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堀切真彦は各支部と東京道場そして付随する権利を金平に譲渡することを決意する。その裏にはある計画があった。

堀切真彦は各支部と道場に関する権利を譲渡する決意をする。会員は反対だが思いとどまらせることができない。琴音は裏に金平の影を感じ、激しく憤る。そして探るうちに堀切の過去の秘密にいきつく。そしてそのためにすべてを捨てたのだと一層の憎悪を金平に抱く。強欲で不正な手段で目的を遂げるその姿は、いつしか夢里きららと重なり、今こそ計画をとめ、息の根を止めなくてはという思いに駆られる。ところがホテルで会った金平から思いがけない言葉を浴びせられる。

第 八 章    堀切 真彦




 晩秋は終わり、モノトーンの冬木立が農場の周囲にひろがっていた。 

僕は、東京道場にいた。金平と重要な交渉をするためだ。応接室に金平を呼び出すと、準備してきた文言を切り出した。

「新生道場を君に譲渡しようと思っている」

 金平は、へたな冗談をきかされたような半笑いをうかべて見せた。きっとせわしなく状況判断をしているのだろう。僕がじっと見つめ返すと、今度はばつの悪そうな表情にかわった。無理もない。与えられたのが罰ではなく、褒美だったのだから。

僕はそんな彼に動じることなく、淡々と用件をのべた。

「君の指摘どおりだった。このままいったら、計画の実現を待たないうちに、債権者に追いかけまわされるようになる。それで決心したというわけだ」

 奴は打ち消すでもなく、冗談を飛ばすでもなく、皮肉なまなざしを向けると、

「提案はありがたいけどさ。俺には買うだけの資金なんてないし、あったとしてもこんなもの買わないよ」

「買ってほしいなんていっていない。譲るとなると君に負担がかかるから、その点はこれから相談すればいい。まあ土地といっても安いし、さほどの金額はかからないだろう。誤解しないでほしい。僕は君に所有地を売るつもりではないからね。売るのは道場そのものだから。噂では、絶品のレトルト販売の計画を立てているそうじゃないか。君は凄腕の錬金術師なんだから、どんなものでも金にするだろう。それとも僕と共同経営をするつもりなのかい」

 奴は再び黙り込んだ。いつもの軽妙さが姿を現さないのは、もちかけた話があまりに意外だったからだろう。もちろん僕との共同経営などさらさらする気はないのはわかっていた。

「瀬原琴音に計画を打ち明けたみたいだな。惚れているからか。それとも彼女を巻き込んで何かやらせるつもりかい」

「そんなんじゃない。反応をみたかっただけだよ。どれほどどっぷりつかっているかをね」

「なるほど。団結のぐあいをみたわけだ。それでは全支部の会員網をうまく使えば、面白い展開になるのはわかっているわけだ。それに僕にはその種のビジネスを手掛ける才はないのもね」                                                                                                                

「きちんと話が煮詰まったら、提案しようかと思っていたんだ。その前にいろいろ調べさせてもらった。まあ。そんな必要なかったけどな。想像どおりだったから。ただ会員の反応が知りたくてね。それで手始めに彼女にぶつけてみたってわけさ」

そうつぶやいた金平は、まるで長年の悪行を告白したかのようだった。

だからいってやった。

「いずれ自分のものとするつもりだったんだろ。一から揃えるのはたいへんだから」

彼はそれにこたえず、考えさせてくれとポーズをとった。たぶん、計画が突然現実味を帯びだし、慎重にならずにはいられなくなったのだろう。

 僕がこのタイミングで譲渡の話を切り出したのは、金平がFXで数千万の損失を出している事実を掴んだからだった。まさに絶好のタイミングだった。彼のとりすました顔をみて、心の底から笑いがこみあげてきた。迷うはずはない。すべては計画どおりだった。

 この事業は利潤をあげることが目的ではない。信者の寄進をもとに肥え太っていく宗教法人でもない。アーミッシュを近代化したアポロに似た共同体だけれど、これもまた本来の目的ではない。僕にとっての「理想の王国」を作り上げることだった。

 金平が口にした、どっぷりとつかっていて生気をしぼりとられているみたいだという指摘は、皮肉にも僕が目指した目標でもあった。

 金銭からの解放は自由をあたえてくれる一方で、すべての自由を奪われるという逆説を会員たちは知らない。快適な生活を守るために、壊したくないために。かれらは僕の方針に従順に従わざるを得なくなる。

 現に彼らは、自腹をきって理想郷を目指している僕の姿勢に畏敬を覚え、批判もないまま受け入れ、実行するようになった。つまり僕は、彼らにとって神になったのだ。それを今となって捨て去るなんておかしいと思われるだろう。でも違う、僕が金平に譲渡を決めたのは「理想の王国」の完成をめざしたからだ。それが達成された暁に、まさしく僕はそこに君臨する王となる。

 金平はさいわい、僕の真の目的に気がついていないようだ。かれにとって僕は、幼稚な正義感と理想に取りつかれた世間知らずの哀れな男にすぎない。

だからいってやった。

― 僕は君とは違う。金儲けには関心がないんだ。だれもが幸せを感じる理想世界を作りたかったんだよと。

奴は僕が断念したとおもっているだろうが違う。その前に重大な優先させるべき事柄があったのだ。

 金平の好みが、琴音にはまったのは幸運だった。

会員によれば、かなり傾倒しているらしく、何やかやと理由をつけて誘っているらしい。  最近有名な割烹につれていったところからもうかがい知れる。

 琴音は以前からうさん臭い人物と考えていたようだが、どうやら金平の意図にきがついている様子だ。ほかの会員たちも、運営の形態がかわるのではといった漠然とした不安を感じている。それでも何もおきないのは、僕に対する忠誠心からだ。万が一の際には教祖が策を講じてくれると信じているのだ。そんな彼らには申し訳ないのだが、もう少しの辛抱だ。

 予想した通り、金平に譲渡されると知らされて会員たちは激しく動揺した。とはいえ、僕に依存している以上、抗議して阻止するわけにもいかない。一方、誰よりも衝撃を受けたのは琴音だった。

 天国から真っ逆さまに地獄に突き落とされた気分だっただろう。誰よりも信頼していた僕からの裏切りだったのだから。おまけに、君には俳優よりもっと重要なミッションがあると言い放ったばかりだった。今、彼女は混乱の極みにいる。僕が恐喝に屈して新生道場を手放したことをふがいなく思い、悶々としている。そして一つの結論にいたった。金平に会って自ら、この計画を阻止しようという決意だ。

 僕は無駄だといって止めた。金平は僕のすべてを奪い取るまでゆすりを続けるだろうからと。それでも彼女は僕の不甲斐なさに失望しながら、いな失望させられたからこそ、諦めきれない気持ちをあおられ、なんとしても金平の野望を阻止しようとしている。そんな助っ人を得たことに心から感謝したいとおもう。

 まもなく彼女は、奴の野望を止める手段は一つしかないことを悟るだろう。そして僕の悲願はやっと成就し、長年の宿痾がこれで終焉を迎える。仮に首尾よくいかなくても、金平は今後、僕にうかつに手出しはできなくなる。そして瀬原琴音にとっては、おそらく人生最大のそして最後の挑戦になるだろう。成功する勝率はゼロか百パーセントのいずれかだ。彼女の勇気をたたえ、精一杯のエールを送りたい。

 そして僕はといえば、名実ともに「理想の王国」の王となる。


 さてきららだがどうするか。

 琴音とは理由は異なるが、彼女の存在は僕にとっても目障りだ。

 格別才能があるわけでもないのに、生まれついての強運をもっている。この点は籔島教授とかさなる。そんな連中を神に代わって、被害者である人間が天誅を下す。公平の原理からはじき出された者の権利と考えれば、何の問題があろう。

 その一方で、本人は自らを強運の持ち主とは知らないまま、妖精という自分のイメージに抵抗し、今はそれを失うことに怯え、訪れる役柄はどれも自分にふさわしくないともがいている。

 それでも降り注ぐ試練をこれまで果敢に乗り越えてきたのだからたいしたものだ。最新作では鬼女に挑戦してそれなりに評価を得て、新たな花を咲かせた。

 演技力がないというコンプレックスが、起爆力となって恐怖をねじ伏せ彼女を前進させている。人間とはつくづく不思議な生物だと思う。運が立ち去るとバトンタッチされたかのようにある種の力が目覚める。これが生命力と呼ばれるものの正体なのか。

 どうやら僕の敵は、この生命力と呼ばれる厄介なしろものにかわったようだ。

 なにしろ正体が見えないだけに、最新の注意をはらってその動向を感じ取らなくてはならない。僕はとどめを刺すつもりで、きららにこう言い放った。

「波長が合うからという理由で選ぶのは禁物だよ。思い込みは催眠術と同じだから。女優として生き続けるために、いやなこと、避けたいことを自分の弱みとして受け止めることが大切だよ。その姿勢を貫いてこそ、大女優への階段をのぼることができるんだ」と。すると彼女は、言い尽くされた若者言葉でも耳にしたような、ちょっと小馬鹿にしたように口の端を吊り上げてみせた。

「大女優になろうなんて全然。なったら心配がもっと増えるもの。今は、目の前にあることを精一杯こなす。それだけ。それを積み重ねていけばなんとかなる。そんな気がしている。『点滴穿石』ってやつね」

 聞いた瞬間、耳を疑った。

 これまで、彼女が言語を通して物事を考える習慣をもちあわせているなんて、考えたことはなかったからだ。僕との対話が功を奏したのか、それとも僕の認識不足なのわからない。ただはっきりいえるのは、彼女との会話が時間の浪費に終わらなかったという点だ。

「今来てる出演依頼の話あったよね。いわくつきの監督だとかいうの、それって格好の機会になるんじゃないのかい。今までのイメージから抜け出れるチャンスだし、これまでと違った視点で学ぶことも多いんじゃない。監督だって、だてに追い回しているだけじゃない。君に、期待に応えてくれる可能性を見出したんだよ。そうだとしたら引き受けるべきだね。ぜったいに」

 とはいったものの、監督について、お騒がせな存在であること以外知らなかったのだが、調べて彼が無類の好色家で、最大の悦楽を追求する破天荒な人物だわかった。 

 僕は歓喜に包まれた。というのは計画を遂行するのに、これほどふさわしい人材はいそうになかったからだ。

それからしばらくして僕の念が届いたかのような衝撃ニュースを目にした。きららがこの監督の映画出演が決まったというものだった。

 監督は芸能レポーターのインタビューに、映画に対する抱負を述べ、これまでにないあらたな夢里きららをお目に掛けますと生真面目に語っていた。その横で、オーヴ色のシースルーのワンピースに身を包んだきららは、役柄の女性に変身したかの如く艶っぽくみえた。

 そんな二人をみながら、ふっといやな気分になった。というのは、僕のスクリーンに二人の不幸の予兆が映し出されなかったからだ。こんな時もあるさと僕は自分に言い聞かせた。念には念を入れて準備をすればなんとかなるさ。スキャンダルを流すタイミングをくれぐれも間違えないようにしなくては…。

 大丈夫。これがうまくいけば琴音に弾みがつくはずだ。僕の誠意だと受け取ってほしい。そして彼女にはやるべき仕事が二つ残されている。きららの凋落とそしてもう一つ金平だ。

 前者は、もう目の前にある。問題は金平の方だ。琴音は来週上京する。その折、二人が出会うようにセッティングしなくてはならない。

九州の地で落ち着きを取り戻し、再び活力を得た彼女にとって、道場という拠り所を失う苦痛と哀しみはぼくにもわかる。味わった憤激は、オーディションのそれよりもまさるものかもしれない。僕はそのパワーを最大限に生かさなくてはならない。

お膳立ては万全だ。その方法は金平のオスの本能に働きかけることだ。僕はこれ以上ないという誠実さを装って語った。

ー 瀬原琴音は、当初僕を尊敬していたが、今は理想を失い、金平のいいなりになった不甲斐ない男。軽蔑する存在へと堕してしまった。かわりに君は存在を増している。野望を達成した頭脳とパワーを備えた魅力的な男に変身した。

 僕はそれを実は歓迎している。会員の中には僕に恋愛感情をもった女性たちが何人もいる。瀬原琴音は唯一の例外といっていいだろう。多分、僕を神聖な存在として崇めているからだろう。そのおかげで、恋愛に躓くことなく、ここまでこれた。

 広報担当としてきちんと仕事をこなしてくれた彼女の働きぶりには深く感謝している。そんな彼女を混沌の渦に巻き込んだことは正直心苦しい。道場を失い僕という支柱を失い。今は先が見えない状況に呻吟している。でもそれももうすぐ終わるはずだ。最後に彼女の晴れ舞台が残っている。もう少しの辛抱だ。

