3回目 営業所
三河営業所に行ってからのわたしは、ひたすら仕事に打ち込んだ――ってわけでもなかったのよ。
そりゃね、さっきも言ったけど、ここで実績がつかなきゃやってられないって思いはあったから、精力的に動きはしたわよ。
でも、あの茜さんの無茶ぶりの後だったでしょう。
仕事漬けで、休みの日までいつ呼び出しがかかるかわからない、みたいなブラック状況にまた陥るのだけは、勘弁してって感じだったの。
だからオンオフを徹底したわ。営業所の所長ともきちんと話し合って、できる限りホワイトな勤務状況を作ったの。
まさかそれが評価の一つになるなんて思わなかったけどね。
そしてね、仕事だけじゃなく、自分なりにやりたいことを探して趣味を楽しんで過ごすようになったの。
そうやって心身ともに余裕をもってみれば、そっちの方がずっと仕事もはかどったわ。
おかげで大きな企業との取引をまとめることができて、今までとは違うやり甲斐で仕事に打ち込めた。
で、わたしも一応主任っていう役職をもらえて、大企業である十和田通商の桐本社長夫妻と親身なお付き合いができるようになってたの。
ええ、そうよ。
十和田通商はあの十和田グループの中でも大きな会社よね。主に輸出入の取引で莫大な利益を上げてるわ。
その中に喰い込めたのは、本当に運が良かったんだけど。
ちょっとね、桐本社長御夫妻って、いわゆる仲人好きなところがあって、それまでにも色んなお見合いを仕掛けては、結婚まで持っていくっていうことを繰り返していたらしいのよ。
で、その夫妻の趣味に、わたしが引っ掛かったわけ。
でもまぁ、かなり優遇されたと思うわよ。
なにしろ、独身の部下とか取引先の誰それさんとかじゃなくて、本家筋の甥御さんを持ち出してきたんだから。
わたしなら親戚付き合いしてもOKって、認めてもらえたわけよ。すごくない?
そりゃそうよ、最初はきっぱりとお断りしたわ。相手がどうのこうのじゃなくて、もう結婚だのなんだのはゴメンなんですって言ってね。
でもあのご夫妻、なんだかそういうのにこだわりがあるというか、人の幸せは結婚にあり、みたいな主義でもって迫ってくるものだから、こっちも仕方なく過去二回の婚約破棄のことを告白したの。
そしたらね。
呆れられるかと思いきや、『なんて不運なんだ、そんな非道な過去はきっぱり忘れて、幸せになるべきだ!』とか声高に叫ばれちゃって。
遂には『任せておきたまえ、君のためにとっておきの縁を紹介しよう』てなもんよ。
正直、困り果てたわよ、ええ。
でも、営業所の所長まで巻き込んで、是非にって見合いを迫るのよ。もうどうしようもなかったわ。さすがにこれ以上拒否して、仕事に支障が出たらまずいって思ったしね。最悪、会うだけ会って断ればいいかと――まぁ、桐本夫妻の押しに負けたのよ。
で、釣り書きを見たら、驚いたのなんのって。
だって本家のご当主、あの十和田会長の孫息子だっていうんだもの。まさかまさかの大物だって、所長まで顔が引きつってたわ。
それが、三人目の婚約者になる十和田紀久さんだったのよ。
そもそも桐本夫人は十和田会長の娘なの。あ、それは知ってるのね。
じゃあ、紀久さんのお父様のことは?
