったわね。でも、みんなに変に思われないかしら。遺影はあなたの描いた肖像画がいいな、なんて」


「変じゃないさ。昔はそれが主流だったってくらいだ」


「へー、そうなの」


「写真がない時代の話だがな」


「うふふ、あたしは絵の方がいいわ。今は、写真写りが悪いから」


「そう……だな……」


「……ねえ、泣いてるの?」


「いや……なんでそう思った?」


「だって声が震えてるもの。ふふっ、でもそうね、あなたの絵をみんなが褒めているところを見られないのが残念。その時には、あたし、もういないし。なんて、当たり前か……」


「おい、また暗い顔になってるぞ」


「ふふっ、ごめん……」


「いや……」


「ふーっ、でも、できれば完成した絵は見たいなぁ」


「……見るか?」


「え?」


「まだ途中だが、ほとんど完成と言っていい」


「あ、そうなの? ふふっ、あなた頑張ってたものねぇ。あたしは幸せ者ね。いい旦那さんを持ってさ」


「よせよ。それで、見るのか?」


「ええ、お願い。ふふっ、なんだか緊張しちゃうなぁ」


「ほら」


「わぁ、すごく……いや、え?」


「よく描けてるだろ」


「うーん、うん、うんうん」


「必ず完成させる。あとこの辺をな、仕上げるだけで」


「いや、え、と、あたしよね? それ」


「ああ、当然だろ。え、似てないか?」


「いや、うん、というか似すぎてる」


「似すぎている?」


「いや、今の状態のあたしと似すぎて、おどろおどろしいのよ! 普通、もっと綺麗に、元気だったころを思い浮かべて描くもんじゃないのこれ!?」


「そう言われてもなぁ。リアリティを追求したいし」


「あなたの主義は知らないけど、いやもう怖! 呪いの絵じゃないの! 何なのその目の下の隈! 頬も黒! いや、盛ってるでしょこれ!」


「ああ、この黒はな、絵の具に近所のドブを混ぜて塗ったんだよ。ははは、ほら、昔二人で歩いたろ?」


「そんないい思い出を語るかのように言われても、うわ、目だって赤いし」


「これはネズミの血を使ったんだよ。ほら、入院する前、家で君を悩ませていたあのネズミだよ。あいつがついに罠にかかったんだよ! はははは!」


「だからそんなゆかりならいらないから! すぐに描き直してよ、いや、ホント怖い! なにそれ、どの角度から眺めてもこっちを見てくる! 怖!」


「描き直してって言われてもなぁ……。言っておくが、同じように描くよ。自分の作風は曲げられないんでね」


「プロじゃなくて趣味でしょ、あなたの絵は! それも定年退職してから始めたやつ! 通信講座の!」


「わかった、わかった。まあ、見てなさい。ほら、化粧みたいなものさ。今は気に入らないかもしれなけど、この上からこう塗っていくと、ほら」


「へぇ……いや、悪化! 腐った野菜みたいじゃない!」


「そうかなぁ、チッ」


「いや、絵を貶されたことを根に持ってるでしょ!」


「ははははは! いや、いいよいいよ! インスピレーションが湧いてきたよ!」


「盛り上がってるんじゃないわよ! その絵を葬式に出したら呪い殺すからね! もおぉぉぉぉぉぉぉぉ!」




 そして、それからほどなくして彼女の葬式の日が訪れた。


「あ、親父」

「おじーちゃん!」


「おお、よく来てくれたね」


 葬儀場にて、彼は息子と孫にそう言って微笑んだ。


「ほら、おじいちゃんに言いたいことがあるんだろ?」

「うん、あの……おばあちゃんの写真、すごくいいね! 笑顔で!」


「おお、そうかそうか。あの遺影はね、パパに撮ってもらったんだよ」


「え、そうなのー?」


 孫が父親を見上げそう訊ねた。


「ああ、そうだよ。おじいちゃんの考えでね。ふふふっ、あの日の二人のやり取りすごかったなぁ。あんなに活き活きとした母さん、久しぶりに見たよ」


「ああ、そうだなぁ。しかし、よく撮れたな。終始怒っていた気がするが」


「ふふふっ、照れてたんだよきっと。本当はどんな絵でも嬉しかったんだ」


「そうかなぁ。まあ、笑顔の写真が撮れてよかった。元気だったころの写真は太りすぎてて、今と違いすぎるもんなぁ、はははははははは!」


「こらこら親父、ははは」

「ふふっ、でも、ぼくはあっちも好きだよ」


「あっち?」


「ふっくらしている、おばあちゃんの絵!」


「そうか、はははははっ!」


 春が終わり、夏が来ようとしている。それは、笑っている彼女のように熱く、眩しく……。

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