余 バーにて
「っかー、すっかり夏だねぇ」
名古屋栄の錦三丁目で、男がビールを呷って喚いている。
「酒は年中うまいが、季節によって味わいが違うってもんだ。そうだろ、マスター」
「…酒は酒です」
「はぁ、相変わらずだねぇ。ちったぁ愛想ってもんをだな」
「ここでそれは必要ないので」
小声ながらもぴしゃりと宣言した店主に、客の男は苦笑い。
「ま、確かにそうだわな。ここじゃあお喋りな奴は仕事できねぇか」
そうして次の杯を注文する。
「日本のほぼ真ん中って立地条件は、情報を集める場所にぴったりってね。東京や大阪の基地とも中継してるんだろう」
「…」
「へぇへぇ、余計なことは言いませんよっと。今日は別件の定期報告に来ただけなんでね」
「どうなってるんです?」
「まぁ、幸せにやってるよ。結婚式からもう三年か、早いねぇ」
「お子様ができたと、前の時には聞きましたが」
「来月出産だとさ。千里ちゃんは産休に入って、あいつは育休を取ると息巻いてるが、なんせ社長サマの懐刀だからな、どんだけ休めるやらだ」
「新社長の就任から、未だ一年ほどでしょう。難しい時期なんじゃないですか」
「あー、前社長の尻ぬぐいがやっと一段落したところだからなぁ。そういう意味でも大変だろうぜ」
「前社長と言えば、娘は海外へ移住したとか」
「ああ。離婚してからってもの、もう日本にいたくないって喚いてたらしいからな。あの突拍子もない才能は、確かに外国の方が活かせるかもしれねぇ。ただし、またもコケたらもうお終いだろうがな」
「離婚ですか、むしろ捨てたと言った方が正しいのでは?」
「あの課長さんはなぁ、もう出世の望みは絶たれたも同然だろうな。部署も移動になって、最前線からは遠ざかっちまってるし――近々出向って形で、子会社へ飛ばされる話も出てるみたいだ」
「それもあの人の意向が噛んでるんじゃないですか?意外と執念深いですからね」
「愛しの奥さんを傷つけた奴は許さんってか」
「それを言うなら、妹さんのこともあるでしょう」
「それこそ今更だけどな。大体、あの妹を抑えておけない親や旦那の方にも問題があったわけだしな」
「夫と子供、両親まで捨てて男と逃げるとは、なにを考えているのかわからない人です」
「あー、そりゃもうなーんにも考えてねぇ類の人間だわな。元家政婦も言ってただろうが」
「忘れる約束だったのでは?」
「思い出すのは”ここ”限定だよ」
「それならいいんですがね」
「信用しろよ。あの妹みてぇに自分から破滅に向かって突っ走るようなことはしねぇって」
「信じてはいますよ。裏切ったらどうなるかは、よくご存じでしょうから」
「怖いねぇ」
「で、妹御の行方については?」
「んなもんいちいち調べる気にもならねぇよ。男に捨てられでもすれば、またのこのこ戻って来るんじゃねぇのか」
「一緒に逃げた男は、ヤバい筋で?」
「いんや、ただのホスト崩れだ、見た目だけが取り柄のクズ野郎だな。あんなもんと逃げて、まともな生活ができるわけがないだろうが、しばらくは酔えるんじゃねぇのか、ヒロイン気分って奴によ」
「ヒロイン気分、ですか?」
「ああ、結局はそういうことだろ。自分こそが主役!みてぇな状況に浮かれて、突っ走ったわけだ。しかし、判付いた離婚届を残して消えるとは、本当に後先を考えてねぇんだろうぜ」
「何もかもを捨ててしまったと」
「馬鹿もあそこまで行けば立派なもんだ、救いようがないな」
「ご実家の方はどうなってるんです?」
「婿養子とやらが頑張ってるよ。離婚届は出したそうだが養子縁組はそのままで、子供たちを義両親と一緒に育ててるそうだ。娘を飛ばして、孫に家を継がせるつもりのようだな。この先、娘が尾羽打ち枯らして戻ってきても、居場所なんざ無いだろうぜ」
「なるほど。では、千里さんがご両親を憂える必要もない、と」
「あいつも、いざとなったら女房の実家を引き受ける覚悟はあるって言ってたしな。ま、心配はないだろう」
「良かったです。では、他の方々はどうなったのでしょうか」
「他?――ああ、千里ちゃんの元婚約者たちね」
ビールを一気に呷って、グラスを置く。いつの間にか取り出していた手帳を開くと、挟まれていた写真が一枚。
「コイツは先日アメリカで開催された賞の授与式だ。ほれ、グランプリを取ったシュウ・ニムズの直近スナップショットだよ」