ええそう、十和田会長の息子さんで、20以上年前に事故で夫婦揃って亡くなったんですってね。
忘れ形見だった紀久さんは、お祖父さんに引き取られたそうなんだけど、忙しい会長さんに代わって実際に面倒を見たのは、伯母とそのご主人だった。つまり、桐本社長夫妻よ。
だから彼は十和田姓のままだったけど、桐本夫妻が親代わりって環境で育ったのね。
そう言うわけで、ある意味断れない話だったのよ、お互いにね。
ええ、わたしも――なんて言うかな、こうビビッと来るものはなかったわ。
初めて会ったのは、桐本社長行きつけのレストラン。お金持ち御用達の、すごく立派な――まぁいわゆる星付きのお店よ。
お互いスーツ姿で名乗り合って、みんなでお食事して。そうね、敢えて言うならほのぼのした出会いだったわ。
それから、まぁ後はお若い二人でってありがちな展開よ。
最初は本当に会話が続かないというか、なにを言えばいいのかわからなかったわ。だって、就職してからこっち、紀久さんみたいな学究肌の人なんていなかったもの。
彼も彼で、自分の専門に関してならいくらでも喋れるけどってタイプで、間が持たないったらなかったわね。
それなのに気づけば、結婚しましょうそうしましょう、って流れになってたんだから、本当何が起こるかわからないわよねぇ。
どうしてって…。
その、一緒にいても嫌じゃなかったから、としか言いようがないわね。
確かに最初はぎこちなかったけど、彼の『これ、美味しいですね』とか『いい天気ですね、空が青い』みたいな、何気ない感想?みたいなものがすっごくイイ感じでね。
わたしもわたしで、『飾ってあるお花、とっても綺麗でセンスありますよね』とか『猫と犬なら猫の方が好きなんですけど、トイプーが可愛くて』、なーんて、とにかく仕事とは全く関わりないほのぼのした話で楽しめて、段々話も弾むようになったのよ。
そういうところが楽だったのよ。まぁ敢えて言えば癒し系ってところね。
え?まさか。そんなわけないじゃない。
玉の輿に乗るんなら、もうちょっとビジネスに意欲的な人を選んでたわよ。
紀久さんはお家こそ凄かったけど、本人はただの学者だもの、お給料だってそれほどじゃなかったわ。
ご両親の遺産はそこそこあったけど、研究費に大分つぎ込んでたし、大勢のお子様がいるお祖父様の遺産なんて当てにならないだろうしね。
もしこのまま結婚したら、当分はわたしが家計を支えなくちゃならないだろうなぁって、覚悟したほどよ。
過去二回もの破棄騒動があったから、今度こそって気持ちはあったけど、同時にもう注目はされたくないっていう気もあって、実家には敢えて詳しい報告はしなかったの。
取引先の関係でお見合いしたって報告したけど、その先は結果が出るまでなにも言わなかったわ。
ま、それが幸いした――と言えるかもね。結局ダメになったし。
なにがあったかですって、もうすごい修羅場だったと答えるしかないわね。
いいえ、わたしたちが揉めたわけじゃないわ。
それどころか、最後の最後まで紀久さんは柔らかい人だったわ。わたしに対しても紳士的と言うか、優しい人だった。
でも、それが裏目に出たのよ。
彼の優しくて争いごとを嫌う性質が、あの大騒ぎの基になったんだから。
どういうことかって、まぁ聞いてよ。
結婚しますってことになって、当然ながらお仲人さんは、桐本御夫妻にお願いすることになったの。
ご両親のいない紀久さんや、できる限り家族には関わってほしくないわたし。
そんな二人にとって、桐本御夫妻は正に親代わり。十和田の親戚に対するアレコレも含めて、いろんなことをご指導していただいてたわけ。
そんなこんなで何度目か、桐本邸に紀久さんとお邪魔していた時よ。
突然すごい勢いでリビングルームのドアが開けられてね、若い――二十歳そこそこの女性が飛び込んできたのが、始まりだったわ。
そりゃびっくりしたわよ。
桐本邸にはそれまで何度も訪れてたけど、そんな無作法なことをする人なんていなかったもの。
わたしはなにがなんだかわからなかったけど、紀久さんも桐本御夫妻も、闖入してきた彼女をよく知ってたわ。
当然よね。
それが、桐本御夫妻の娘、歩美さんだったのよ。
桐本社長御夫妻には二人の子供がいて、長男はすでに結婚して別居、長女はしばらく交換留学生として外国にいたんですって。
で、帰国する直前に、紀久さんの結婚話を聞きつけたんですって。
そこで見事にキレたらしいわ。