 思い起こせば、彼女の登場は、僕にとっては一大イベントだった。

俳優としての華々しいデビューとなるはずだった機会を砕かれ、絶望の果てに僕の元に彷徨ってきた。そんな彼女のために、再生の道を説いた。あてにならない運に翻弄されずに自分で運を作れと。これには誰も反対しないだろう。ただそれを達成する方法が、一般的ではなかったということだ。

 一方、金平がいずれ道場に目をつけるだろうことは予測していた。問題はどのような手段を使って目的を遂げるかだった。その一人が琴音だった。彼女が金平の好みにぴったりとはまったのは幸運だった。それを活用しない手はない。

 僕は熱っぽく懇願した。

― 道場の運営に力を注いでくれた瀬原琴音を君の手で、俳優としてカムバックさせてもらえないか。君なら人脈も多いだろうから、彼女のデビューに協力してくれるプロダクションを知っているだろう。あるいは君自身で可能ならそうしてほしい。そのためにどんな犠牲を払う必要があるかについては、彼女も理解していると思う。グラビアで男たちを沸かしたのだから、君にとっても魅力的な存在であるはずだ。僕にかわって女性としての欲望も満たしてやってほしい。

 短身で小太りの彼には、スラリとした長身の琴音はまぶしい存在だろうから、最後のフレーズは効いたはずだ。

 しばらくして臨時総会が執り行われた。僕は正式に道場が金平に継承されたこと。新体制になるが、個々人の希望を取り入れて運営をしていくとのことなので、遠慮なく金平氏に相談してほしい。みんなの期待に添えなくて大変申し訳ないが、希望と目標をもって、これからの人生を過ごしてほしい。次に立った金平は、淡々と運営方針を語り、個々人には目標にそった行動と働きを望むかわりに、それにみあう報酬を払う用意がある。今後は自立して生きていくという強い意志をもって臨んでいただきたいと企業の年始挨拶のように結び、ちらっと琴音をみた。

 作戦の第一段階はどうやらうまく運んだ。

 支部長たちには、しばらく様子をみるようにといってなだめ、時間を稼ぐことにした。そしてこれまで汚れ役をこなしてくれた最大の功労者の青年クニには、入念に説明してきかせた。鬱病で苦しんでいた彼を回復させたことで、僕に絶大の信頼を寄せていたし、スローガンでもある「努力が正当な評価を得られる公平な世界」の熱烈な信奉者でもある。

 今回の措置は道場の存続のためにかかせない計画であり、それを完遂できるのは彼しかいないことを説き、彼も納得してくれている。

 そうした矢先、きららからメールが届いた。

 ― 日々新鮮な発見があり、中でも監督は驚きの連続です。これまでひどい誤解をしてきたのでほんとに申しわけなくて。各シーンごとに懇切丁寧に説明してくれるし、気がつかなかったことも沢山教えてもらいました。ほんとにこれまでにない体験ばかりで毎日感激しています。それに日々、殻から脱皮していく自分に出会うのってすごく楽しい。決断を促してくれた堀切教祖にも心から感謝しています。

 読み終えたとたん感電したような衝撃が走った。きららが制御不能のアンドロイドになり果てた。そう思ったからだ。番狂わせは計画にはつきものだ。落ちつけ。あせるなと自分に言い聞かせたものの胸騒ぎがおさまらない。

 こうなったら早急に計画を進める必要があるかもしれない。

琴音にさらに思い切った行為にでるように仕向けよう。それにはもっと大きなスキャンダルを作り上げなくては。さて、流すタイミングはどのようにしたらいいだろう。金平の件が解決してからか。それとも前にするか。いずれにしても、せっかくの話題性が削がれるだろうから、同時にかち合うのだけは避けなくては…。僕は静かに目をつぶり、新たな計画に意識を集中させた。





 第 九 章   夢里きらら

 



 不幸の後には必ず大きな幸運が訪れる。今は本気で信じれる。

これまでぐずついていた気持ちも嘘のように消えたし、全身のかったるさもまったくない。まるで生まれかわったみたい。すべてが軽いのだ。

 出演したおかげで、これまでと違ったファン層を掴むことができた。中には汚れ役のきららなんか見たくないというファンの声もあったけれど、女優として生き続けるにはほかに道がなかった。ほんとに一生分、悩み苦しんだって感じ。これから先どうなるかはわからないけれど、今はなんとかなる。そんな気がしている。

 柊和人監督の映画に出るなんてありえないことだった。スキャンダラスな匂いにはけっして近づかないと決めていたし、出演の話は受けないようにと城山にも念を押していたぐらいだったのだから。

 でも引き受けてよかった。取り巻くあらゆることが激変したから。最大の恩恵は、絶対消えないだろうと思っていた加治木レイナから受けた傷から回復したこと。今ではすべて通らなくてはならなかった道だと、スイッチを切り替えられるようになった。あの時は、頭のてっぺんに丸いハゲまでできて、本気で女優を引退しようと考えたほどだったのだから。思い出すと涙がにじんでくる。

 ふりかえると一つの道しかないと思いこんでいたように思う。でも歩み続ける限り、新たな道がみつかる。それがわかっただけでも大きな収穫だ。

 それにしても縁って不思議だ。柊監督とも、このきっかけがなかったら間違いなく共演なんかなかった。最初、台本を読んでかなりエロい時代劇だとわかって、この種の作品は私にはむかないと断った。すると監督は真剣な顔で「意外だからこそ価値があるんだよ」と譲らない。それで堀切教祖に相談してみた。そうしたら女優として新境地を開けるチャンスかもしれないとアドバイスされて、それでもう一度、気を取り直して台本を読み直してみたら印象がかわって、もしかしていけるかもと思った。

 こんなにあれこれ考えたことはこれまでなかった。いつも城山か、周囲の誰かがかわりに考えてくれていたから。その方がこちらも楽だし、波風も立たない。でも城山が去り、親しい人も離れていっていく中で、一人でいろいろなことをこなさなくてはならなくなった。たぶん、そのせいだと思う。それまでこびりついて離れなかった考えが少しずつめくれていって、いつのまにか妖精のイメージを壊してはいけないという恐怖が消えていた。かわりに、今こそそれにかわる自分らしいイメージを作る時なのだと気がついた。それで流れは一瞬にして変わった。

 台本を読み返すうちに、演じる時尾という女性の性格も幅が出てきて、さまざまな顔がのぞき始めた。妖婦と呼ばれた彼女が愛する男に棄てられ、周囲に翻弄され悪に染まっていく過程をどのように演じ分けていくかが、作品の出来を決める。読み直してみたら自分と重なって泣けてきた。そしてこの時、気がついたのだ。これこそ、女優としての未来を占う試金石になるのだと。

 後はがむしゃらだった。熱意が伝わったのか監督は重要なシーンのつど、どう演じるつもりか尋ね、意図と違うと自らの思いをきちんと説明してくれた。この積み重ねで、演技に対する意識が変わったのだ。

 そして無事クランクアップしての打ち上げパーティーの時、動揺して花束を手渡されると思わず泣き出してしまった。ほっとして嬉しいはずなのに、監督との共演はこれで終わりと思うととてつもなく寂しかったのだ。こんな結末になるとは自分でも信じられなかった。監督からのセクハラもなかったし、そう仕向けられて困ったこともなかった。

 どこか風変わりで、時にエッチで奇抜な言動で注目されているのは、映画の宣伝のためだったのではないか。部類の女好きとも思えないのに、噂がどれもエグイのは、たぶん振り向かれなかった女優たちが、腹いせにスキャンダラスな噂を流したせいかもしれない。そんな風に思えてならなかった。

そして自分も、彼女たちと同じように忘れ去られてしまう存在なのかと思うと、無性に悲しかった。そしてきがついた。惚れてしまったのは自分の方なのだと。とにかくこれっきりなんていやだ。これで終わりにしないために、次作の出演をとりつけなくてはならない。

 打ち上げパーティーは、その絶好のチャンスとなるはずだった。きちんと自分の希望を告げて、次作の出演の起用を促すつもりだった。でもさまざまな人が入れ替わり監督を囲み、監督からは最後に「ほんとにありがとう」と手を握られた以外、会話を交わす機会もなかった。  監督が去ろうとした際、やっとのことで、また監督と一緒に映画を撮りたいと告げた。するとありがとまた連絡をするからねといって別れたのだが、数か月が過ぎても連絡はなく、そのうちに次作の噂が耳に届いた。

 でも、そこにきららの名前はなかった。その一方で半年後に上映された映画はヒットし、時尾を演じたきららは新境地を開いたと絶賛され、初めてその演技力が高く評価されたのだった。そしてこれを機にきららは自分がようやく女優らしくなったのを自覚することができた。

 あれほど苦しめられたスキャンダルが駆け足で立ち去り、ガチンコのバチッという音が祝福するように響き渡った。やっぱりあたしには映画しかない。そのことに気づかせてくれた監督ともう一人、堀切への感謝の思いがこみあげてきた。

 独りぼっちだと思っていたなんて。笑ってしまう。被害妄想だったのだ。自分には、実に強力な助っ人が二人いる。この気持ちを堀切に伝えたくて、長いメールを送った。すると、意味のよくわからないメールの返信があった。

― まずはおめでとうといっておきましょう。人智をはるかに超えた成果をもたらしてくれたようですね。

 もっとすっきりストレートに喜んでほしかった。これでは文句を言われているようにしか聞こえない。多忙なんだろう。仕方がない。予想していた以上の成果に驚いているのよ。きっと。おかしくなって笑ってしまった。次回はもっと驚かせてあげよう。きららは、あらたに舞い込んだ映画出演の依頼の台本を静かに開いた。



  

  第 十 章    瀬原琴音




最近、恋しているように金平のことばかりが浮かぶ。

本人が聞いたらさぞ喜ぶだろう。年齢は三十八歳。

 堀切と連れ立って談笑して歩く姿を初めてみた時は、入会希望者が見学に来たのだと思った。そのうちにどうやら違うときがついたのだが、本人はあちこちの区画に立ち寄っては、いろいろときさくに質問をあびせたり、労ったりしてみせるが一向に自分で畑に立って野菜づくりをする気配がなかったからだ。その様子をみているうちに、違和感をおぼえるようになった。

 小太りで早くもせり出し始めた腹が、お人好しといった好印象を与える一方、語り口は軽妙で思わず乗せられてしまう話術があった。それでもか、それにもかかわらずなのかはわからないながら、琴音の中に芽生えたうさん臭さはずっと続き、堀切がなぜ金平を呼んだのかわからない点もその思いに拍車をかけていた。

 そんなある日、施設をでたところで金平に呼び止められた。僕も町に行くので乗っていけという。断る理由もとっさに浮かばなくて同乗すると、しばらくして、どうして女優やめたのと言い出した。返事をしないでいたら、今度は出演した作品を上げ、スラリとした中性的な女優が好きなタイプでね。続けて君はどこか似ているとハリウッドスターの名前を挙げた。金平のお世辞につきあう気持にもなれず、同乗したことを後悔しだしていたら、ふいにもしよかったら力になるよといいだした。

 驚いて顔を向けると、

「プロダクションに所属していても、やりたい仕事ってなかなか回ってこないらしいね。名優でも一生に一度あるかないかだって対談で話していたよ」

 この種の誘惑はすでに経験ずみだ。だから聞き流せた。ただ気になるのは、どうして金平が今いいだしたのかだった。

「金平さんがここにきたのは、まさかスカウトが目的じゃないでしょ」

金平は声を立てて笑った。

「面白いね。マネージャーか。けっこうおもしろいかもしれないな」

「金平さんがここにやってきたのは農作物を販売するためではないでしょ」

 つもりのなかった言葉がふいに飛び出して、思わず金平の横顔をみた。

「ねぇ。君はこのままでずっといけると信じているのかい。道場が存続して、女優の仕事と両立していけるって考えてるのかな」

「……」 

「教祖もこのままいったらどうなるかってわかってるよ。それで回避するために協力できないか相談を受けたんだ」

 琴音は聞き間違いかと思った。

「そんなこと初耳だわ。教祖からは財政難なんて話は、一度も聞いていないけど」

「いずれ底をつくのは明白だな。ところで君はなんでここに流れついたの。セクハラにでもあって逃げてきたってわけ…」

 ふっと、金平がその理由を知ったらなんていうだろうと思った。

 あの日、ミサキと再会したものの、別人のように変わった彼女をみて驚いた。模範社員のように、礼儀正しく説明する姿に違和感を覚えながらも、今は本音を言えないのだろう。後でゆっくり話そうとおもったのだが、その後、彼女と会うことはできなかった。説明では急遽シンガポールの支部に飛んだという話だったが、当然納得できる筈もなく、戻りたいというと小部屋に軟禁された。

