まぶたの裏の星
3000字程度。尻すぼみ文章。姉妹要素あり。
夜空に光る星はすべて、はるか遠くだけどこの場所と地続きの世界に存在している。もしくは確かに存在していたのだ。と言われて、嘘っぱちだと思った。あんな幻みたいに頼りなく夜空に貼りつく光点の一つ一つが、わたし達が生きる世界と同じ法則で存在しているはずがない。幼いながらに反発心を抱いて、その日の読み聞かせは、耳を塞ぐのはあからさまだから心を閉じて、本の続きが自分の外の世界で流れているのを肌で感じていた。
星というのは、人間が共通で抱いている幻想なのだ。目で見え、また耳で聞こえ、もしくは匂いを感じて、皮膚を撫でられるように…、とにかくそれぞれの形で脳の隅に巣食っているあの星々はきっと、みんな揃って心の中に作り出した結晶で、人間が人間同士であることを感じ合う記号みたいなものだ。わたしは絶対にそうであると確信していて、だから眩しく輝くものを家の日の差さない狭い部屋で見た時は呆然として、わたしが地に足をつけている世界が反転したような一瞬間で心が裏返ったような気持ちになった。
…
「輝くものってなに?彗星でもみたの?」
「そんなんじゃない。」
わざとらしく顔をしかめて、もうジュースの入っていないグラスに突っ込まれたストローを動かし、溶けかけの氷をかちゃかちゃ言わせた。人間であることはどうしてこんなに苦しいのだろうと思うが、それはわたしが人間であるからゆえに抱く悩みで、星も星で悩みを抱くこともあるのかもしれない、それは互いに知らないことだ。知っても意味がない。ちっぽけな頭の中でどれだけ自己の存在を拡張しても、それこそ宇宙の範囲まで育ててみても、結局のところわたしの悩みはこの小さく粗末な肉体に収まってしまう。それこそ宇宙はわたしの脳みその中にしかないんだし、手元のグラスだってわたしの脳みそに存在を拠っている。
「目を離すとこの世界から月は無くなるんだと思ってた。実際無くなっていたのかもしれない。でもわたしのすぐ近くには光があったんだ、そのことが何よりも大きなことで、」
「まったく、要領をつかめないのだけれど……」
困惑気味に顔を傾けた彼女の瞳にはわたしの虚が映っていた。ふだん音を敏感に拾っているわたしが、周りの音を頭から消し去る瞬間は自分自身で知覚できない、何かに集中するとそれしか頭に残らなくなるのは不思議なことだ。例えば、この右側にある白い壁に視線をずらしただけで目の前の彼女の存在はたちまちこの世界から無くなり、世界は白い壁に支配される。彼女におけるわたしの在り方もおそらくこんな感じだろうと、星を思い出す、もちろん推察でしかない。苦しい窒息感だ、プールに星が浮かんでいる、そうだわたしは泳ぎが苦手だったのだ。ぷかぷか動く、スクリーン上に引き延ばされた巨大な人間を観て、自分は宇宙には行けないのだな、と映画館で思った記憶がある。しかしあの映画館は、一生のうちに宇宙に行かない多くの人間が抱く宇宙への幻想を映像として流した、いわば人間のための宇宙空間だった。それだけで十分だ、それだけで満足だと寝言のようにぼやぼやと口の中で繰り返していた。映画館が暗いのは宇宙のためだ、もしくは存在する前のため、存在した後のため。だからわたしは暗い空間が好きで、毛布をかぶってばかりいてよく怒られた。目を閉じればいいんだよ、あと耳も塞いで、鼻も口も何も吸わないようにして。それでも皮膚が外界の刺激を感じ取り、思考が全ての邪魔をした。どこまで削れば大丈夫になる?ある熱心な求道家は無を目指す、無とはつまり自分の存在に自分で気づく前だ?それってどれくらい前でどれくらい後のことなんだろう?存在は点じゃなくて線だったり、まとまったりほつれたりするのかも、もしくは明滅して、その境がない。しあわせだなとやっと思える、そこまで自分を持っていく、誰にも依らない自分だけの意味、かもしれない。でも、他の対象に自分の根拠を求めるのは根源的で、誰しもが少なからずそうしていると思う。なぜだか幼いわたしはそれが上手くいかなくて、星が人間達に頼らずに存在していることを憎み、嘘だと信じたがっていたけれども。