聞けば歩美さんは、小さい頃から紀久さんをものすっごく慕ってたんだとか。
実のお兄さんよりずっと懐いてて、小学生にして『歩美がのり兄のお嫁さんになってあげるね』なんて宣言していたそうよ。
まぁ、よくある話ではあるけど。
それが、大人になるまで変わらないってのはどうなのかしら。
当時紀久さんは高校生。そりゃあ笑って『うれしいよ』っていなすのは当たり前よね。そしてそれから十年。アレは本気で今もその気満々です、あの時喜んでくれたじゃないって言われても、ねぇ。
飛び込んできた歩美さんは、驚くわたしにも戸惑うご両親も目もくれず、まっすぐ紀久さんに向かって突き進んで――その時の彼女をどう言い表せばいいのかしら。
元々好いていた相手に惚れ直したっていうべきなのかしら。
人が恋する瞬間っていうものを、まざまざと見せられたわ。
思えば早百合の時も茜さんも、わたしの婚約者たちに落ちた瞬間なんて見なかった。いえ、見ていたのかもしれないけど、気づくわけもないわ。わたしはわたしなりに彼らを見据えてて、他の女なんて眼中になかったもの。
でも、歩美さんは違った。
紀久さんを視界にとらえた時、もう彼女の世界が彼だけになったっていうのがわかりすぎるほどにわかったの。
あ、ヤバい。そう思ったわ。
過去に二回の経験があったせいかもしれない、ただ単純に女としての勘かもしれない。とにかくこの若い女性は危険だって、瞬間的に悟ったのよ。
ええ、もちろん大当たりだったわ。
桐本家の歩美さんは、ものすごく厄介なお嬢様だった。なにしろまともに話が通じないんですもの。
ご両親には泣きそうな子猫、紀久さんには甘えたな雌猫。そしてわたしには、牙を剥いた女豹だったわ。
会ったその時から泣くわ喚くわ。なんでどうして自分との約束を破るんだと叫んだかと思えば、紀久兄さんしか好きになんてなれないって泣き出して。
わたしはただもうポカンとその騒ぎを見ているしかなかった。
で、ひとしきり騒ぎ終わったと思ったら、いきなりギリッと睨んできてね、『紀久兄さんから離れなさいよ、この泥棒猫!』ってなもんよ。
あまりと言えばあまりな事に、一瞬対応が遅れたわ。それが隙になったのよ。
涙いっぱいの顔が夜叉の如くになって、わたしにつかみかかってきて、気づいたら思いっきり殴られて長椅子から吹っ飛ばされてた。
運の悪いことに、倒れこんだ先にテーブルの角があって、物の見事に流血沙汰よ。
その後は、とにかく大騒ぎだった。
なにしろ殴られた挙句、頭を打って出血でしょう。しばらく朦朧としたこともあって、すぐに病院に担ぎ込まれたわ。
幸い大したことはなくて、ちょっと皮膚が切れただけだったんだけど、病院では診断書を出しますから訴えるならどうこう、とか言われるし、念のため一晩入院していた私のもとに、桐本夫妻は弁護士を連れて謝罪に訪れてくださるし。
でも歩美さん本人と紀久さんは来なかったわ。
聞けば歩美さんは完全に常軌を逸してしまい、金切り声を上げて暴れまくったんですって。
え?どういうことかって。
――あー、倒れたわたしに、さらに襲い掛かろうとしたんだとか。それを桐本社長と紀久さんが抑え込んで、桐本夫人が救急車を呼んで。
で、歩美さんをなんとか自室に押し込めたんだけど、今度は紀久さんを捕まえて放そうとしない。泣いて喚いて、貴方が好きだ昔みたいに自分だけを見てくれって、まぁ一応成人した女性とは思えないほどの癇癪をおこしている状況だったんですって。
呆れるのはわかるわよ。
桐本歩美さんっていう人は、良くも悪くも甘やかされたお嬢様だった。日本有数の大企業グループ、その中でも上位に位置するお家の長女だものね。
そう意味では茜さんだって同じだけど、彼女は自分の力で世間を渡ろうとした苦労人でもあったから、なんて言うかな、同じ目線で付き合えたのよね。苦労はさせられけど。
でも、歩美さんはそうじゃない。
甘やかされて優先されるのが当然で、希望を叶えてもらえないってことは、それだけで非常識そのもの。彼女にとって恋路を阻むわたしは犯罪者に等しかった。
だからと言って、許されるものじゃないでしょう。
歩美さんのやったことは傷害、いえ殺人未遂よ。診断書もあるし、わたしが出る所へ出たら確実に警察沙汰、下手したら懲役刑よね。
病室に来た桐本夫妻は、もう土下座せんばかりで。お願いだから表沙汰にはしないでほしいと、泣いて頼まれたわ。
