第80話 前進狂
時は凡太の試験開始直後に遡り、試験中のメアリー達の様子に注目する。
凡太が青線を跨いだ時、凡太の背中に半透明で背後霊のようなものが現れ、しがみ着いていた。さらに霊っぽいものが各足に一体ずつ。それらは歩く凡太に引きずられる様に、足首につかまっていた。
「前々から思っていたけどこの試験は趣味が悪いね」
「全くです」
メアリーとレミがそういうのも無理はない。受験者には霊は見えないが、観覧者には見えるようになっている。本来なら具現化しない負荷を見せることで、線を跨いでいくことを躊躇させる為の手段として利用しているのだ。凡太が苦しみながら進む様子をみて、他の受験者達が次々と目をそらしていく。見せしめとしての効果は覿面のようだ。
緑線を跨ぐと半透明の膜のようなものが現れた。
「うわ…進みづらそう」
メアリーは凡太がその膜に全身を包まれるように無理矢理侵入していく姿をみて思わずそうもらす。
黄線を越えると今度は半透明の巨大な手が現れ、凡太を押しつぶすように下に向かって圧力を加えていた。これには凡太も耐えられなくなり、地面に膝をつく。そして匍匐前進を始めた。
「まさに地獄絵図…進める気が全く起きないよ」
「私もそう思います」
巨大な手の圧力に耐え、霊を背負い、さらに2体を引きずったまま膜を匍匐前進で突き破っていく姿をみれば、メアリーやレミでなくとも誰でもそう思うだろう。今や凡太を見守るのはメアリー、レミ、試験管の3人だけとなっていた。
試験官がメアリーに話しかける。
「メアリー様があの男を推薦した理由が分かった気がします。ここまで進めるのであれば並の精神力ではないことは証明されたでしょう。ですが…」
「この先のことだよね?まぁ普通の人なら駄目だろうけど彼なら分からないと思うよ」
凡太が赤線を越えたが、観覧者側からは変化はみられない。
「ここからは確か、脳の興奮する効果と気分を落ち着かせる効果が奪われるんだっけ?」
「はい、学園長からはそのように聞いております」
脳の興奮する効果とはアドレナリンのことだろう。漫画の主人公の性格では戦闘の際にワクワクして楽しんだりする戦闘狂のような描写がよく見られるが、これはアドレナリンによるものだと推測される。アドレナリン分泌が絶たれれば、このような主人公の精神は簡単に崩壊するだろう。なぜなら、彼らの人格はこれにより保たれてきたからだ。だが、凡太には関係ない。彼は主人公格じゃないし、ワクワクしたりもしないからだ。逆にオドオドしているくらいだ。
気分を落ち着かせる効果とはセロトニンのことだろう。精神を安定させる為の神経物質であり、うつ病患者はこれが不足して、不安や集中力が低下し、無気力感が進行するなんてことをよく聞く。だが、凡太には関係ない。不安だろうが、集中してなかろうがその状態のまま前に進むように訓練されているからだ。
凡太がゆっくりと匍匐前進する。
「なぜ彼はこの状況下で進めるのですか?希望をすべて絶たれたような状況になっているはずなのに…」
「彼の行動の発端は希望じゃないみたいだね。だから進める」
「人は希望の下に行動するのが普通だと思っていたので、希望がない状態で進んでいる今の状況がどうしても理解できません。希望が暗闇の洞窟での出口を指す光とするなら、彼にはその光がないということでしょう?出口も分からないし、暗闇の状態では不安に押しつぶされ動けなくなるのが普通だと思います」
「多分、彼は出口(希望)や不安のことはどうだっていいんじゃないかな?それは彼の行動そのもの、というより彼自身が希望だからこそ動き続けられるのだと思うよ」
「自身が希望…」
凡太の行動に驚く試験管と新発見をして好奇心に満ちた表情のメアリー。そして、思考混乱間近のレミ。
凡太がとうとう紫線を越える。