 天井近くに高さ二十センチほどの天窓がついた部屋だった。ベッドと机と椅子、そして二十冊ほどの書籍が並んだ本棚。その横のドアのむこうには洗面台とトイレがあった。部屋に閉じ込められたときは恐怖で半狂乱になった。

 出入りする第三者が聞いて通報してくれるのを期待して、泣きわめいては救いを求める声を四六時中上げ続けた。でも誰もこなかったし、口を塞がれたりもしなかった。

 無駄だとわかり口をつぐむと、ようやくスタッフの「こうした手段でしかあなたを救う手立てがなかった」という説明を受け入れることができた。

 食事は二食。栄養を考慮された一汁三菜が、ドアに設けられた小さな扉から毎回提供された。そしてそのプレートの上には、小さな花が一輪といつも同じフレーズが書かれたカラフルなカードが添えられていた。

― あなたが心の平安を得られますように。そして最善の方法を提供した我々の誠意が届き、理解してもらえますように。

 そこから出て寮生活に入ったのはたしか軟禁から三か月ほどたっていたと思う。スタッフの質問にも素直に応答できるようになり、ついにはカウンセラーらしき人物を前に、これまでのすべてを話し終えると、体内に残っていた毒をすべて吐き出したようにすっきりとした気分になった。

 カウンセラーからは、今必要なのは、利用しようとした人とは無縁の世界にしばらく身を置くことだと諭された。何が自分にとって最善な道なのかを見極め、行動することだ。それがみつかるまでここですごせばいい。衣食住がすべて無償で提供されるのだから。

 そして最後にそっと付け加えた。

 今回の措置は堀切からの提案であり、道場を出奔して以来、ずっと心配して見守り続けてきたこと。教祖の目標は悩める者を救うことにあるのだから、安心してここで暮らしてほしいと。

 迷う理由も、断わる理由もすでになかった。

 金平には、俳優以外の仕事もしてみたくなっただけと適当に答えると、

「教祖は君が俳優の仕事で悩んでいるって知っていたんでしょ。力になってくれなかったのかい」

「……」

「よかったら、大手芸能プロダクションの幹部顔見知りだから、君を売り込んでくれって頼んであげるよ」

 この手の誘惑はすでに経験ずみだ。

 池袋でスカウトマンに声をかけられ、ついていった事務所で話を聞くうちにアダルトビデオの出演とわかって屈辱感で血の気がひいた。やっとチャンスが巡ってきたと舞い上がっていたっけ。

 沈黙が気にかかったのか、金平は話題を変えて自分の生い立ちについて語り始めた。

兵庫県に生まれ、実家は酒造り。三男のせいで、希望する道を無理なく選べたこと。父親は職人気質の典型で金儲けには関心がない一方、新しもの好きで家計は常に火の車だったこと。それが影響して、何より高収入で安定した仕事につこうと考え、そうしてきた。

 堀切とは、大学の恩師を通じてロシア文学の大学教授をめざして助手をしていた時に知り合った。その頃新進気鋭の作家の本を何冊か翻訳していたそうだ。

 帰り迎えにきてあげようというのを口実を設けて断わった。

 俳優という経歴を知っていたのも、芸プロの幹部と顔見知りのような口ぶりも胡散臭い。それに堀切と親しいといっているけど、利害が絡むビジネス相手にみえるし、軽快すぎる口ぶりも、どうもフェイクの匂いがつきまとう。

 その数日後、この思いを裏付けるような情報が耳に入った。

「みっちゃんね。金平さんがスマホでお金を無心しているのをきいちゃったんだって。相手は教祖みたいなのよ」

 ショッピングセンターに買い物に出かけた折、外で電話をかけている姿をみて声をかけようと近づいそうだ。

 みっちゃんとはドメスティックバイオレンスの犠牲者で、入会二年目という会員だ。それをきいて確信した。金平がやってきたのは壊すためだと。

 堀切の資産は相場師だった父親の弟からの遺産だと聞いている。だから金平に金銭的な借りがあるとは思えない。となるとなんらかのトラブルに巻き込まれて強請られている。だから金平が道場に来るというのを断れなかったのだと考えると、これまでの経緯が納得できた。 

 金平が自分を誘ったのも、情報を手に入れるためだった。存続し続けると思うかどうか尋ねたのだって、会員たちは財産を食い尽くす輩と考えているからではないか。彼にとっては所詮負け犬に過ぎないのだ。そして自分もまた所詮、売れない俳優でしかない。

 ふっとはじめて道場を訪れた日のことを思い出した。話し終えると堀切の頬を涙が伝っていた。自分に言い聞かせるように声を詰まらせて語ってくれたっけ。それなのに遁走して傷つけてしまった。教祖はいつも損をさせられる人なのだ。

 ― 悪の力は強いんだよ。いいかい待っていても何も変わらない。そんな真似しても時間の浪費だし、君が苦しむだけだ。だから運にコントロールされるのではなく、先まわりして運を支配しなくてはならない。

こう話してくれたのに、教祖は悪の力の金平に呑み込まれかけている。

 一方、金平はといえば、不可解な行動をとるようになっていた。何日も自室に閉じこもって食事以外は部屋から出てこない日もあれば、すっかり冷めてしまったテーブルに並んだ夕飯を食べて戻っていく。おまけに、夜のミーティングにも出席することなく部屋に閉じこもり、パソコンにむかって何かを調べている姿が通りすがりに目撃されるようになった。こんな姿を見せつけて、誰もが何かが起きるだろうとの予感を抱き始めた。

そうした矢先の日曜日、町に買い物に出かけようとしていたら、金平に突然声をかけられ、絶品料理をたべさせる店をみつけたから行こうと誘われた。一瞬断ろうか迷ったけれど、考え直して助手席に座った。金平は終始上機嫌だった。

「知る人ぞ知る郷土料理の店なんだよ」

「嬉しそう。何かいいことでもあったんですか」

 金平は「まあね」というなり、クルマは広大な田園地帯を通り抜け、一時間ほど走ってようやく到着した。目の前に、歴史的建造物かなと思わせるような庄屋風の重厚な建築物が建ち、看板に郷土料理 美祢屋とかかれてある。

建物の中に足を踏み入れると、煤で真っ黒に艶光している床柱と梁が目にとまった。その威容さに圧倒されていると、

「外見だけじゃないよ。味も絶品でね。店のオーナーが所有する土地で有機野菜を作っていてね。それを食材として使っているんだ」

 切った竹に挟まれたお品書をめくっていると、水色の作務衣姿の若い女性がお茶を運んできた。

「いらっしゃいませ。ようこそおいでくださいました」

金平は顔見知りのようにニコッと笑いかけるとあらかじめ決まっていたかのように、勝手に二人前注文した。

「まず。腹ごしらえをしよう。いつもかわりばえしない食べ物ばかりで、胃にかびがはえかけていたんだ」

 聞いたら調理担当の女の子たちがきっと憤慨するぞと思いつつ、金平はといえば、頬も緩みゆとりの表情を浮かべている。料理が運ばれてくると、朴の葉に包まれ特製の味噌だれがかかった鹿肉を頬張りながら、しきりにうまいを連発した。さすが山奥なので刺身類はでなかったけれど、鮎の塩焼きも野菜の煮物も殊の外美味だった。デザートのピーチシャーベットを食べ終わると、あらたまった口調で金平は切り出した。

「実はね。僕はここを黄金の畑にしようと考えているんだよ。使い続けるだけでは資産も底を尽く。財産というものはね。利益を生み出し続けなければならないんだ。このままでは家出人の溜まり場となって、果てには地域住民との摩擦の温床となってしまうだけだよ」

 舌に残ったシャーベットがひどく冷たく感じられる。

 有機栽培でできた野菜を加工し、味付けしてレトルトパックとして売り出す。計画は格別目新しいものにも思えなかったけれど、料理を担当するのがこの店のオーナーと聞かされて驚いた。日本食がブームの今、香港をはじめアジア市場を足掛かりに世界中に絶品の日本の味を広めるつもりと金平は熱くいきまき、それにつれて押し殺してきた疑念がさざ波のように広がっていく。

 恐喝という文字に喉をふさがれた。いったいどうしてと云う思いが堀切の顔に重なった。金平の目的は金儲けのためであるとはっきりしたものの、それにしても疑問だらけだ。

 手間と時間がかかりすぎるし、大量生産で絶妙な味を提供し続けられるのだろうか。効率重視の金平らしくない。いったい自分に何をさせるつもりなのだろう。。

「ハハハ。狐につままれたような顔しているね。まずは、住人である君の意見を聞いておきたくてね」

 思わず顔を見返した。二重スパイをやらせるつもりだろうか。

「まるで二重スパイになってほしいといわれているみたい。今回の提案は金平さんがもちかけたんですか」

「いいや、教祖からだよ。このまま維持していくのは難しいと気がついたんだろ。いくら富豪とはいえ、利益を生み出し続けなければいつか底をつく。本人も納得した上での同意だよ」

「でもこれまで一度もそんな話なかったですけどね」

「何事も最初の計画通りにはいかないもんだ」

「それで寮も土地もすべて、金平さんの所有になるんですか」

「いずれ誰かの手に渡る。その時期が少し早まっただけだよ」

「突然、雷が落ちて家が燃えてしまった。きっとみんなも同じ思いですよ。それに所有したところで、金儲けにしては効率が良くない気もしますけど…」

 落ち着いてという声に抗うように、怒りが棘となって口先まで出かかっている。そっと金平を見たけど、惚けているのか上の空だ。

「こんな動物保護区みたいな生活続けていたら、人間は腐っていく。ここにいる理由は安心だからにすぎない。まさにだよ。だけどそこから一歩でも出たら生きていけない。所詮人間は自分を支えるのは自分しかいない。これが生きる掟だよ。君も女優をあきらめたわけじゃないんだろ。このままいったら、間違いなく「夢破れて」だな」

 今度はノックもせず、ずかずかと踏みこんできた。

「余計なお世話ですよ。ところで前から聞きたかったんだけど、最初から乗っ取るつもりだったんでしょ」

「こっちも前からいいたかったんだけど、教組に惚れているんだったらあきらめた方がいい…」

「へんな想像やめて。教祖は会員には絶対手を出さない。会員もそうよ」

「へぇー、手を出さないんじゃなくて、出せないのかもしれないな」

 金平の一言一言が神経に突き刺さる。からかっているのか、嫉妬からなのか。いずれにしてもこの男の野望のために、なぜ住処を追われなくてはならない。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   「覚えておいて。教祖の夢は我々も共有しているの。お金の追求とは無縁の世界。だからもう引っ掻き回すのはやめて…」

 言い終えてふっと琴音は背後に堀切の影を感じ、甘美な温かさに包まれた。

「そこまで洗脳されているとはねえ。教祖もたいしたもんだな」

 それから数日間、なぜか金平は姿をみせなかった。

 あらたな胸騒ぎを覚えていたら、坂木に会議室に来るようにいわれた。行ってみるといきなり堀切と何かあったのかと尋ねられ、彼がでていったと知らされた。

「食事に行ったそうだけど、喧嘩でもしたの」

 いつもメロデイーを口ずさむようだった関西弁が、硬く沈んでいる。

「ずっともやもやしていたので聞いて見たんです。そしたら、教祖はここに見切りをつけて手放したこと。それから黄金の場所に作り替えると話してました。だからいってやったんです。心の平安を求めてきた人ばかりだから、もう引っ掻き回すのはやめてほしいって」

 坂木は組んだ両手を祈るように額にあてると深いため息を吐き出した。

「教祖には話しておいたわ。理由がはっきりしないからみんなが混乱するんですって…、だからまもなくきちんとした説明が有るはずよ。教祖と金平さんの関係って何かすっきりしないのよね。友人ではないし、信頼しあっているようにも見えない。みっちゃんの話もあるし、金平さん、客にかなりの損失を被らせて殺されかけたことがあるって聞くしね」

 ずっと抱き続けていた疑問を坂木も同じく感じていたとわかって、ふいに栄養ドリンクでも飲みほしたように全身が軽くなった。

「そうなんです。彼が大金を払って買収したとは思えないし…リトルト食品を売るビジネスを始めるといっているけど、なんだかほかに目的があるみたいで…。反対する人はいずれ追い出すつもりでしょ」

「あれこれ考え始めると悪い方向に向かうだけよ。わたしはしばらく成り行きを見守るつもり。当分、金平さんを刺激しないほうがいいわよ」

 ふいに、惚れたのかいと馬鹿にしたように口にした金平の顔が浮かんだ。きっと嫉妬よ。そう思った瞬間ふっと服部がよぎった。あれ以来音信不通だったけれど、最近、退会したと聞いて、忘れかけていた記憶の断片が甦った。。