一緒に付いてきた弁護士さんは、示談金ならこの位とか、このまま裁判などになったらこれこれこういうデメリットがありますよとか、頼んでもないのに説明してくれて。
茜さんの時と言い、どうもわたしにとって弁護士って存在は鬼門だと、げんなりしたわね。
結局わたしは、訴える意思なんてないって伝えて、示談を受け入れたわ。ただし、歩美さんをきっちり監督してほしいって条件付きでね。
示談金だの慰謝料だのも不要だってきっぱり伝えた。そんなものをもらって、関係がギクシャクする方が嫌だったし。
でもね。
後でつくづく思ったわ。あの時いっそ歩美さんを訴えて、公権力に引き渡した方が良かったんじゃないのかって。
そうすれば、無駄に甘やかす人たちから離すことができて、その後の騒ぎもなく、歩美さん本人にも必要なお灸を据えることができたんじゃないかしら。
ええ、騒ぎはそれでは終わらなかったの。
わたしはすぐに退院して、通院も長くなかった。紀久さんとはその間時折会って、まぁそれなりのお付き合いはしてたけど、結婚の話は進まなかったわ。当然よね、彼の元には歩美さんからの凄まじいアプローチがドカドカ来てたみたいだから。
ええ、私は知らなかったの。
桐本社長の、歩美さんのことはきちんと監督するって言葉を信じて、もう関わらないようにしてたわ。
確かに彼女がわたしに向かってくるようなことはなかったんだけど、その代わりに、紀久さんにはこれでもかと迫りまっくってたみたい。
それをあの頃知ってたらどうなってたのかなって、未だに後悔じみた思いはあるわね。
紀久さんはなにも言わなかったわ。桐本夫妻は彼に、歩美さんのことは無視してほしいって希望してたそうだし、敢えてわたしにそんなことを知らせて、また騒ぎが起こるのは嫌だったのね。
穏健派の彼らしいわ。
でも、そんな状況がいつまでも続くわけもなかった。
ある日とうとう、彼女はやらかしちゃったのよ。
なにをしたかって。
自殺騒ぎよ。
その日、紀久さんはわたしと会ってた。桐本夫妻はご夫婦で催しに招待されて、出かけられてた。
通いの家政婦さんが仕事を終えてからご両親が戻られるまで、歩美さんはお家で一人だった。その間に。
発見したのは桐本夫人だったんですって。
お風呂で手首切って、意識が無くなってるところを見つけて、緊急搬送。輸血だなんだと処置をして、何とか一命を取り留めたの。
冷静に考えると、馬鹿そのものと言うか、ベタベタと言うか。
正直、本当に死ぬつもりだったかどうか、甚だ疑問だわ。
彼女が一人になったのは、せいぜい一時間くらい。ご両親が帰宅する時間は、大体決まってたんだから、それを計算してたとすれば偽装の可能性はあるもの。
わたしの立場でそんなこと言えやしなかったけど。
でもとにかく彼女は死にかけて、入院騒動になったことは確かよ。
そこでとうとう桐本夫妻の限界がきたわ。
「本当に申し訳ないけど、新見の両親や御子神社長と同じになるのは大変不本意だけれども、敢えてお願いします、紀久さんを娘に譲ってやって下さい」
ってね。わたしに身を引いてくれって、泣いて頼むの。
歩美さんの自殺騒動を聞いた時から、こうなるんじゃないかって予感はしてたのよ。
紀久さんはわたしにすがる桐本夫人の後ろで、すごく苦い顔をしてたわ。
ここで私を無視して歩美さんと結婚、なんてことをすれば、婚約不履行で訴えられても文句は言えないもの、そりゃあ難しい状況だったでしょうよ。
当然のように例の弁護士さんもスタンバイしてて、なにかあったらすぐに口を出せるようにしてたわね。
今にして思えばね。
いっそこちらも弁護士を雇って、なんていうかこう、ビジネスライクにことを納めればよかったかもしれないわ。
もちろん、大金持ちで社会的地位も高い社長御一家に勝てるとは思わないけど、世間的評価っていうのを味方につけることは可能だったかもね。
でも、その時はそんなこと思いつきもしなかった。
で、ね。過去二回の破棄と同様、わたしに味方してくれる人はいなくなったわ。
仕事先の上司である営業所の所長だって、最大手の取引先を失いたくなかったでしょうし。
事情を知った同僚や友人は怒ってくれけど、大会社の社長相手に勝負するのは分が悪いってのが共通意見だった。
で、結局私は引き下がったわ。
ただし、条件を付けてね。
条件っていうのはね、一度歩美さんと正面から会わせて欲しいってことよ。
もちろん一対一でじゃないわ、誰でも同席してくれて構わないからってね。
とにかく彼女と差しで話がしたかったの。
なんでかって?
