金のごと
僕は、リンゴの皮を剥くように、兄の存在について考えなければならなかった。僕の兄さんは何ものにも寄りかからず、独立して存在しているわけではない。美しさは、彼に内包されているのみならず、外との境界を曖昧にするように放射されていた。だから僕が、その漏れ出す光を美しいと思えるのだ。
自己を確立する時期にある僕は、当然のように精神の中心に据えてきた兄の存在を問い直す必要があった。最近、背丈の近づいてきた兄に対して反撥を覚えることを、快く感じるようになった。世界の複雑さの認識と疑念の萌芽は、かつて自分を酔わしめた甘美な詩の虚偽に気付かされると同時に、ぶつかることを覚えさせた。物理的な突進、ふざけているようでも僕は、真剣な気持ちで兄を床に押し倒していた。下にある真黒の目は何の抵抗の色も見せずに、僕の様子を大人しく窺っていた。審判を下されるちっぽけな人間である僕は怯え、震えた。
僕はいくつかの出来事を忘れ、いくつかの出来事は僕を忘れる。生活はそういうふうにして回っていた。
三日前、僕は忘れ物をして、愚かな手により兄の頬は打たれた。過ぎ去った時代にセンチメンタルとノスタルジアを感じること、自分の存在しない過去に幻想を纏わせても何も前進しないことを明治時代の青年は知っていた。あわれ我がノスタルジヤは金のごと……停滞した空気、繰り返されるのは人間の感情の動きのみ。性欲は僕を内部から崩壊させる、これが目下の結論だ。未成熟の自身の性欲が向けられているのは全て兄で、兄はそんなの知ったことではない。兄が視界に入るたびに体のどこかを掴んで、思いきり揺さぶりたい気持ちになる、兄は僕よりも広い世界を持っている。中学校は狭すぎた、世界は兄よりも広いはずなのに、
「おまえはもう覚えてないかもしれないけどさ、小さい頃、おまえがおれの持ってるおもちゃのロボットを欲しがってしつこく騒いだことがあったんだよ。ふだん親から散々お兄ちゃんなんだから、って言われてたけど、おまえの三つ上とはいえおれもまだ子どもだったし、正当な手続きを経て手に入れたものを譲る気なんて、さらさらなかった。そのうちに段々おれは、おまえがまとわりついてくるのが面白くなってきて、このおもちゃを持っている限りおまえの行動の決定権がおれにある気がして、魔が差して、“じゃあ半分こしよう”なんて言って、納戸からトンカチを取ってきて粉々に割ったんだっけなぁ。プラスチック製だから重いトンカチで簡単に壊れたよ。そしたらおまえは火がついたように泣き出して、それでおれは親に怒られたわけだけど、その時からおまえのことが大好きになったんだよ」
唐突な兄の語りは、夢に出てくる人間の持つ不確定さに満ちていた。僕は現実に人を殴ったことがない。そんな気分にならないし、必要性を感じなかったから。でも兄は殴られたがっている。むらむらしてきた、兄は僕に対して何を求めている? タブーというもの、いけないと思えば思うほど欲求の輪郭がはっきりする。夢の中では躊躇なく兄を殴ったし、首を絞めたし、強姦したし、体に火をつけた。そして、僕の体も燃えていた。美しいものが好きだ。兄の体は僕の手垢に塗れてしまいには溶け落ちて、あまりの熱に僕の涙はすぐに蒸発して、最初から無いのと一緒だった。それが存在しない光景だった。
「落ち着けよお前」
感情というか思考というか、とにかく一人で走りすぎて、僕は外の景色が流れていることに気づかなかったみたいだ。ソファに並んで座って、僕は兄にもたれかかり、兄は僕の肩に手を回していた。僕は兄のことが好きで、それだけだった。僕の十四年間の人生は兄の記憶に満ちていたし、きっとこれからもそうなのだと思い込んで、愛の告白を激しくぶちまけそうだったんだ。だいたい嘔吐と同じ性質の、厭われる何かを僕は飲み込んで、世界を見つめるために目を凝らした。
「兄さんは、何が好きなの」
「壊れないもの」
兄の微笑みが空気中に伝播して、眩かった。時計の針は止まっていた、秒針が外されていたから……時間が伸び縮みすることが今の僕にはありがたかった。
「お前は?」
「兄さん」
迷いのない答えは兄を動揺させなかった。全てが知られていた、僕の体が燃えないことも兄は知っている。好きという言葉はあまりぴったりとしなかったが、好きという以外の表現を咄嗟にできるほど言葉とコミュニケーションに親しまずに生きてきた。
「それ以外は?」
「これからの人生」
それはあと一秒で終わるかもしれないし、七十年間も続くかもしれなかった。この瞬間に終わったら兄は僕にとって全てで、数十年もあったら、兄は一万分の一の存在になる可能性があった。しかし、考えても意味のないことだ。世界は広いと言っても、僕は何もかも隅々まで見られるわけではないのだから。
「たった一人で星を見ても、案外つまらないものなんだ」
兄は呟くように言った。愛の告白というものを、僕はまだ知らない。兄が知っているかも知らない。教えてくれなくてもいい、兄の手がここにあって良かったと思って僕は目を閉じた。夢でも人を殴るのは止す。
引用:石川啄木『一握の砂』
(あはれ我がノスタルジヤは
金のごと
心に照れり清くしみらに)