…
「流れ星を見た時は、願いごとを三回唱えると願いが叶うんだよ。」
隣にいる姉が言った。夜空は何もかもを吸い尽くしてしまった後の静けさで、わたしたちのいる地球もきっと、いつかはあの中に溶け込むのだと思った。夜の空気が肌を冷やして、ベランダにいるわたしたちは寒気を感じながらも、頭だけはぼんやりと熱を孕んでいた。姉といる時だけは不安感を忘れる。同じ家に数年だけ早く生まれただけの存在に何の頼もしさもないのに、不思議と大丈夫な気がした。理由なんてないから、獣の感覚かもしれない。それか劫初の、自他の区分が判然としない幸せな状態。獣は、血を分けた姉妹を自分の姉妹なのだと他の獣と判別して、安心感を覚えることなんてあるのかしら。
…
「小さい頃はよく虫を捕まえて遊んだものだよ。しかし大きくなるにつれ、虫を気持ち悪がる人が増えるけど、あれって何でだろうね。虫の思考や態度が分からなくてこわいからかな、小さい頃ならそこまで何もかも頭で理解しようとしないもの。何となく同じ空気に接している同一の生き物として、でも支配者の傲慢さが生まれつきの性質のように染みついているから、子どもたちは簡単に乱雑に虫に触って、簡単にこわしてしまう。」
「はあ……。」
彼女は諦めたように目を横に動かして、白い壁でなく雑多に騒がしい外の方を、窓ガラス越しに見ていた。だからわたしは心置きなく、姉に殴られた記憶を幸福に反芻していた。
…
!
そう。わたしは姉に殴られたのだ。理由なんて後からいくらでもそれらしくでっち上げられるけど、そんなことはしない。理由なく姉に殴られた、私はそこにいただけで、拳を勢いよく腹のあたりにぶつけられた!痛くて目を瞑ったら、星が見えた。それはそれはうつくしい光があるのだと、体の芯で言葉無く実感した、素晴らしき破壊の情動。部屋は暗く、辛うじて互いの存在を認識できる程度だったけど、暴力が派生した途端に全てがかき消えた。苦しみは、自分の存在がどうとかを複雑に考える脳みそを危険信号でいっぱいにして、生を渇望させるだけの頭にする、ほぼ物体だ。死が近いと感じるのはすなわち生を強く意識するということ、生まれて初めて殴られた。まだ互いに小さかったはずなのに、暴力は途方もなく大きい、宇宙を凝縮させたかのように重い拳の一塊だ。目が潰れるほどに眩しく感じるのは、現実だからだ。この一瞬間に私の存在はただ一つに規定された。羽をもがれて暴れる虫を思い出す、手のひらに収まるほど小さいその虫は、その時ほんとうの宇宙に近づいていた。宇宙はそれぞれの生命が持つばらばらの物のはずなのに、真実は一瞬に近い気がする。たったの偶然、その一発。殴られることに意味はない。殴ることに意味は………… 意味のあることなんて、うそだ、まやかしだ、この世界、宇宙の発生も偶発なんだよ。
…
「何だかあなたって気持ち悪い。」
彼女の整った唇が、淀みなく感情を紡ぎ出すのを非現実のことのように眺めていたら、愛想を尽かしたらしく糸が切れたみたいにスッと席を立たれた。そうか、傷ついた虫の暴れるのって気持ち悪いもんなあ、ましてや真理を見つけたり!と叫ぶなんてさ、形容しがたい拒絶感が、しかしわたしはそれに酔っているのでもある。今でも目を閉じると暗闇の中に光が。すべてを潰すように存在している。遠くに行った姉とは三年間、連絡をとっていない。