こう言ってはなんだけど、わたしの三回にも及ぶ婚約って、相手の男に別の女が擦り寄った挙句の破局だったでしょう。
最初の洋二の時には選りによって妹で、次の坂崎は公私ともにずっぷりと関わった茜さんで、どちらも冷静さもなにもあったもんじゃなかった。
まぁわたしも若くて、ただもう悲しみにまみれてたってこともあったしね。
でも紀久さんの時は、とても冷静になれたのよ。だから聞きたかったの。
歩美さんにっていうより、婚約破棄に至った原因である女の意見をね。
慣れたとかそういうことじゃなく、自分以上に興奮している人がいると、逆に落ち着いちゃうって言うか、そんな感じでね。
で、桐本夫妻と紀久さん、そして弁護士さんや医師・看護師までも一緒になった上で、わたしは歩美さんと対面したの。
病室のベッドで、左手に包帯をぐるぐる巻きにした彼女と対面したわたしは、開口一番歩美さんに言ったわ。
――貴女のご両親や周りの人たちに懇願されて、わたしと紀久さんは婚約を破棄することになったわ。満足かしら。
ってね。
ちょっと嫌味っぽく聞こえたかもしれないけど、それならそれで上等じゃない。
思った通り、それを聞いて歩美さんは満面の笑みになった。
腹立たしい――って言うより、大丈夫かって気になったわよ。
で、更に聞いたの。本当に聞きたかったことをね。
ねぇ歩美さん。貴女は紀久さんのことが本当にお好きなようね。
ええ、それを疑う気はないわ。
でも、それで貴女は幸せになれるの?自分の気持ちを押し付けるだけじゃ、いつか破局が来るわ。
もちろん好きな相手と結ばれることができればうれしいでしょうけど、それで終わりじゃないのよ。
貴女は自分の気持ちばかりを振りかざして紀久さんに迫っているけど、果たして紀久さんは貴女を一女性として愛することができるのかしら?
いいえ、わたしがどうこうってわけじゃないわ、貴女が好きになったように、彼が貴女を思ってくれるかどうかってことよ。
ねぇ歩美さん。
貴女、紀久さんに自分を幸せにしてってお願いしてるみたいね。じゃあ貴女は紀久さんを幸せにできるの?
お家や財産のことがどうのって言うんじゃないわ。歩美さん、貴女っていう存在そのものが、紀久さんに望まれて幸せになれるのかってことよ。
恋愛や結婚ってそういうものでしょう。
そう言って、云わば彼女の覚悟を訊ねたの。
どうなったかですって。
泣かれたわよ。
なんでそんなこと言うんだって。のり兄さんは、わたしのことが好きに決まってる、幸せになれないわけがないって、まぁすごい勢いで叫ばれたわよ。
更には。
わたしこそが彼女と紀久さんの幸せを邪魔する疫病神なんだそうで、わたしがいなくなれば何もかもうまくいくんだから、さっさと消えてよって。
場所が病院だってことも忘れて大声で叫ばれたわ。
ご両親や紀久さんより、お医者様が慌ててね。ここまでにしてくれって、追い出されちゃった。
でも、その対面でつくづく分かったことがあるわ。
ああ、わたしに足りなかったのはこれだったんだなぁって。
いえ、だからね。
みんな好きだったわよ、洋二も坂崎も紀久さんも。
でも、早百合みたいに捨て身にもなれなかった、茜さんみたいにプライドを捨てて自分の持ち札をさらすこともなかった、そして歩美さんみたいに命を懸けるほどの情熱と自信もなかった。
なにを犠牲にしてでも、好いた相手を自分のものにしようとする気概がなかったのよ。
それからわたしは紀久さんとの婚約を解消したわ。
彼は終始なにかを言いたげにしていたけど、結局なにも言い訳めいたことをせず、返した指輪を受け取った。
実家には、お見合い相手としばらくお付き合いしたけど、やっぱり駄目だったとだけ報告したの。
それが、三回目の顛末だったの。