 嘘をついてしまったことに後悔は今もない。気丈で仕事熱心な彼女が垣間見せた女としての激情に、琴音の中の女が反応しただけだ。ただあるとしたら、一瞬抱いた疑惑がとるにたらない妄想であったことだ。今となると、むしろ服部の退会は正しい選択だったかもしれない。いずれにしても、事態は望まない方向へと刻々と変わっている。そして琴音も二者択一を迫られている。猶予期間は二か月。その間に身の振り方を決めなくてはいけない。

 もちろん金平が支配する場所にいるつもりはないけれど、かといって再び、コンビニかコールセンターに戻る決心もまだできない。

 それにしてもわからないのは禊を受けなくてはならないのは金平のはずなのに、教祖が金平に天誅を下さないことだ。会員のすべてがこの地に愛着をもっている。手放せない方法があるなら伝えてほしい一致団結して戦うつもりでいる。心情を率直にメールで送信したけれど連絡はない。

 会員たちが一人去り二人去りした寮はどこかうら寂しく、会議室も講堂も伽藍として不気味だ。隈川からは、漆山から報告をきいているのか連絡はない。

 じっといるのも苦痛で久しぶりに、バスに乗って鹿児島駅まででかけた。

天文館のアーケード街に足を延ばし、イオンモールをブラブラして、くるときまって立ち寄るブックオフに足を運んだ。

 百円均一コーナーで面白そうな推理小説を二冊選ぶと、ブラブラと見て回った。外国文学コーナーの棚を見上げると「ロシアの衰退と未来」。ハッとして手にとってみた。堀切が以前自分で訳したと語っていた書名と同じではないか。かなり分厚い。ところが訳者は籔島清人とある。経歴を読むと勤務先と堀切と同じ大学のロシア文学部の教授とある。

 好奇心につられ、合わせて購入すると、近くにあった外食チェーンに立ち寄った。店内はすでに子供連れの家族でいっぱいだった。空き席待ちの椅子に腰かけ「ロシアの衰退と未来」をパラパラとめくってみた。

 類似の本が出ていないかスマホで確かめてみたけれど見当たらない。四センチほどもある分厚さからみても、翻訳するのにかなりの時間を要しただろうことは確かだ。籔島清人。名門とよぶのがふさわしいような格式の高さがうかがえる苗字だ。同じ書名に同じ大学の教授。堀切の上司だったのだろうか。この食い違いは、この世界の慣例なのか、それとも別の理由が隠されているとしたらなんだろう。

 教祖は自らの経歴に箔をつけるつもりで嘘をついたのだろうか。

 以前、世界全集の本当の翻訳者は、別人と聞いた覚えがある。となると助手だった堀切もその一人だったのかもしれない。だとしたらこの仕打ちは屈辱的で無念だっただろう。

 金平は、ここのあたりの事情は知っていたはずだ。もしかしたら教授もたかられていたのではないか。それとも大事な顧客だから見逃した。いずれにしても堀切が被害者である事実はかわらない。だとしたら堀切は同情される身だろうに。それに大学教授の道を諦めているではないか。だんだんこんがらがってきた。頭の回路がラッシュアワーのようだ。自ら手掛けた翻訳本を教授に奪われ、大学教授の道に嫌気がさした。これだとピースがピタリとはまる。だとしたら金平のピースはどこに嵌るのだろう。

ここで再びぷつりと道は途絶えてしまう。

 教祖は自分の名誉回復のために、この事実をSNSで公表できたはず。辞職したとすれば猶更だ。それをしなかったのはなぜなのだろう。同情されるのは教祖であり、金平はこれをネタに教授を脅迫できた。でもしなかった。

 弱い立場の弟子の業績を奪って自分の功績にするなんて、なんと卑怯で嫌な奴だろう。しかも定年退職した際には名誉教授となっている。教祖もその事実を知ったのだろうか。

 ここから何か突破口が見つかるかもと期待して、批判的な書き込みを探してみたけれど、なぜか一つもみあたらない。なぜ糾弾するなり、何らかの手を打たなかったのだろう。知れば知るほど不可解だった。

 その謎の答えを求め続けるうちに、思いがけない事実を突きとめた。

教授の孫が高層マンションから転落死したのだ。死因は事故死。見てはいけないシーンを見てしまったように、体が震えた

 このあらたな事実の発見と並行するように、坂木から、明日、金平氏が説明会を開くので、全員会議室に集まるようにとの指示があった。当然ながら、会員間に動揺が広がった。

―とどまりたければ、ここで働くようにいわれるに違いない。

― 融資となれば収益がなければ返せないから、高めのノルマを課すだろう。

― そもそも利益なんか簡単に出るはずはない。目的は我々を追い出すつもりにきまっている。そのために無理難題を押しつけてくるに違いない。さまざまな意見が飛び交った。

 翌日、金平は予定どおり、全員を会議室に集め、今回の計画について説明した。

といってもあらたな計画に至った推移も、詳細も語られるわけでなく、今後の会の存続のために、これまで無償提供だった諸経費等はすべて自己負担となること。そのかわりに農作業・営業・販売等、担当してくれた人には給金という形で報奨金を支払う。それに賛同できない場合には退所して、自活の道を歩んでほしい。寮に住み続けたい場合には、システムに賛同した上で仕事を継続してもらう。その際、利用費として食費と家賃が賃金から差し引かれる。

 おおかた予想していたとはいえ、会議室は静まり返っている。 

 朗々と話す金平をみているうちに、怒りがこみあげてきて声を上げた。こうした事態になった経緯を何も聞いていない。詳しく説明してほしい。金平は無表情で用意してきた文面を読み上げるように淡々と述べた。

― 教祖とはこれまで今後の運営について話し合いを重ねて、このままの経営状況での継続は難しいとの結論に達した。だから今回の計画の提案は、まさにタイムリーなものであると納得している。

 その時、琴音は確信した。教祖は金平にすべてを奪われ、乗っ取られたのだと。

その夜、琴音は堀切に長いメールを出した。

これまで疑問に感じていたこと。そして真相を知りたいために自分なりに調べてみた。そこからわかったのは何らかの事情で金平にゆすられているということ。そうでなければ、今回の決定には至らなかったこと。

 するとその夜、堀切から電話がかかった。数秒の沈黙の後、深いため息とともに、彼を襲った出来事を静かに話し出した。それは意外にも、琴音が最近知ったマンションから飛び降り自死したという少年の話だった。

少年は友達もなく孤独だった。何度か教授宅を訪れ、遊び相手をつとめているうちに親しくなり、なつくようになった。ところが金平に事実を捻じ曲げられて教授に伝えられ、事実無根の小児性愛者とのレッテルを貼られる羽目になった。少年に事情を説明し、もう二度と来てはいけないと話して聞かせたものの、それからまもなくして、少年は高層マンションから飛び降り自死した。それ以来、金平は教祖をゆすり続けている。

 堀切の声はいつのまにか嗚咽に代わり、沈黙が広がった。琴音もまた聞き終えたとたん、暗闇の中に取り残された。

「僕のことはいいんですよ。ただ少年が哀れでね。濡れ衣を晴らすこともできないまま、死に追いやってしまい、ほんとに申し訳なく、痛恨の極みなんです」

「教授は教祖より金平の話を信じたんですか」

「真実なんてどうでもいいんですよ。すべて彼の筋書どおり。僕を追い払いたかった。それだけです」

「翻訳した本を奪った件ですね」

「ああ、知っていたんですか。でも僕には抗弁する権利がない。少年を死にいたらしめた責任を問われたら弁明できないんです」

「でも教授にも責任あるでしょ」

「そんなこと言ってもどうにもならない。小児性愛者という疑いをかけられた時点で、アウトですから」

 金平に脅され続けた被害金額を聞いてさらに驚いた。

「事業をおこしては、うまく運ばないとせびりにくる。その繰り返しでね。どうにも手の下しようがない…」

「今回もなんか変ですよね。金儲けのために、加工したレトルト食品を売るなんて、手間と時間がかかりすぎませんか」

「金儲けは二の次です。目的は僕の所有しているすべてを奪い取って、支配することです。いずれ宗教法人の帝国を築くつもりなんでしょ。この農場は、そのための第一歩です。なにもかも最初から始めるとなると大変ですからね」

「それでいいんですか…」

「僕は、少年を死なせてしまった罰だと受け止めています」

「でもその罰を金平から下されるなんておかしいです。このまま見過ごしたら、金平は悪事にきがつかないまま、さらに悪事をかさねるに決まっています」

「たしかに言う通りです。でも今回、僕は当事者ですから、彼に禊を下すわけにはいきません。死ぬまでに本人が気がついて、自助努力をしてくれることを祈らざるをえません」

「それでいいんですか。ずっと気づかないかもしれません」

「たしかに。まぁ、彼の死を待つしかないでしょうね」

「そんなのダメです。我々まで追い出そうとしているんですよ。みんなここにずっといたいんですよ」

「わかっています。でも僕にはどうしようもない。本当にみんなに申し訳なく思っています。琴音さんも、これからどうするか考えた方がいい…それとも」

「なんですか」

「彼の何番目かの愛人におさまりますか」

 いきなりアイスピックで胸をさされた。

「彼いったでしょ。君は僕の好みのタイプだとか。彼の常套句なんですよ。彼にとっては、若い女性は利用できる価値があるか、快楽の対象にすぎない。熟女には起業の際に、利益の分配をちらつかせて出資させるんです。外見からは想像できないでしょ。そこがミソなんですよ。色仕掛けだから契約書がない。だから裁判にしようにも訴えることができないんです。いずれにしても、彼の暴走を止められなかった責任は痛感しています」

 

 堀切の告白を聞いたからといってどうなるわけでもない。

 琴音はいつものように六時に起きると洗面を済ませ、食堂に向かう。

 まだ誰もいない。電子ジャーをあけてみたが、きれいに洗ってある。米びつにかすかに残った米を掬うとご飯を炊いた。以前なら炊き立てのご飯と作り立ての味噌汁がすでに準備されているのだけれど、すべて有料になった今、きがついた人間が準備するしかない。琴音は炊きあがるまで、ざっと掃除機をかけ、味噌汁と卵焼きを作って朝食をすませた。

 結局食事を終えても誰一人、姿を現さなかった。会の規律も自然消滅して、各自の行動はバラバラになっている。そしてその先に待ち受けているのは戻りたくない世界だ。

 思い通りになんか絶対させない。

 意識を集中して金平を思い浮かべる。もっと情報を集めておくべきだった。知っていることといえば証券マン時代のしたたかさと、起業するといっては女性を騙して資金を巻き上げた事実ぐらいだ。

 資産のまったくない自分は、さしずめ快楽の対象といったところだろう。引っかからなくてよかった。とにかくもっと調べなくては。何社か渡り歩いていたとしたら、そこから手がかりが見つかるかも。早速、転職の信用調査という名目で元勤務先の人事課に電話してみたが、年月がかなりたっているので資料がないと空振り。他も同様だった。

 かすかな期待にすがって、最後に勤務していたというトモダチ証券の渋谷支店に出向いた。店内に入るとソファーに腰掛け、株価ボードを見つめる高齢の顧客たちがすぐに目に飛び込んできた。一番後ろに座っていた男性に声をかけ、金平を知っているかと尋ねてみた。予想どおり、知らないという答えが矢継ぎ早にとんでくる。それでも粘って聞き込みを続けると、須崎という名前が飛び出した。いつも後場が始まると姿を現すようだ。もうすぐ来るよといわれて待つことにした。

 現れたのは、ジョーン・ウェインを彷彿とさせる長身の男性だった。八十歳ぐらいだろうか。キャップをかぶり、Vネックのざっくり編んだベージュ色のセーターを着こんだなかなかおしゃれな男性だ。しかもバスケットボールの選手だったのだろうかと、つい想像してしまうほど足が長い。先ほど教えてくれた株仲間が琴音が待っていたと話すと、驚いた視線を向けた。

「あれ、まぁ。こんな若い恋人と待ち合わせしていたかなぁ」

 このジョークに軽く微笑んで、信用調査なんですとそっと切り出した。

「信用調査って、彼、また何かやらかしたの。懲りたとおもってたけどねぇ」

「懲りたって、これまでいろいろ問題おこしていたんですね」

須崎はしばらく琴音を探るように見つめると、黙ってソファーに腰をおろした。

話していいのか迷っているとしたら、もう一押しだ。とにかくせっかくの機会を無駄にするわけにはいかない。

「じつは今回は被害も大きいんです」

 須崎はようやく納得したのか、大きくうなづくと、身を乗り出してきた。

「悪い奴に限ってくたばらない。えせ大黒って呼ばれてたよ。あの姿見て、つい信用しちゃゅうんだよね。アル・カポネの面構えだったら、引っかからないんだろうけど…でいくらやられたの」