「おやおや、これはまた」
「幸せ一杯って感じだよなぁ」
「お相手の方とは今でも?」
「ああ。距離があるから詳しくは調べてねぇがな」
「父上やお兄さんたちはどうなってるんです?」
「あー、先代の一周忌も無事に済ませて、今は親父さんが当主だ。もっとも実際の仕事はもうほとんど後継ぎの長男がこなしてるそうだぜ。子供も二人できてるし、安泰だろう」
「嫁姑戦争は大丈夫なんですか?」
「ありゃそもそも勝負にならねぇよ。嫁姑の争いってのは、どっちかが限界まで我慢を重ねて、関係が歪みに歪んだ挙句の修羅場だからな」
「ほう。しかし、相性は良くなさそうでしたが」
「あまりにも違いすぎて、喧嘩にもなりゃしねぇってところだな。姑は、嫁は自分と同じ道を行くもんだって頭で、ああだこうだ口を出す。が、その前提がなけりゃ、なにを言われても暖簾に腕押しだ」
「つまり、長男の奥方は、家に入る気はないと」
「実を言うと、その奥方が選挙に出馬って話が出てるんだな、これが」
「ほう」
「旦那の籍に入って、そっちの選挙区から出るみてぇだ。うまくいくかどうかはわからんが、どっちにせよ専業主婦に収まるタマじゃねぇな」
「なるほど。で、次男の方は?」
「なんでもヨーロッパのどっかで大きな取引を成功させたらしいな。まだ独身だそうだが、それなりにやってるみてぇだ」
「新見本家は、もう大丈夫ってことでしょうかね」
「まぁな。ただし、子供たちが大きくなりゃあ、またぞろなんかしら起きるんだろうがな。そういうのは運命みてぇなもんだ」
「なるほど。では、大きな家である十和田家はもっと厳しい運命なんでしょうかね」
「あー、そっちな。十和田ってぇか、桐本の方だよな」
「結局どうなったんですか、助教授と令嬢の結婚というのは」
「…それが、なぁ。ありゃ一体なんて言うべきなんだろうな」
「?」
「大騒ぎの挙句婚約破棄して再婚約、だろ。普通なら最速で結婚して――ってはずなんだけどな」
「令嬢の熱が早々に冷めたとかでしたが」
「なら二回目の婚約破棄だって、あり得ていいんじゃねぇかと思うんだが」
「と言うと?」
「アレから何年も経ってるってのに、未だに婚約状態なんだよ」
「なんですそれは?」
「こっちが聞きてぇ。桐本のバカ娘は、初恋の従兄殿とやらを婚約者のままキープして、自分は適当に遊びまわってるよ」
「仕事はしてないので?」
「全然全くそんな様子はないな。自分が働いて金を稼ぐなんざ、テンから考えてないようだぜ」
「金持ちの令嬢というのも色々ですが。余り関わりたくないタイプのようですねぇ」
「親がいなくなったらどうなるやらだ。そうなる前に、頼れる亭主を見つけるべきなんだが…ありゃあ、なぁ」
「十和田の御曹司はどうしてるので?」
「去年無事教授に昇進したよ。なんでも随分ご立派な論文を発表して、その筋で名を売ったらしいからな。今や、大学の名物教授だ」
「なら、さっさと捕まえておかないと、後悔することになるんじゃないですかねぇ」
「親も娘にそう言ったらしいんだがな、のらりくらりとかわされて今に至る、だそうだ」
「いつまでも若くないし、親だって働けなくなる時はくるんですがね」
「幸い兄貴とやらはまともらしいからな、老後はなんとかなるだろう」
「世知辛いですね」
二杯目のビールが無くなると、なにも言わないまま別の酒を満たしたグラスが出される。
そして珍しいことに、マスターも同じ杯を己の前に置いている。
「後は無事に千里ちゃんの出産を待つばかりか。とは言え、これからもなにかと呼び出しは喰らいそうだがな」
「優秀と認められているからでしょう。人間性はともかく、仕事はきちんと納めてますからね」
「…褒められてんだか貶されてんだかわからねぇな」
「褒めてますよ、もちろん」
「けっ、まぁそういうことにしておくよ。じゃあ、未来のシャチョウ様に乾杯だ」
「乾杯」
夏の始まりを告げる湿った夜に、カランと氷の音色が響いた。
END
お読みいただき、ありがとうございました。
このような中編はあまり書いたことがなかったのですが、なんとか完結できて感無量です。
よろしければ、評価等お願いいたします。
また、別の作品でお会いできれば幸いです。