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読んでくれて有難うございます。
いつもなら街の広場を賑わすたくさんの露店も、安息日ともなれば鳴りを潜める。大通りの路面店も一緒だ。飲食店以外は大半が休業し、街全体が心地良い静けさに包まれていた。
東の森では想定外の結果に終わったが、蛙の尻尾亭で食事をしたお陰で少し落ち着いた。流石は人間の三大欲求の一つだけある。
いよいよ浴場だ。溜まった汚れと疲れを癒す、週に一度の楽しみであり、翌週へ向けての大切な心身の修復時間でもある。ちなみにマルナには、二ヶ所の浴場が存在する。
一つは街の北側にあるレオポルド浴場。何代か前の領主が、自らの権力と財力を誇示し、有力者たちを抱込むための社交場として作ったものだ。華やかな装飾が特徴的な浴場で、過去の名残りのせいか、主に貴族や豪商たちに好まれ入浴料も少し高め目に設定されている。
もう一つは街の南側にあるケルウス浴場。マルナが街として治められるようになった初期の時代に建てられた歴史ある浴場で、貴族から一般の街民にまで広く愛されている。建物前の広場に飾られる親子の鹿が画かれた巨大な石碑は、街のシンボルであり、街民たちの待ち合わせの目印にもよく使われる。オレが目指すのは、このケルウス浴場だ。
街民の一般的な入浴頻度は、二週間に一度か二度。つまりは安息日に合わせて浴場へ通うことが多く、それ以外は井戸の水で体を流したり、川へ入ったりしている。ただし、貴族の御婦人たちともなると自宅に専用の浴室を持つことが多く、三日と空けずに香草や花びらを浮かべたお湯に身を浸しているのだとか。
街民の中には高い金を払って浴場へ通うことを良しとしない者や、宗教的な理由から安息日に水に浸かること自体を禁じられている者や、そもそも入浴自体を嫌う者も少なくない。
そんな中で毎週欠かさず浴場に足を運ぶオレは、こんな身なりをしていても入浴頻度だけで考えれば奇麗好きな部類に入る。
浴場の利用方法は単純だ。まずは武器類を全て受付で預かり、入浴料一〇ラットを支払って脱いだ衣服を入れる籠を受け取る。この時に貴重品以外の手荷物は、一緒に預けることが可能だ。
籠は浴場へ持ち込み、自分で管理するのが基本だが、金を払えば浴場内で貴重品の管理を請け負う者がいる。金のないオレは、当然ながら自分で管理だ。
受付の横にある『コソ泥に注意!』の立て看板が、何かのフラグっぽくて気味が悪い。
ちなみにケルウス浴場の前室には『赤帽』と呼ばれる、赤いとんがり帽子を被った子供たちの姿がある。彼らは浴室へ向かう客の荷物を有料で預かり、出てくるまでに洗濯をしておいてくれる。
驚くべきは洗濯だけでなく、時間内にちゃんと乾燥まで済ましてくれる点だ。川で洗濯をすれば、大体の場合は乾ききらないだけに、どうやっているのか本当に不思議だ。
どちらにしろ洗濯代の五ラットを支払う余裕のないオレには、その謎の答えを知るなど事など縁遠い。
そんな手順で、いざ浴室へ。受付で渡された手拭いを腰に巻き、脱いだ衣類と雑嚢袋だけが入る籠を抱えて湯けむりの中へ向う。
重厚な石造りの建物は天井も高く、中央には大きな浅い浴槽が二つ。それを取り巻くように、たくさんの小部屋があり入口には布が掛けられている。垢擦り部屋と呼ばれるその小部屋では、垢を落し身を清めてもらうことができる。勿論、有料なのだが。
身を清める意味合いを持ち、歴史的価値を有する建造物でもあるケルウス浴場には、入浴に際していくつかの作法がある。
まず、入浴前に浴室へ入ってすぐの水槽の水を手桶で掬い、水の女神へ感謝と祈りを捧げつつ、足元に掛けて身を清める。