「今回はお金じゃなくて、広大な土地を乗っ取ろうとしているんです」

「へえー、今度はそっちか。土地ブローカーでも始めたわけかい。将来、すっごく値が上がるとかいって何の価値もない土地を売りつけられたのかい。今、不動産詐欺流行ってるものねぇ」

 脱線しかかって、琴音はあわてて軌道修正する。

「いいえ、乗っ取られかけてるんです。脅されてだまし取られたんですよ」

「その人、女の人」

 ふいに声を潜めた。一瞬迷ったけれど、そうしておこうと決めた。

「気の毒にねぇ。最初は得をさせて、馴れたところでガバッとやられる。ショックで脳梗塞になっちゃった女の人知っているよ。いまでも入院生活送っている」

 その女性はカンボジアの油田の投資話に乗ってやられたという。

「色仕掛けで近づくみたいだな。外見に似合わず女たらしなんだ。好みの女性を紹介してあげるなんて言って近づいてきたからね。とにかく獲物と思ったら、あらゆる手を使って手に入れようとする」

 金平は大口客には規定外の高額の手数料を設けて受け取っていたらしいが、苦情が噴出して、証券会社はその後倒産した。琴音は聞いた話をすぐさま堀切にメールで書き送った。すると気の抜けるような返信が戻ってきた。君の努力には感謝するけれど、今の僕には彼に天誅を下すエネルギーがない。彼は悪の限りを尽くした後、自らの膿によって自滅する。それまで待つしか手段はない。君もこれ以上、彼にかかわるのはやめた方がいい。

 繋がったいたはずのコードが突然プツンと切れ、琴音はコードを懸命に手繰り寄せた。

― 悪事を食い止めるために対抗して戦うべきですよ。これでは悪に屈することになってしまいます。

― それなら殺しますか。そんな真似できっこないでしょ。それより、これから何がおこるかわからないから、護身用と魔除けを兼ねたナイフをおもちなさい。僕の念をいれてあるので、万が一の際にはきっと守ってくれるはずですよ。

 なんでナイフなんかでてくるの。悪いジョークでも聞いたよう。気分は曇天のままだ。

 静寂が不気味さに姿を変え、あるじを失った農場のあちこちで雑草が目立ち始めた。打ち捨てられた区画は早くも野原へと姿を変えている。つくりあげるのは大変でも、廃れるのはあっという間なのだ。眺めるたびに溜息がでる。

そんなある日の午後、坂木にぽんと肩を叩かれた。

 金平から今後どうするか進退伺いのメールが届いたそうだ。猶予期間は一カ月。居残り組は寮費を差し引かれた賃金が支払われ、その意思がないものは退所するか、通勤になる。そしてすべてが有料となる。

「ふるい分けが始まったわ。どうするのこれから…」

「……」

 自分にはまだ届いていない。何かをたくらんでいるか、ほおっておけば、そのうちに出ていくだろうと思っているのかもしれない。金平にどうしてやってきたのと聞かれ、はっきり答えられなかったのを思い出した。

「ほんとにむかつく。やめるかどちらかの二択を迫っているのよね。後からやってきたものに、なんで指図されなくちゃならないんだろう。そっちは行くあてあるの。たしか事情があって逃げてきたんだよね。俳優だったんでしょ。古巣に戻れないの?」

 顔を覗きみられてハッとした。ほとぼりが冷めるまでと考えていたはずなのに、結局、ずるずると歳月が流れた。

「わたしは家族を捨てたから戻れないけどさ。うらやましいよ」

 うらやましがられることなんか何もないのよと吐き棄てるように打ち消したものの、もしかしたらとふと思う。たしかにこれまで俳優として時間とお金をつぎ込んできた。見返りはあまりなかったけれど、それでも蓄積してきた経験と演技力はあるはずだ。それにこれからもずっと農業に携わっていくのと聞かれたら戸惑う。

 数日たっても金平からのメールはなかった。

 そんな時だった。ネットで求人広告を眺めていたら、劇団員募集中の文字をみつけ、久しぶりに心が躍った。

 活躍している地方劇団もあるってきくし、パートでなんとか暮らしていけるかもしれない。芽吹いた希望はすぐに淡い期待へと姿を変えて、膨らみ続けた。おまけに公演が明日から始まるなんてついている。

 その日は朝から落ち着かない。白のTシャツに紺のカラーパンツに着替え、自転車をひっぱって、外に出た。途中、果樹園を通り過ぎようとしたら、数人の仲間が作業していた。居残り組だろう。すでに農場を離れた者の外に、居残り組と琴音のようにまだ決めかねている人間がいる。どちらもなんとなく気まずい雰囲気が漂っている。

 分断。金平はこれも狙っているのだろう。自分に盾突く人間はすべて排除していくつもりだ。琴音は黙って通り過ぎると、三十分あまり自転車をこぎバス停につくと、近くの草むらの中に自転車を横倒しにして隠した。

 

 週末の土曜日のマチネーだったせいか、家族連れだったりカップルの姿ありで、座席は空席を探さなくてはならないほどだった。

 作品は、どこにも採用されず、結局はやりたくない仕事をする羽目になったサラリーマン男を描いた作品だった。集金係とも皮肉られる督促の仕事をまかされ一軒一軒廻って代金を回収していく。苦情、嫌味、皮肉にさらされて、同僚に相談すると、非正規なりの働きすればいい。剥きにならず、気にしないが長続きするコツだ。苦情をすべて受け入れていたら勤まらない。目をつぶるのが生きる道といわれて渋々納得する。そんなある日、無関心ではすまない事態が起こる。生きるとはどういうことか問いかける内容だ。

 テーマは斬新とはいえないものの、笑いあり、涙ありで楽しめた。客席からは笑いも巻き起こっていたし、これからも面白い芝居を興行していくだろう。

 見終わって観客がみんな劇場を後にしたところで、楽屋を訪れてみた。今日の感想と入団希望を伝えるつもりだったのだが、ガードマンらしき男に関係者以外の入室は断っているといわれ、琴音は後で連絡しようと決めて外に出た。

 時計をみるとまもなく五時。早めの夕飯をすませて帰ろうと決め、裏通りにある焼き肉店に入った。中に入ると驚いたことに、石原裕次郎から始まり歴代の銀幕のスターのポスターが壁一面に貼られている。店主が演劇マニアなのか、新劇から映画、テレビドラマと実にさまざまだ。店内も、カウンターの上に置かれたテレビといい、テーブルも椅子もレトロな昭和のセットのようだ。

 サイン入りのポスターもあって、圧倒されながら見回していると、注文を聞きに来たマスターらしき男性が、演劇の関係者がもってくるのでと話し始めた。

「お客さんだしね。だから頼まれたら貼ってあげるんだ」

 順繰りに眺めていくスピードが上がり、見覚えのある顔の上で止まった。

 ポスターの左半分が夢里きららの顔で、右手の黒い部分に、出演者等がかかれてある。

「この芝居は、夢里きららが悪女を熱演していてね。とてもよかった」

 勢いよくテーブルに置かれたはずみで、注文したカルビクッパのスープが揺れて零れた。店主は気づかないのか、そのまま立ち去る後ろ姿をみて、何度かレンゲを口に運んだものの、棚におかれたテレビからドラマが流れだすと、耐え切れなくなって代金を置いて外に飛び出した。

 せっかくのいい気分が台無し…空腹のはずが、怒りで満腹だ。

 スマホをとりだしてタイトルを入れてみた。芸能ニュースでは、これまでになかったキャラクターに挑戦し、芸域を広げたとかかれてある。ファンとみられるブログには、これまでの紆余曲折が彼女の枠を広げて、女優として開眼させたという好意的なものから、これまでの妖精のイメージが失われて興ざめとのぼやきまで。いいねもかなりある。調べるうちに本人のコメントをみつけた。

― ここ数年立て続けに事件がおきて、いろいろかかれました。一時は眠れないほどだったんですけど、ある時、パーンとスイッチが切れて、それ以来、なぜか気にならなくなったんです。これからはイメージに縛られずに、さまざまな役柄に挑戦していきたいと思っています。

 胸が締め付けられて苦しかった。ろくに稽古もしていないのに舞台に出るなんて…。いつのまにか夢里きららに抜かれて、今では走っても追いつけそうにない。恐怖にせっつかれるように足早に歩くうちに中央公園にきていた。芝生が足に心地よくて、しばらく歩き回ったものの、鉛を飲み込んだような気分は抜けない。それを払いのけたくて、そのまま鶴丸城にむかって国道沿いに歩いていくと、むこうから洗いざらしのジーパンにサンダル履きの男が歩いてきた。

― ねぇ。教えて。いったいどこを間違えたの。

男が驚いたように後ろにのけぞって、琴音をまじまじとみつめた。すると再びきららが呟いた。

― 急に、人気が気にならなくなったんです。それまではイメージにしばられて失うことがすっごく怖かったんです。でもそれがある時、突然吹っ切れて、止まってはいけない。誤解を恐れず前に進もうと決めたんです。だから気が進まない役でも引き受けました。きっとそれがよかったんですね。夢中でやるうちに自分に自信がもてるようになったんです」

 近くのベンチに腰をおろしても、きららの記事を追うのをやめられない。そのうちに大きく膨らんだ風船がパチンと弾け跳んだ。人は人、わたしはわたし。かすかにともった灯に追いすがるように劇団の事務所に電話をいれた。

 なかなか出ない。全員、ホールに残っているのかも…ようやく息せききった男性が出た。琴音が団員募集中という記事を見たと切り出すと、舞台経験あるのと尋ねられ簡単に経歴を告げると、九州の人じゃないね、どこからきたの。東京。で仕事は決まっているのと尋ね返され、これから探すつもりとだと答えると数秒沈黙が走った。

「正直、一応生活していけるめどが立っている人だとこっちも安心なんだよね。小道具とか交通費とかすべて自前なのよ。だからこれから仕事探してとなるとけっこう厳しいとおもうけど、それでもいいんだったら…」

 それ以上食い下がる気持ちになれず、琴音は電話を切った。

 巣をはじき出された小鳥のようにみじめだった。これからどこに向えばいいのか。まだ間に合うのか。それとももう手遅れなのか。向こうから、よちよち歩きの男の子を真ん中に挟んで若いカップルが歩いてくる姿を見ているうちに、敗北感が押し寄せる。

やっぱり女優はむいていなかった。そんなことないよ。ここにきて、演劇から遠ざかっているし、チャレンジもしなくなってしまった。落ち着いて考えるのよ。静かに瞼を閉じた。

 浮かんでくる映像は、新作ドラマの記者会見。中央にいるのは自分だ。ヒロインをどう演じたいですか。自信に満ち微笑んで応じている。長身に新しいドレスが美しく映える。フラッシュと質問が飛び変う。割れんばかりの拍手と歓声。才能もないきららだって手に入れたんだもの。手に入らないはずはない。気を取り直して、深呼吸をした。まずは、新しい働き口をさがさなくては。

 ― 資格は何をもっていますか。

 漢字検定とペン字検定が準一級です。子供のころから上手といわれていました。

 ―俳優のほかにこれまでに何をしてきたんですか。

 正直に書くべきか迷う。カルト集団につながる特殊な女とみなされるに決まっている。世間には給与も払えないくせに求人広告をだしている企業もあるというのに。溜息がでる。いつも世間は強い側に味方する。履歴書が頓挫しかかる。

 仕事をしなくてもいい方法は二つ。一つは結婚。もう一つは金平の愛人。それで幸せ?。答えはノー。だったら道は一つ。存続していくための道を選んでほしいと堀切を説得するしかない。教祖だったらできるはずだと。

 返事はすぐに来た。

― 無理をしないでほしい。バタバタ動いて傷つくことはない。もう結果はきまったのだから。金平からメールが来ないのは君をどう生かすか考えているんだろう。君が仕事のできる有能な女性だってことは以前に話したことがあるからね。あるいは男としての欲望が動いたのかもしれない。ただはっきりいえることは、彼は他人を幸福にするために動く人間ではない。利益を生み出さない理想なんて彼にとっては価値はないからね。本人になぜ自分にだけメールがこないのか尋ねたらいい。そうすれば真実がはっきりするよ。

そのメールと同時に、部屋に包装紙にくるまれた品物とメモが届いた。開けてみると小さなナイフだった。手元のボタンをおすと刃が飛びだした。護身と魔除け用で、念が入っていると教祖が話していたっけ。

― 今は事態が混迷を深めているので、使う機会はなくても、持っているだけで安心感を与えてくれるはずです。手元を押せばさっと刃先が飛び出すので使いやすく、果物用としても便利ですよ。お守りとしていつも持っていてください。

