間3 居酒屋にて
「それはまた苦労するだろうな、十和田紀久という男は」
いっそ憐れみさえ感じられる声音で沖田は判じる。
「いくら大金持ちの社長令嬢でも、まともな感性の男なら、そんな逆玉の輿は遠慮したいところだ」
「そんなものかしら?」
「ああ、少なくとも俺なら、自殺騒ぎを起こすような女は願い下げだ。なにより人の話をまともに聞く気がないだろう」
ふむ、と千里は彼女を思い出す。
「そうね、確かに自分に都合の悪いことは完全拒否する人だったわね」
「聞けばまだ若いとのことだったが、当時幾つだったんだ?」
「えーと、大学三年生だったから、二十か二十一かな。一年くらいアメリカに留学してて、その間にわたしと紀久さんのお見合いがあったものだから、ギリギリまで知らなかったみたい」
「なるほど。で、今その二人はどうなってるんだ」
「…知らないわ、ただまだ結婚はしてないみたい。歩美さんは大学を卒業してから、どこかに就職したって話は聞かないから、今頃花嫁修業でもしてるんじゃないの」
生中はいつの間にか日本酒の冷やになっている。
北陸の銘酒だというそれをちびちびと呑みながら、千里の話は続く。
「紀久さんとの婚約が無くなって、わたしは営業所から転勤することになったの。まぁあそこにいたら色々気まずいことになってたしね」
「それが、今の名古屋支社か」
「そう、一応栄転よ」
名古屋支社は中部圏の総まとめを請け負う大切な拠点だ。
「そうだな、主任から課長補佐だからな。しかも実際の仕事はほとんど君の功績だろう。あの課長は縁故によるご祝儀人事みたいなものだからな」
「それを知ってるんなら、もうちょっとなんとかならない?本当に仕事しないんだもの、あの人」
「それについてはこちらも色々考えている。心配するな」
「本当かしらね」
「で、四回目はいったいどういう状況だったんだ?」
沖田は容赦なく問う。
「いかにもな話題転換ね」
「別そう言うわけでもないんだが」
「まぁいいわ。四回目――四回目ね」
「まだ最近のことだったな、半年前か」
「ええ。でも実際に事が始まったのは、一年前かな。名古屋に来て、いくつかの仕事がうまくいった頃のことだったわ」
「ほう。確か君の名前が俺のところにまで聞えてきた頃だな」
「それはどうも。ええ、ある意味仕事に脂がのってた時期だったわ」
そこでグッと杯を傾ける。
「長期のね、休みシーズンがそろそろ来るかなって時に、突然実家から電話があってね」
ほとんど連絡を取らなかった実家だった。その時点でなにか嫌な予感はしたのだ。
「なんでもいいから帰ってこいって、やけに慌てた様子だった。当然断ったわ」
そうしたら、とんでもないことを言われたのだ。
「本家からのお呼び出しがかかったのよ」
あまりにも意外だったので、しばらく反応できなかったとぼやく。
「しかもその理由っていうのが、本家の末息子と結婚しろってんだから。何が起こってるんだか訳が分からなかったわ」
酒を再び呷って、大きく息を吐く。
「本家?さっきも言っていたな」
「ああ、その辺から説明した方がいいかしらね」
ちょっとややこしいんだけど、と千里は呟く。
「わたしの実家は曾お祖父さんの代で分家した家なの。元々の本家っていうのが、代々土地を治めてた有力者の家系でね、ご近所じゃなくて隣の街に結構な邸宅を構えてるわ。でね、そこの当主である大伯父ってのが、典型的な昭和の頑固おやじ、この令和の世にそぐわない価値観で生きてる人でね」
「ああ、年配の人にはまだ多いな」
「ええ、もういい年よ。うちは別に本家に従う義理はないんだけど、やっぱり立場的にどうしても意見を聞かなきゃならなくて。昔は、わたしの代になったらきっぱり縁を切ってやるって思ってたわ」
そんな当主が幅を利かせているものだから。
「わたしが婚約を破棄された時、一番大騒ぎしたのも本家だったわ。あちらの価値観で言うと、わたしはもう立派な傷物で、まともに明るい外を歩くのも恥ずかしいんですってさ」
その時はまだ最初の婚約破棄だった。別に男と別れたくらい、世の中にはありふれているし、なんなら離婚だなんだも珍しくない時代だ。
「あまりにも馬鹿々々しかったものだから、家を出る直前、わざと真昼間に手土産持って訪問してやったわよ。でもって、もう二度と会うこともないだろうって、古い考えをこれでもかと当てこすってやって、かなり嫌われてきた――つもりなんだけどね。ええ、悪びれることなく堂々と玄関から入って座敷で挨拶してやったわ。ついでに仏壇にもお線香をあげて拝んでやったわ」
日頃偉そうにしている者ほど、正面切って喧嘩を売られると身動きが取れないらしい。
「大伯父は平気な振りしてたけど、顔が引きつっててスカッとしたわよ。後で本家の息子に、祖父はもう年なんだから、血管が切れそうなことはしないでくれってぼやかれたわ。もっとも、その直後に『グッジョブ!』とか言って親指立ててたけどね」
二度目の婚約破棄の時、ことさら騒ぎ立てたのは、この時の腹いせだったのかもしれない。
だが地元を離れた千里には無縁のはずだった。まさか何年もたってから、醜聞まみれでもういい年の彼女を嫁に迎えようなど、想像もしなかった。
「ええ、もちろん訳があったわよ。それが、四回目の婚約につながったの」
本当に、あれはとんでもなくアホらしい話だった。