これはあくまで作法なので、たくさん掛ける必要はない。初めて浴場を訪れた際に、オレの前を歩く筋肉隆々の男性が頭から豪快に浴びたのを見て、それが普通なのだと思い込み真似をして酷い目にあった。
近くを通ったご年配の方たちが、若者が猛っておると微笑ましそうにしていたが、実際にはあまりの冷たさに漏れそうになる悲鳴を必死で堪えていたのだが。
次に、少し進んだ場所にあるお湯の流れ出る場所で、手桶にお湯を汲んで、足と両肩へ三度に分けてお湯を掛ける。すぐ隣に吊るしてある、束ねた植物で背中や足をペチペチと叩き再びお湯で流す。これはカミヨリソウと呼ばれる植物で、遥か昔に神が人族の繁栄を祝して贈ったとされる神聖なものだ。これを身体に当てることで、洗い流しきれない汚れを清める意味合いを持つ。
いよいよ浴槽へ。ここまで来れば、自由に入浴を楽しむだけ。浴槽には膝丈程度のお湯が張られており、座っても鳩尾くらいまでしか水位はない。ここではしばらくお湯に浸かり、部屋の端にある鹿を象った石像な彫られた水飲み場で喉を潤し、温かい床の上で大の字になって休む。これが定番の過ごし方だ。
深くお湯に浸かりたい場合は、部屋の端にある大樽の浴槽を利用するのも良い。また、時折やって来る物売りは、果実や果実水をはじめ水以外の喉を潤す物をたくさん用意してくれる。
作法さえ守れば、浴場での過ごし方は自由だ。貴族や金持ちの多いレオポルド浴場と違い、ケルウス浴場の浴場内では身分の違いなど気にする必用もない。浅い浴槽に浸かると、オレはそのまま縁に頭を乗せて大の字になる。
「ふわぁ〜、生き返るなぁ」
こうして浴槽に浸かっているだけで、蓄積した疲れが少しずつ消え去っていく気がするのは、水の女神か慈母神の加護のお陰だろうか。
それにあのまま東の森の大木の地下で、あの三人と対面していたらどうなっていたのかもわからない。何せ音信不通となった冒険者の何割かは、同じ冒険者の手により屠られているというのがもっぱらの噂だ。
その原因は妬みや仲間割れに寄るものが多いようだが、恐ろしいことにギルドはよほど明確な証拠でもない限り、これを黙認する方針を貫き続けている。
いけない、いけない。折角の癒やしの時間が台無しだ。オレは癒やしの仕切り直しをするべく、床へ上がると傍らに荷物の入った籠を置き、粗末な布が敷かれただけの温かい床にうつ伏せになった。
休息と睡眠は、最も優れた気分転換の方法だとオレは思う。誰にでも手軽にできて、そのうえ金も掛からない。これを活用しない手はないだろう。
そのまま転寝してしまったオレは、久しぶりにこの世界に降り立った日の夢を見た。
そこは地下迷宮と呼ばれる魔物の巣窟。気が付くとオレは記憶の大半を失い、見知らぬ石室に横たわっていた。一瞬にして深い恐怖と混乱に飲み込まれたオレの精神状態には、風前の灯という形容がピッタリと当てはまる。
死神の大顎が餌が降って来るのを待っている。そんな状況から救い出してくれたのは、一人の荷物持ち(ポーター)だ。
彼の名前はジル。帝都を主な活動拠点とする、もうすぐ赤鉄等級に手が届くかというベテラン冒険者である。
地下迷宮の暗闇にジルが手にするカンテラの灯りが揺れ、やがてそこへ彼の中性的で整った容貌が浮かび上がった時には、いよいよ天の使いが人生の幕引きに現れたのかと思った。
後に彼が冗談交じりに教えてくれたのだが、オレが目覚めた場所は厄介な魔物が多い階層だったらしく、そんな場所に装備もなしに現れたオレを見て、最初はその手の魔物かと疑ったらしい。