 ロックの所を押すと刃がすばやく飛びだした。こんなもの送ってきたりして、きっと教祖も穏やかではいられないのだ。金平が愛人にしようとしているのかもしれないだなんて。

それにしてもあれはどういう意味なのだろう。

「手を出さないんじゃなくて、出せないのかもしれないな」

 やはり直接、本人にきくしかない。金平にメールをだした。

― 他の会員にはメールが届いているにもかかわらず、私にはいまだ届いていません。どうしてだろうと考えるうちに、私にふさわしい仕事を考えてくださっているのではと思えてきました。是非お逢いしてお話を伺いたいと思っていますが、いかがでしょう。ご都合の良い日を教えてください。

 連絡はない。堀切にも同様のメールを出した。金平の元を尋ねるつもりだが、住所を知っていたら教えてほしい。すぐに返事が返ってきた。墨田区本所一丁目。深川プラザ。聞いた覚えがあるなと思ったら木原七恵が浮かんだ。

 たしか彼女も近くに住んでいるはずとアドレス帳を開いてみた。何度か連絡しているけどつながらず、つい数日前には、この電話番号は現在使われていないというメッセージに代わった。胸騒ぎがして、すぐに彼女と親しかった仲間に電話をかけた。

「実は、弟さんが交通事故を起こしてね。相手の人が亡くなったんだって。それで彼女が賠償することになったみたい。身内の責任を全部負うことないよって話したけど、それからしばらくして音信が途絶えたのよ。ふいに連絡を絶ったという感じ…もしかして、噂は本当なのかもしれない」

「噂って何…」

「風俗やっているみたい。キャミソール姿の彼女が店のソファーに座っているのを見たっていうのよ…」

 足ががたがたして、しゃがみこんだ。探して会えたとしても、何もしてあげられない歯がゆさを感じながらも、ひとまず東京にいってみようと決めた。もはや誰かに許可を得る必要はなかったけれど、坂木には一応事情を話しておいた。

 彼女は残ってしばらく様子をみるつもりのようだ。まだ決めかねている琴音にしばらく離れたらいい考えが浮かぶかもしれないと快く見送ってくれた。早朝の安いチケットが見つかって、翌朝東京に飛んだ。


 半年ぶりの帰京だった。大家はもちろん、隣家にも鹿児島に来ていることを知らせてはいない。火災保険には加入しているときいていたし、万が一、何かおきたら、その時はその時と覚悟をきめてだった。

 家に近づくにつれ、見慣れたこけらの大木が、手入れされないまま自然樹形を誇るように生い茂っている。周囲を見回して誰もいないと確認すると、足を忍ばせ、台所の窓からそっと中にすべりこんだ。

 踏んだ板張りの床が柔らかくたわんだ。閉め切っていたせいか、カビ臭いしあちらこちらに痛みが広がっているようだ。それでも食器戸棚も中古のタンスも、ビニール製のロッカーもそのままだった。ほっとして照明のスイッチを入れた。ガスも使えそうだ。もう追跡はあきらめたのだろう。確認し終えると隣家に手土産をもって出向いた。転居した折、挨拶にはでむいたものの、その後、接触はまったくしていない。それでも今は大切にしなくてはならない貴重な情報源だった。

 出てきた老人は人違いかと思えるほど頬もこけ、老け込んで見えた。それでつい御病気ですかと口走ってしまった。

「実は亡くなってね。あまりに急で、ひどいよね」

 しばらくして奥さんのことだとわかった。それはご愁傷様です。寂しくなりますねというと、思い出がこぼれ出たのか一気に話し始めた。こちらの状況をきくゆとりなんかなさそうで退散しかけたら、忘れものを思い出したように素っ頓狂な声をあげた。

「そういえば、数日前、変な男がやってきたよ。買い物から帰ったらドアが半開きになっていたから声をかけたんだ」

 心臓が一瞬止まった。太った頭の禿げた男で片づけにやってきたと答えたという。不動産屋の社員で、名刺は忘れたとかで名乗らなかった。琴音が金平の特長を上げると「しっている人なの」と怪訝そうに返された。どうやら一人できたらしい。

 家に戻ると、そっと三和土を見た。それらしき手がかりがみつかるかもと思ったのだが、シューズボックスの下にサンダルがいつものようにおかれてあるだけだ。金平がどうやってここをみつけたかはわからない。不動産屋だなんて嘘をついて、いったい何を調べようとしたのだろう。二階に上がって、自分の部屋を覗いた。

 一見すると何も変わっていない。壁際におかれた折り畳み簡易ベッド。その横にタンスと古びたライティングデスク。さわったらだめ。指紋がとれてしまう。警察を呼ぶつもりなのと自問して慌てて否定した。そんな真似をしたら逆にこっちが疑われるに違いない。

 ハンカチでそっとひきだしをあけてみた。ボールペンとノート。New York Blueの CDもそのままだ。誰かが触った形跡はない。それをみて、証拠となるような証書か何か手がかりになるものを置いていった方がよかったかもしれないと後悔した。

 ただ事件が、この家で前後して重なったのだから、漆山と金平が関係しているのは間違いない。漆山からこの住所を聞いたとすれば、辻褄があうし、すべてが一致する。女優の卵だということも事前に聞いたに違いない。

 そうとわかったからには慎重に動かなくては。くれぐれも気づいているなんて様子をみせてはいけない。住居侵入罪の外にいくつか致命的な過失があったら、間違いなく金平にとって不利だろう。

 堀切に話してみようか。やはりやめておこう。バタバタ動いても無駄だからというに決まっているもの。ここにきて謎がどんどん増えていく。でも金平のゆすりの理由がわかれば、道場を手放さなくても済むかもしれない。要は、金平の弱点、悪事を逆に利用すればいいのではないか。薄日が差し込んで気持ちが少し軽くなる。

 そうだ須崎さんだったらよいアドバイスしてくれるかもしれない。いてもたってもいられなくなって、その足でトモダチ証券に向かった。予想通り、前回出会った面々の顔がそろっているが肝心の本人の姿はない。どこに住んでいるのかと尋ねて近くにあるタワーマンションだとわかった。どうやら息子と一緒らしい。行ってみることにした。

マンションはすぐに見つかったが、エントランスが厳重で部外者は中に容易には入れない。住人がやってきたら後ろについていくしかないなと考えていたら、折よく、管理人らしき様子の初老の男性がでてきた。

 琴音が須崎の名前を上げ、用件をいうと、本人にコンタクトをとるから、ロビーで待つようにと言われ、しばらくして本人が降りてきた。アロハシャツ姿で大きく手を振って現れた姿は往年の映画スターさながらだ。それを見た琴音の方が照れてしまって、身構えて臨んだ緊張が一瞬にしてすっとんだ。

「へぇー驚いたな。会いにわざわざ来てくれたんだ」

 ふっと気持ちの凝りが溶けて、用意してきた偽芝居がばかばかしくなって、今回の事件についてあらいざらい語ってしまった。ふぅーんといったきり、虫でもみつけたように天井を見つめている。

「だけどその話、なんとなく妙だね。大抵犯人は自分のアリバイ作りに懸命になりすぎて、それが命取りになるものだけど、君の話も似ているよ。首謀者が脚本を作り、君を演じさせている。ストーカーよりずっとタチが悪い。その人間をみつけることだよ」

「それは我が家のドアノブを変えた男ですよ」

「僕は違うと思うな。別にいるよ。彼は踊らされているだけだ」

 別にいるといわれて、琴音はアロハシャツをみつめた。たぶん、想像力もゆたかでいろんな発想を楽しむタイプなのかもしれない。そろそろ退散しなくちゃ。

「思い込みは禁物だよ。人はいったんそうだと信じこむと、軌道修正がなかなかできない。たいていこの罠にはまって判断ミスをしてしまうんだ。僕も若いころ、何回もやられたよ。味方と信じていた奴に騙された経験もある。信じているから真実が見えなくなる」

 真実といわれて戸惑った。透視どもするように静かに前方をみつめる須崎をみているうちに、教祖が重なった。以前、弁解するかのように、自分のことはわからないんだよといっていたのを思い出した。

須崎は見えない世界に目をこらすかのように目を細めて一点をみつめている。

「ひよっとしたら共謀でこの計画を思いついたのかも…お金になる仕事紹介するよといわれ売春をさせられかけたんです」

 そうだ。どうしてわからなかったんだろう。漆山と金平が組むことは十分ありえる。

「でもその男最近現れたんでしょ。音信が途絶えていた親友が突然、連絡してきたのも妙だよね。タイミングがよすぎる」

 いい線いっていたのに、脱輪しかけている。

「実は、今日伺ったのは金平の横領についてなんです。ご存じありませんか」

「彼はギリギリの線をおよいでいるから、被害届がでていなかったら告訴はできないよ。君は彼を阻止したいようだけど、なんのためなの。そこらへんが見えないよ。そもそもぼくからみたらその共同体うさんくさいもんねぇ」

 エンディングはやはりここに落ち着いた。似たような体験をした人にしかわかってもらえない世界。部外者にいくら話しても無駄なのだ。


 帰宅すると疲れがどっと出てきた。金平の件は空振りだったけれど、頭の片隅で、筋書、思い込みというフレーズが飛び跳ねている。

 思い込みだなんて。金平と漆山。他に誰がいるというのだろう。住所は漆山から聞けばわかるし、すぐに調べてみよう。もし二人に間違いないとしたら思い込みの線は消える。いいよと快く引き受けてくれたのは、同じプロダクション仲間の早紀恵だった。

 声に特徴があるため時折アニメの声優の仕事がはいるらしいのだが、生活費はもっぱら新橋にあるとんかつ専門店で稼いでいる。彼女の休憩時間に実行してもらうことに決まり、夜の勤務が始まる少し前の三時に近くのドトールで落ち合った。概略はすでに話してあるが、何がおこるかわからないので、幾通りかの返答を考えておいた。

 まず此方の配属先を聞かれたら社員と答える。用件は例の件で話し合いたいので早急に連絡がほしい。本人は今忙しくて、自分が代理でかけた。等々。どう食いついてくるかで、二人の関係がおおよその見当がつくはずだった。早紀恵は時折あるアニメの声優の仕事が心の支えのようだと話し、琴音もまた近況報告と今日の仕事の筋書を話すと驚いた様子もなく、

「生きているといろんなことあるよね。でも気をつけなよ。しっかり者の七恵もあんなふうになっちゃったんだから」

 わかっていると頷き、やってもらう段取りを説明してスタンバイ完了。あらかじめみつけておいた駅近くの公衆電話からかけると運よく本人が出た。

 早紀恵は緊張するでもなくスラスラと口上を述べた。

「金平の代理の者ですが、漆山さんですか」

「僕だけど、金平って誰。なんの用」

「金平からかけてくれってたのまれたもんですから」

「だから誰なのよ。その金平って」

 彼女はどうするのよというようにノートをつついている。慌てて書き込んだ。

「投資先を探してほしいと頼まれましたよね」

「何言ってんだよ。人違いだろ。頼んだ覚えなんかないよ」

 謝る前に電話は切れた。

 体が震えた。早紀恵も怪訝そうな表情を浮かべている。

「タチの悪そうな奴だね。関係断ち切って正解だったよ。で次は何すんの。他にかけてほしい奴いるの?」

 そう聞かれて、こうなったら金平にかけてみようと決めた。でるかどうかはわからないけど、一か八だとかけるとこれもまた運よく、本人がすぐに出た。早紀恵は投資の達人と聞いたので、アドバイスを得たいと切り出すと、

「誰だって?漆山。そんな名前記憶にないけど、紹介されたって…」

 懸命に思い出そうしているのか、受話器に耳を近づけている琴音には、沈黙がひどく長く感じられた。

「ちょっと思い出さないけど、時間ができたらこちらから連絡させてもらうよ」といわれて、あらためてかけ直すからといって切った。

 二本の空振りを前に琴音は動揺していた。どうやら須崎の指摘は間違っていなかった。早紀恵にお礼をいい、今度、奢るね。といって職場に彼女を見送ると、アマゾンの奥地に迷い込んでしまったような気分になった。引き返すとしても、どの地点から引き返せばいいのかわからない。

 ミサキもまたは片棒を担がされたということなのだろうか。

 どこにいるのだろう。ひどく気にかかった。海外支部のシンガポールにいるとかで、写真と一緒に何回か近況報告のラインをもらっている。ところが閉鎖が決まった直後から、音信が途絶えた。電話もメールも繋がらない。これが異常事態を示しているのか、新たな展開の前触れなのか、不安だけが膨らみ続け、助けを求めるように溝口隆に連絡を入れた。