「紫線はどんな効果だっけ?」
「紫線では五感が無くなります。普通ならこの段階で前に進めなくなるのですが、それでも進み続けた場合は、体と気力が限界を迎え、脳内でマイナス思考の自己暗示が自動的にリピート再生されます。赤線の段階ですでに真っ当な思考ができなくなっている状態からの自己暗示は格段に通りやすくなる為、自己否定や行動意欲をたつ暗示は、試験者の前進を止めるのに絶大な効果を発揮するでしょう」
「マイナス思考の自己暗示か。なら、彼は問題ないと思うよ」
「問題ないとはどういう意味ですか?劣悪環境下で死体蹴りまで追加されたこの状況では絶対進めないでしょうに」
「見ていれば分かるよ」
紫線を越えてからも凡太の前進は止まらない。
「彼は本当に五感が無い状態なのですか?なぜ何もなかったかのように進み続けられるのですか?」
「進むことができるから進む。こういう単純な思考だからこそ続けられるのだと思うよ。複雑だと条件がかみ合わなくなりやすいからね」
「なるほど…。思考回路を簡潔化しているからこそ、困難なことが起きても脳内での行動処理時の力の消費を最小限に抑えられ、前進時の余力を残せるから続けられるという事ですか?」
「うん。まぁそんな感じだと思うよ」
それから10分ほど経過したところで凡太がとうとう停止する。
「ようやく止まりましたか…。おそらくマイナス思考の自己暗示で動けなくなったのでしょう。ここまで進んだだけでも充分です。彼は本当に良くやりましたよ」
「彼が良くやるのはこれからだよ」
メアリーの言葉を聞いたかのように、凡太が変態し、芋虫前進を始める。
「なぜ、そうまでして前に進もうとするのだ?五感も体力もない状態でこれ以上続けても試験をクリアできる確率はほぼ無いと分かっているはずだ。なのに、なぜ…」
「おそらく彼は試験の合否などどうでもいいのだと思う。それよりも、今この瞬間にできることをとりあえずやり切りたいだけなんじゃないかな」
試験官は驚きを連続するのに対し、メアリーは冷静だ。まるで最初からこうなることを予想していたかのように。
芋虫前進による、凡太の評価下げアピールに、メアリーもレミもドン引きすることなく、逆に食い気味にその様子を見ていた。
そんな中、凡太が不気味な笑みを浮かべる。
「さっきより進む速度が速くなっている…。それに、この状況でなぜ笑えるんだ?」
「笑うということは何か精神的な余力があって安心しているということ。つまり、この最悪な負荷状況は彼にとっては日常茶飯事ってことだろうね。それは、普段から自分を限界まで追い込む訓練を続けているということ。日常に戻ってきたと分かればいつもの訓練通り、限界まで追い込むために負荷を上げる。だから速度が速くなったのだと思う」
「この負荷状況が日常ですって!?一体、彼はどれほど自分を追い込む修練をつんだというのだ…。ただでさえ負荷がかかっているこの絶望的な状況下で、さらに自ら負荷を上げ、しかも笑うだなんて、まるで戦闘狂だ…。狂っている!」
「戦闘狂かぁ。良い表現だね。ただ、今回は戦闘ではなく前進だから、彼は前進狂ってことになるね」
「戦闘狂…前進狂…」
各々違った反応をしながら凡太の前進する芋虫男の姿を見守る。
凡太にとってマイナス思考こそがセロトニンであり、アドレナリンなのだ。
つまり絶望的な状況になればなるほど、この男は高揚し前進する。
まさに前進狂というわけだ。
前進狂の前進は段階的に安定加速していく。
そして――
コン
凡太の頭が的に当たる。
それと同時に気絶した。
「試験は的に一撃をあてることだったよね?頭突きも一撃に入るかい?」
「は、はい!もちろんです」
こうして、凡太は気絶中に試験クリアし、残すは別要素による合否判定のみとなった。




