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点線B  作者: いなだ
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殺人には早すぎる

2500字程度。兄妹、近親愛要素あり。

 兄が所属しているサッカークラブの試合に連れて行かれた幼いわたしは、ブルーシート越しに地面の凹凸を感じながら、座って文庫本を読んでいた。日差しは強く、薄い色をしたグラウンドの土の上を、色の濃いユニフォーム姿の子どもたちが駆け回っている。簡易的に作られた屋根の下で、それでもわたしは不健康な汗を流しながら、印刷された文章を目で追う。みんな、応援しているのだ、しかし、色々に混ざった年齢層の高い声(なぜなら観客に親が多いから)に、目の前の言葉たちはちっとも揺らがなかった。持たれた体を日の光の下で精いっぱい動かす、健康で素晴らしいことを賛美する精神ども。本の中では、前途有望で頑健な少年が今、その一生を終えようとしている、暗い洞窟の中で、悲劇的な最期を。歓声が沸く、少し遠くで母が大きく喜ぶポーズをしている、たぶん兄がゴールを決めたのだ。やはり更に遠くにいた兄は大げさに飛び上がりながら、少し、悲しそうだった。日常の風景。終わりを知っている者が見せる陰りのにおいだ。


「お兄ちゃん、すごかったね。ゴールを決めたところ、すごくかっこよかったよね。」

 同意を促すように母に話しかけられたので、さっきまで読んでいた本の感触を指先で気まずく感じながら、うつむくようにこくりと頷く。顔は見れないけれど、横の横にいる兄。汗が冷えて上着を着ているようだった、カシャカシャ音がなる赤いやつ、前にかっこいいと言ったら、着てもいいよと言われたけれど絶対にわたしにはまだ大きく不便だ。

「こいつ、試合みてなかっただろ、本読んでた。」

「そんなことないよ。____ちゃん、____くんが活躍するところはみてたもんね。」

 母は困ったような口調で、兄は不機嫌そうで、やっぱり来なければ良かったと、一人であの湿度の高く暗い家に留まる予想を思い出した。空間より人間が怖いが、その空間は何より人間が作り出しているのだ、逃れようもない。嘘はつけずに黙っていたら(兄は知っているのだ)、そのまま車に乗って家に着くまで、母と兄だけが会話をしていた。運転席と助手席の二人の主に後頭部を、後部座席で一人眺めながらさっきの小説のラストシーンを反芻していた。人は死ぬ、したらばわたしの人生はどんな終わりなのかしら。車が右折する時になぜか振り返った兄と目が合って、まだ不機嫌そうに目をにごらせていて、どうしてわたしと兄は性別も違うし年も二歳離れているのに、どうしても似ているんだろうかと思った。わたしが死ぬ時はあいつも殺さないといけないかもしれない、でもわたしの体は活字に縛られていて、貧弱きわまりない。恨んだ時にうねらせる目玉の特質だけが、しっかりと兄妹で共通していて、あとは全然違うのに、ただその一点の苦痛だけが恐るべきまでに高くそびえている、他の何もかも気にならなくなるほど。だから苦しいのだ。もうほとんど動かないでほしい。そんな、念じるような祈りは屈折していずれ自分を刺す。


 家に帰ったらまず始めに兄が風呂に入り、順番を待つ私は居間でぼんやりする。気づいたら兄妹で一緒に風呂に入ることは全くなくなっていて、なぜってそれは理由はなんとなく分かっているけど、そう思い当たらせる現実がどうにも居心地悪い。兄の声が低くなったり、私の胸が膨らんできたり、傍から見ていて気味悪く思う現象が自分たちの身にも迫っていて、嫌だなと。おぞましさの気配だけを過剰に敏感に感じ取る。アイスクリーム食べたい。風呂に入らないとアイスクリームは食べられないという決まりがあって、そしてわたしはもう自分に割り当てられた分は食べ尽くしてしまった。未練がましく、何の変化もない冷凍室を開けて見ているといつの間にか後ろに兄が立っていて、「次、風呂。」と言った。無理やり刺々しくなろうとしているような最近の兄は苦手で、わざとらしい距離を感じるようになった。心なしか声も低く聞こえる、「あとそのアイス食べていいから。」

「え、イチゴ味好きだよね?」

「嫌いになった。」

 味のしない冷たい言葉。それはなんだか、わたしに向けて発せられた言葉のように感じられて、心臓がへこむような気がした。しかし結局は幼く単純なので、風呂を上がるとすべてがすっきりし、わたしは食後のアイスクリームのことしか考えなくなった。イチゴ味はそんなに好きではないけど、やっぱりアイスクリームというものはおいしい。

「お兄ちゃん、ありがとう。おいしかったよ。」

「別に、食べたかったわけじゃないから。」

 言葉尻に自信が窺えない。ソファに腰かけているところに後ろから声をかけたのだが兄は振り返らなかったので、髪が短いからすっかり乾いているんだなとその黒い頭のつむじを見てわたしは思った。そもそも兄はわたしのことなど最初から好きではなかったのかもしれない、小さい頃仲良しだったって、それは適当な遊び相手が近くにしかいなかったからで、今は兄は外に発散し、わたしは内に発散していて、もう二度と近づくことなどない気がする。

「別に、嫌なら来なくていいから。」

 別に、と大したことでないのを念押しするように兄は言う。

「嫌じゃない。」

「あ、そ。」

 わたしは兄の方を向いていたが、ソファに座っている兄はテレビの方を向いていた。テレビはついておらずに真っ暗で、動かない兄がぼんやり映りこんでいていて、そっちの姿の方が昼間走り回っている兄よりいくらか本物らしく見える。そしてそれはわたしの願望に過ぎず、ただの夢だ。小説の登場人物の死に様に陶酔するのと一緒で、わたしだけが持っている偽物、他の人からしたら醜くて歪なそれは、いずれ手放さなければならない。生きていくのって大変なことだ、でも、もう少しだけはいいかな。まだ子どもだから大目に見てもらえるよね、きっと。そうじゃないととても耐えられない。

「泣くなよ。おれがいじめたんだと思われるだろ。」

 兄の声が近くで聞こえる、そういえば気づいたら視界が一面床で、ぐちゃぐちゃの自分の平たい足が端の方にぽつんと映っていた。戸惑ったように肩に触れられたところが熱く、もう手がこんなに大きくなったのだと面積の広さに温もりを感じた。昔みたいに無邪気に抱きしめられたらいいのだけど、見つめ合って笑えたらいいのだけど、何かに邪魔されているように無言の時間が続き、「ごめんね。」とどちらともなく言って兄妹は離れた。

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