 するといきなり実はあの後、妙な出来事があったと話し出した。

「泥棒に入られたんですよ。風を入れに行ったら押入れがあいていてね。金目のものはないはずなのに、押し入れの中にあった段ボールが減っていて…」

 きくところによると溝口は、中学生時代から毎日日記をつけていたそうで、それが段ボール、四箱におさめられていたらしい。

「読んでから処分しようと思っていたんてすよ。どうやら書かれてまずいことがあるか、知りたかったんじゃないかな」

 背中にゾグソクと悪寒が這い上がってくる。

「で、すべて持ち去ったんですか」

「いいえ。日付けをたどっていくと、道場に勤務し始めたあたりからなくなってるんですよ」

「警察に届けたんですよね」

 とたんに歯切れが悪くなった。

「弁護士にも相談したんだけど、本人はすでに亡くなっているし、これという被害もなくて、犯人は見当がついていても断定するのは難しいみたいで…」

「で犯人に心辺りあるんですか?」

「新生道場の連中でしょ。何か外部に知られてはまずいことがあるんでしょ」

 一瞬にして血の気が引いた。

「道場に関して、溝口さん、何か話したんですか」

「細かいことは聞いていませんけど、年寄りの財産を狙っているきがして嫌だって。やめるつもりだと話してましたよ。だから余計、自殺は不自然なんです」

 忘れかけていた記憶のピースが繋がった。

 溝口は、高齢者の通帳を預かったままその岡根ママお金をどうしているのかわからないと興奮気味に話していた。教祖に報告するとお金をどうしているのかわからないと話していた。教祖からは事実を確認して厳正に処罰するとメールが届いて、ほっとしたら、その数カ月後、溝口が自殺した。支部の連中が悪事がばれるのを怖れてやったのだろうか。

「で弟さんの方は、大丈夫なんですか」

「ええ、今、手を出したらまずいでしょ。犯罪が露見するから。もしかしたら姉は重要な情報を掴んでいたのかもしれない」

 スマホを握っていた左手が汗でじっとり濡れている。

 支部で反乱でも起きているのだろうか。もしかしたら教祖は造反組の裏切りをしって、道場を手放す決意をしたのかもしれない。そういえば、先日、ウィルスが検出されたとかいう妙なメールが何回か送られてきた。あれはもしかして造反組の警告だったのだろうか。家に侵入してドアノブを取り変えたのも彼らの仕業なのかもしれない。

「実は、今もうろついているみたいで、玄関の横に吸い殻が捨ててあったんですよ。だから墓参りは遠慮します。何かあったらまた連絡します」

 電話が切れて、しばらくしてFAXが届いた。

― 姉は間違いなく何か掴んでいた。もしあなたに何か話していたとしたら、十分用心してください。スマホを乗っ取るのはむずかしくないそうです。そこから遠隔操作で盗撮、盗聴ができますからね。ターゲットにされたら、行動すべてを把握されかねない。これからは電話もメールもやめて、テレグラムで連絡してください。それでは。

 読み終えると、琴音は慌てて、スマホをタオルでおおった。とにかく急がなくてはとせっつかれて、部屋を片づけ、スーツケースを布団の後ろに隠すとゴミの入ったレジ袋をもって、再び窓から外に出た。

 訪れた図書館はウイークデーとあって利用者もまばらで、琴音は気兼ねなくパソコンで情報を集めることができた。スマホの乗っ取りについては聞いてはいたけれど、それは自分とは無縁の世界の出来事のはずだった。でも今ではターゲットは誰彼構わず向けられている。

 検索してわかったのは、個人の情報までスパイウエアを駆使して、簡単に奪い取られる。手口は、GPSや子供の見守りアプリを介してだったり、無料アプリの提供を通してだったり。中でも厄介なのは偽サイトから誘導してパスワードを拭き取る手口らしい。

 餌食になっているのかいないのか、どうやったらわかるのだろうと調べるうちに、ハッキングの調査会社をみつけた。読むと無料相談とかかれてある。

 万が一の盗聴を警戒して、電話番号を書きとって入り口近くにある公衆電話でダイヤルした。受付に用件を伝えると、その後まもなく担当スタッフにかわった。

 どういう用件かと尋ねられて、ストーカー行為に苦しんでいると切り出した。

「何かいつもと違う。とかおかしいなって感じることありますか」

「ええ、充電したのにバッテリーのへりかたが早いなと感じたことが何回かあったし、通信料金も少し高くなっているきがしてます。ただ手口を調べても該当する事柄がないんです。不正なアプリも見当たらないし、サイトに誘導されてパスワードを入れたりもしていません。まったく心当たりがなくて…」

「そうですか。それではメールはどうですか。何回かのやりとりでパスワードを抜き取られるケースもありますけど…」

 その先をきく必要はなかった。女性は最後にきっぱりとこういった。

「我々はハッキングがなされているかどうかの事実はお教えしますが、犯人の特定はできません。ただ調査資料を作成してお渡しすることは可能なので、もし事件ならお客様ご自身で警察に提出していただくことになります」

 なんだか異世界においやられたような気分だった。犯人を突き止める。

 それはドラマの世界の出来事であったはずだ。それが今目の前で当たり前のようにおこっている。厄介なのは、自分が何の事件にまきこまれているのかわからない点だ。さらに盗聴される理由もみあたらない。とにかくすべてがわからないまま、運ばれている。

 もしかしたら、考えているのとは違う、もっと大きな目的が隠されているのではないか。投げ込まれた疑念のストーンは、日毎にその波紋を大きく広げていくばかりだ。

 手がかりは、溝口の自死と日記の盗難にある。となればほぼ間違いなく犯人は道場関連者だ。日記を盗んだのも、情報が漏洩しないためと考えれば筋がとおる。溝口隆も同じ理由で彼らを怪しんでいる。そして自分が狙われたのは、溝口と懇意にしていたという理由からだ。

 ただ、各支部の知っている幹部の顔を一人一人浮かべてみても、犯人を匂わせる人物は見当たらない。そもそもその動機もわからない。金平に言いくるめられたとしたら、待遇の面なのだろうと考えるのが自然なのだが、道場の解散宣言以降、怪しい動きをしてみせる支部も見当たらない。

 暗闇の中手探りで進むうち、須崎の指摘がよぎった。

 ― 話が次々と進んで、まるで犯人は筋書をしっているようだな。

 たしかにミサキからの電話はタイミングが良すぎる。あの時は絶望的で誰かにすがりたい気分だったから何の疑惑も持たなかったけど。再会した彼女はまるで別人のようだったし、話だってほんの一時しただけだった。何か変。戻りたいと思った直後の恐怖が甦った。あれは優しい軟禁だった。落ち着いてきた時、堀切が自暴自棄になって転がり落ちていく自分を見るに見かねてとった処置だったと聞かされて、ようやく納得したものの、それ以来、ミサキとはあわずじまいだ。連絡はメールと電話。もしかして他人のなりすまし。まさかそんなこと。次第にこんがらがってきた。

 何か手がかりはと探すうちに閃いた。一緒にとった写真。スマホを開くとまるで恋人同士のように金平が腕をからませてきたものだ。

 これではっきりする。いそいで勝手口から飛び出した直後、自宅前に見慣れない赤いクルマが停まるのを見て、慌てて樫の木に隠れた。しばらくしてクルマから小太りの男が降りるとドアノブに鍵を差し込んだ。それから大胆にもドアをあけると、そのままドアストッパーを差し込んで開けっ放しにした。

 琴音は慌ててスマホをとりだし男を撮ろうとした矢先、あっと叫びそうになった。振り向いた顔は金平とは似ても似つかない別人だった。

 さらに男は一階の窓をすべてあけ、二階にあがると同じように全室の窓をあけた。どういうことよとあっけに取られていると、今度はバタバタと降りてきた。琴音は思い切って、近づいた。すると降りてきた男と鉢合わせした。

 一瞬、驚いた様子だったが、すぐに満面の笑みにかわった。突然、見知らぬ氏名で呼びかけられ、名刺を差し出してきた。見るとスマート不動産と書かれてある。どうやら見学客と間違えられたらしい。

「今窓をあけましたから、すぐに匂いはきにならなくなりますよ」と申し訳なさそうに呟くと、どうぞというように体をよけると、荷物は前の賃貸人のものだが、決まり次第処分するので心配はいらないと立ち続けに説明し始めた。

 リフォームすれば大変お買い得な物件なこと。ドアノブはすでに交換しているので、前の居住者を心配する必要はない。遺族の方が早く売りたいという理由で、飛び切りの安値になっている。これ以上の掘りだし物件はありませんよと。

「最近、亡くなったんですか」

「先月だそうです。これまで留守番をしてもらうという約束で、賃料なしで貸していたみたいで、今時信じられないでしょ。でも住んでなかったみたいなんですよ。連絡もないし、残った荷物はこちらで処分しますから…」

 琴音は礼をいうと部屋を出た。そしてその日の夕刻、押入れに隠しておいたキャリーケースに衣服を詰め、馴染んだ借家を後にしたのだった。

 駅に向かう途中、コーヒーショップをみつけると人目につかないように店の一番奥にすわった。見回しても怪しげな男はいない。客もまばらなのにほっと一息ついた。とにかく一刻も早く犯人を突き止めなくては。こちらできちんとした証拠を上げれば警察だって無視できないだろう。

 さあ。落ち着いて。順序たてて考えよう。まず金平と漆山がグルの線は消えた。ドアノブの交換も事件とはかかわりがない。残すところは、金平と会員の繋がりとその目的だ。何か見落としたことがあるはず。ノートを取り出し、琴音は二十五年の歳月を遡ってみた。

 最初に浮かんだのは、朝礼で一番最後尾に並んだ自分の姿だ。友達より頭一つ分飛びだして、それが嫌で少し猫背になって立っている。あのころから、常に目立たないようにふるまうのが習慣になっていた。たぶんそのせいで、変身願望が強くなったのだ。

 ちょうどそのころ、課外学習でテレビ局のスタジオを見学しにいった。まぶしいほどのライトを浴びて演じる俳優たちをみて、自分も演じてみたい。そう思った。遠慮しないで自分をさらけだせることに惹かれた。

 場面はかわって初めてスカウトされた日。バラ色の人生の幕開けだと胸躍らせた。でもその夢は白昼夢だった。それでもいつか、実現してみせると頑張ってきた。いったいどれだけのバイトをしてきただろう。薄給なのに高額のレッスンを受け、きついチケットノルマもなんとかこなしてきた。二十四時間。意識は俳優に向けられ、エキストラから舞台の端役、広告のモデル。なんでもやった。それを支えていたのは、いつか誰かの目に留まる。そう信じてやってきた。なのに夢里きららはそれを粉々に打ち砕いた。

 そんな時、出会ったのが堀切だった。

 人生には公平なんかない。不正な方法で手に入れたのなら、神に代わって天誅を下せばいい。あてにならない気まぐれの運なんか頼らずに、自分で運を作る。正直に努力する我々にはその権利がある。それを聞いた時、暗く閉ざされていた窓が開き、新鮮な大気が流れ込んできた。

 そう。あの解放感は本物だった。すべての苦痛から解放されたのだから。そしてたしかに天誅はきららに下された。耳殴打事件。あの時は悪を挫いたスーパーマンにでもなった気分で、同じような境遇に泣いている仲間を助けたととても誇らしかった。

とばっちりを受けた監督はちょっと気の毒だけど、悪事のつけは、いつかまわりまわってくるものだ。マネージャーの薬物事件もそうだ。次々と計画が成就して、不正をただす仕置人であり、教祖いわく、不正に苦しむ人たちを救う救世主になった。それはまた、社会を動かすのは、天でも神でもなく意志を持った人間なのだと実感させてくれた。

 それでもきららは崩れない。悪運が強いというか、別に道をみつけては生き返る。

 その頃、時期を同じくして道場にも、さまざまな事件が起き始めた。道場に貼られた檄文。今でも犯人が誰かはわからない。それにつづいておこった溝口の死。その直後から、自分の身にも様々な事件がおき始めた。

 八木原との出会いと決別。その後の坂を転げ落ちるように起きた怪事件。危険な仕事に手を染めた自分が悪いとはいえ、不運な出来事が続けざまにおきた。そんな困り果てていた時、ミサキから電話がかかった。どんなに安堵したことか。これでようやく穏やかな生活に戻れる。その矢先、金平がぶち壊した。許せないのは教祖まで道連れにしようとしていることだ。

 冷静なふりをしているけれど、ものすごく動揺しているのだろう。

 だって女優よりもっとふさわしい自分の本当の使命は何か悟るべきだなんて、以前なら決して口にしなかった。聞かされた時は動揺したっけ。でも今振り返ると、私を心配してくれたのだろう。これまで当たり前に享受してきた生活がいかに大切なものであったか、失いかけた今はっきりわかる。

 教祖は我々に楽園を提供してくれていたのだ。生活に呑み込まれずに人間としての尊厳をもって生きる園だ。それを金平は非現実的だと馬鹿にし、壊そうとしている。もっと金を生む木に植え替えようとしている。

 弱みに付け込んだ挙句、教祖のすべてを奪おうとしている。

 敵は部下の功績を横取りして、何食わぬ顔でふんぞり返る籔島教授だろうに。

 教祖には諦めずに最後まで戦い、金平と教授の悪を封じ込めてほしかった。でもそれが無理だとしたら自分で行動を起こすしかない。

 金平と教授。この二人が鍵を握っている。そう考えしらべてみたけれど、飽きれるほど何もない。藪嶋教授はリタイア後、名誉教授になっている。きららと似て、どうやら悪運が強い。

 手掛けた翻訳本は三十余り。そのうちの何冊が本人自身によるものなのかはわからない。教祖と同様の煮え湯を飲まされた大学関係者はいただろうが、批判めいた記事も、ヒントとなるような中傷もまったく見当たらない。

 金平にしても、証券マンに関する膨大なトラブルの中に埋もれて固有名詞が出てこない。諦めかけていたら、ある男性のブログがひっかかった。教授を師事し、助手として働いていたらしい。現在はロシア経済協力協会に勤務し、翻訳本を数冊出している。

 電話をいれると運よく本人が出て、大学の闇という特集を組むことになったのでと話を振ると、きさくに応じてくれた。

「堀切さん。覚えていますよ。教授の信任も厚かったのに、突然大学辞めてしまって…でもなぜ今、彼の名前がでてくるわけ」

 琴音は秘密を囁くように教授の孫が自死して当時話題になったようだがと続けると、

「ああ、その件か。噂ではお孫さんがとてもなついていたとかで、なんで自死なんかしたのかって不思議でしたよ」

「大学内で噂になったんじゃないですか」

「いいや、そういう話には敢えて、首をつっこみませんから」

「そうですか。事件の責任を取らせる形で、教授が辞めさせたという噂もあるようですが。もしかしたら以前から、堀切さんを切るつもりだったんじゃありませんか…」

「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれません。本心を出さない人だったから。いずれにしろ彼の立場だったら、そうせざるをえなかったんでしょ。堀切さんの顔を見るたびに孫の事件を思い出すでしょうからねぇ」

「それだけですか。実は弟子の翻訳本を横取りして、それが露見するのを怖れたからという人もいるんですが…」

「そういった類の話はめずらしくないでしょ。僕はそういうこと聞いていたから、教授には伝えないでこっそりとやりました。だからなのか、専任講師になれませんでしたよ。堀切さんはそこら辺の事情を分かっていたと思いますけどね」

 

 夜八時。琴音は歌舞伎町にいた。

スーツケースを引き、疲れたように足を引きずって歩く姿は、恋に破れてさまよう哀れな女に見えるに違いない。時折、何人かの男たちが、すれ違いざま蔑みの混じった視線を送ってきた。其れに応えるように、スニーカーの中で足指が悲鳴を上げた。おまけにキャリーケースを引っ張って歩いているせいで腰まで痛い。それでもあきらめるわけにはいかない。

 夜が濃さを増していくにしたがい、路上には華やかな色彩を着込んだ客引きが増えていく。底厚のズック靴にピンクのフリルのついたワンピース姿の女装した若者やら、首にタトゥーを入れた金髪の面々だ。何人かは振り返って胡散臭いものでも見るような視線に、ひるみそうになるのをグッとこらえて、片っ端からあたってみた。

 一人の少年から、あんた逃げてきたのと尋ねられ、違う。行方不明の身内を探しているのだと写真を差し出すと仲間が寄って来て、そのうちの一人が、子供のビデオや写真をみせるところなら知っていると、裏通りにある古い四階たての雑居ビルを教えてくれた。街はずれといったところにある細長いビルで二階の窓が目張りされている。

 中にそっと入ると、郵便ポストがぽんとおかれて、ところどころが表札が抜けている。それらの中を順繰りに覗いていたら、後ろから太い怒声が飛んできた。

「なにしてんの。変な真似していると小突くよ」

 振り返ると厚化粧したニューハーフだった。どすの利いた低い声といい、かなり年配だ。琴音は間髪をいれず、ここは会員制クラブなのかと尋ねると、胡散臭そうな視線で頭から足先まで何度も往復させるとガムを吐き出すように「背が高いからてっきりそうだと思ったわよ」と妙な返事が返ってきた。

 それでも琴音はひるまず写真をさしだして、この人最近こないかと尋ねると、一年ぐらいきていないわねと即座に返事が返ってきた。気に入った子供がやめたからなのかとたたみかけると「さあね」と首をかしげて、エレベーターに乗り込んだ。


 翌朝、ネットカフェで目覚めた。追加料金が発生する前にシャワーをすませ外にでた。早朝の冷気に思わず身震いして、コートの襟をたてた。朝の新宿は夜の喧騒にかわり、まるで化粧を落としたスッピンといったところだ。昨日出会ったニューハーフは経営者で、堀切は常連客だった。一夜明けたせいでショックは薄らいだものの、少年の墜落と一緒に何かが音を立てて崩れ落ちた。少年愛は疑惑ではなく真実だった。そして金平はその秘密を握り、恐喝を行っていた。そして教授もそれを知って、金平とタックを組んだ。

 すべてのパズルがこれでピタリとはまった。

 大戸屋にはいって五百円朝食を注文した。これで一日は持つだろう。スマホを開くと、溝口隆からテレグラムが届いていた。昨夜おくってくれたのだろう。姉が担当した高齢者たちの遺族が、預貯金が全額引き出されているのを不審に思い警察に届け出たと知らせてきた。事態は急展開へと転がり始めている。引きだしたのは幹部たちだろうか。いずれにして事実が暴露され、まもなく逮捕される。コーヒーを飲み終えると再びメロディーがなった。みると今度は堀切からだ。思わず全身の神経がキュッとなる。

―今どこにいるの。君のことだから、無茶をやっているのではないかととても心配なんだ。大丈夫かな。プロダクションを紹介するっていう話に乗ることにしたのかな。

― それより、実は溝口さんの死に警察は疑いを持ち始めたようですよ。造反組は教祖の説得を無視したのでしょ。だったら教祖には嫌疑はかかりませんよね。でも、金平さんは手を出しにくくなりますよね」

 話しているうちに、体が温かくなってきた。やはり天は教祖を見捨てなかったのだ。

―どうします。金平さんにこのこと知らせましょうか。それとも伏せておきますか」

 堀切は静かに一言。君に任せるよ。


 金平が指定してきたホテルの部屋の前に琴音は立つと、大きく息を吐きだした。

 不思議と落ち着いて怖さはない。あるのは自分にははたさなくてはならない責務があるということだけ。それが大きな力となって自分を支えてくれている。そう琴音は思った。

 チャイムを押すと空いているよと金平の声。

 そっとあけると、金平にいきなり抱きつかれ唇を押し付けられた。こみあげてくる嫌悪感を払うように押しのけた。

「誤解しないで。今日は大事な話があってきたんだから」

「冗談じゃないよ。こんなところにまできて、また蒸し返すのか」

 脂ぎった鼻が目の前にある。落ち着いて事実を話すのよと囁く声に励まされる。

「あなたにも関係があるのよ。横領が発覚して返金訴訟がおきかけているの。遺族が警察に訴えたのよ」

 目の前に恐怖と苛立ちが入り混じった赤黒くゆがんだ顔をしたピットブルがいる。

「あなたが横領を支持したんじゃないかと疑惑がもたれているのよ。警察が捜査に乗り出した以上、自首したほうがいいわよ」

 ピットブルが近づき、舌を垂れていまにも飛びかかろうとしている。琴音はあとずさると、手首を強く掴まれた。

「奴にそういえといわれたのかよ」

「芝居なんかじゃない。真実よ。誰がやったかわからないけど、もし身に覚えがあるなら自首したほうがいい」

「もしそうだとしたら、詐欺にあったのは俺の方だな。被害者だよ。いいか。今回の話は教祖が申し入れてきたんだからな。奴の方から手放したいと言ってきたんだよ。今日だってお膳立てしたのは奴だからな」

「手を放してよ。おぜん立てってなんのこと」

「全部知ってるんだよ。夢里きららのフェークニュースを流して彼女を潰そうとしたんだろ。りっぱな業務妨害罪だぜ。警察に話してもいいんだよ」

 琴音は口の中が乾いて声が出ない。

「何の話よ」

「堀切から全部聞いたんだよ。悪質だし、損害賠償請求もあるかもしれないな」

 騙されてはいけない。負けてはいけないと声が聞こえる。

「へんな濡れ衣被せないでよ。教祖はそんな話をするわけはない。それとも教祖のように霊感があるわけ。いい。そっちは殺人と住居侵入罪よ。日記を盗んだでしょ。わかってるんだから」

 いつのまにかピットブルの形相が恐怖にひきつっている。

「何いってんだよ。住居侵入罪だって、日記ってなんのことだよ」

「何を恍けてるのよ。教祖が手放したほんとの理由しらないみたいね。こっちは、なにもかも見通しているのよ」

「ほんとの理由…」

「とぼけないでよ。造反組を横領させ、それを知った溝口さんを自殺にみせかけて殺させたんでしょ。でもお気の毒。ここまでよ。捕まるのは時間の問題だわね」

ピットブルが乾いた笑い声をたてた。

「何も知らないんだな。奴は君がこれまで夢里きららにしてきた行為を洗いざらい話したよ。止めたけど聞かなかったって言っていた。君を救おうとしたけどできなかったから俺に任せるとな。そもそも霊感なんて、今は、スマホをハッキングすればメールもラインの内容だってわかる。盗聴さえ自由自在だよ。つまり誰でも霊能者になれるってことさ。君は奴のペテンにひっかかった。いったい俺と奴とどっちが悪なのかねぇ。いずれにしろ俺は喚いたこととは無関係だよ。君もどっちが得か考えた方がいい。警察にいって弁解するか、それとも僕に協力するか。いずれにしても教祖は君を売ったんだよ」

そういうなり、琴音をグっと引き寄せた。

 その後、どうなったかはわからない。ただすべてが自分の意志ではなく遠隔操作で運ばれた。勝手に手が動き、気がつくと護身用のナイフが金平の心臓をめがけて、思いっきり深く突き刺された。次の瞬間、強い力で押しのけられたけれど、態勢を整えるともう一度刺した。それからドアに向おうとする背中を倒れるまで何度もつきさした。金平がいつのまにか夢里きららにかわっていた。

 ようやく息の根を止められる。きららが動くのを止めるまで突き刺した。血でぬるぬるしたナイフを床に投げ捨てると、ようやく自分の使命を果たしたような安堵感に包み込まれた。これで、ようやくすべてが終わったと。


 堀切真彦は翌朝、銀座のホテルで六時に目覚めると、すぐにテレビをつけた。ニュースが流れ、女性アナウンサーの声が続いた。

― 昨夜、サテライトホテル湯島で殺人事件がありました。男性は関係者が現場に駆けつけた時にはすでに死亡が確認されました。死因は失血死。同時刻に近くのビル前に女性が倒れているのが発見されましたが、屋上から飛び降り自殺をした模様です。こちらも心肺停止の状況でこの女性が男性殺害となんらかの関連があるかどうか現在捜査中です。

 真彦は洗面のミラーに向って大きく息を吐きだした。

 ― やっと片づいた。

これで自分を苦しめ続けてき宿痾ともおさらばだ。金平よ。地獄でゆっくり休んでくれ。

 琴音は、死して名を残した。女優として最後に大役を果たしたのだから本望だろう。やすらかに眠ってほしい。次は夢里きららだ。

 琴音の遺言を叶えてやろう。さて、こちらはどう始末するか。これ以上勢いづかないようにするために、早く手を打たなければいけない。もっと強い信頼を勝ち得なくては。まさしく、ここが正念場だ。一人の人間を洗脳し損じたらその先はない。どうか琴音よ祈ってくれ。僕の野望が成就することを。人類を征服し、理想の王国を築けることを。

 その願いを聞き届けたかのように、一匹のカワセミがどこまでも続く青い空を飛び上がっていった。           




              


  了






『理想の王国』という名のトリックスターを最後まで読んでいただきありがとうございます。長編なので1から4までの連載とさせていただきました。他人を支配したがる人を辿るうちに、マインドコントロールの快感に至り、さらにその先をたどるうちに社会に対する不公平感、不正を糺せない憤り、強者が正義といった社会の掟に対する憤怒をたどるうちにこの作品が出来上がりました。コメントを頂けると今後の励みとなるので嬉しいのですが。 よろしくお願いいたします。

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