事情を話すとジルは、地上までの案内を快諾してくれた。会ったばかりの相手に混沌とした事情を説明するなど、通常であれば正気を疑われかねないところだが、場所が地下迷宮であったことと、彼がベテランの冒険者であったお陰だろう。
「その代わりに────」ジルが少し言い難そうに続ける。自分もお願いがあると。
そのお願いとは、地上へ向かいがてらに、彼の捜し物に付き合って欲しいという事だ。本来はそれが目的で地下迷宮を訪れたのだろう。
断る理由など無いし、そもそもオレには選択の余地などない。むしろ控え目に話すジルを見ていると、オレに出来ることならば何でも協力させて欲しいとさえ思えてくる。
「面倒かけてすみませんが、よろしくお願いします!」
気持ちがこもっていたせいか少し声が高過ぎたようだ。目を丸くして驚いた表情を浮かべていたジルだったが、やがて腰に下げた雑嚢袋から小さなナイフを取り出し、優しい笑顔でオレに手渡した。
刃渡り二〇センチに満たない簡素な作りのナイフだが、よく手入れが行き届いており使いやすそうだ。
「同行者となった記念にあげるよ」
「え、そんな、悪いですよ。助けてもらった上に…」
「ただの生活用ナイフだから気にしないで。それに、手ぶらで魔宮を進むのは流石に細いでしょ」
こうしてオレはジルと共に地上を目指すのだが、この時はまだ長くても半日程度の道のりとしか思っていなかった。
◇◆◇◆
地下迷宮内の壁には、所々に薄っすらと発光する苔が生えている。ヒカリゴケと呼ばれる地下迷宮特有の植物だ。そのお陰で完全な暗闇とまではならないものの、それでもカンテラの灯りなしで先へ進むのは難しい。
ジルに借りた予備のカンテラを照らすことで、二倍の明るさを確保したオレたちは、凶悪な罠の多い階層を避けるため一度の下の階層へと下る。遠回りには気乗りしなかったが、その後に二つ上の階層へと繋がる別のルートを進むらしいので、ここは黙ってジルを信じて従う。
驚くべきことに地下迷宮は、各階層ごとに全く違った様相を見せる。前出のような罠が仕掛けられた階層は勿論、そこかしこで火柱が立ちのぼる階層、水路や沼地のある階層、一面に緑が生い茂る階層まで。中には高い天井面が陽の光の様に輝き、いつの間に屋外に出たのかと自分の目を疑うような階層まであった。
最初の目的地である一つ下の階層へたどり着くまでに、長めの休憩を二度挟んだ。空が見えないため時間の感覚がおかしい気がするが、ジルの話ではそこまでで約半日が経過したらしい。
この段階で自分の見積もりが、いかに甘いものだったかを思い知らされた。各階層の大きさはそれぞれ違うらしく、にわかには信じ難い話なのだが、大きなものでは帝都の数倍の規模の階層まであるのだそうだ。
何度目かに魔物に遭遇した後に、ジルが二つの革袋を差し出した。中にはそれぞれ白色と茶色の香袋が入っている。
「白色は精神を落ち着かせる。茶色はその反対だから、用途に応じて使うといいよ。試しに白色を使ってみて────」
言葉の意味の半分も理解できていなかったが、オレは言われるがままに差し出された白色の香袋を鼻へと近付ける。鼻腔を通り抜ける爽やかな甘い香り、不思議と気持ちが見る見る落ち着いていく。オレの表情から効果を確信するように、彼は優しく微笑んだ。
ジルは荷物持ち(ポーター)を主職種としていたが、その他にもいくつかの副職種を修めているらしく、素人目にもかなり経験を積んだ冒険者なのが見て取れた。
その時のオレには赤鉄等級にもうすぐ手が届くと言われても、何のことやら今ひとつ理解できなかったが、実際にはそこまで高い等級の荷物持ち(ポーター)は、稀な存在と言って過言ではない。
例えばマルナを拠点とする冒険者数は三〇〇名以上いるが、この中で赤鉄等級以上の冒険者は片手で数えられる。更に付け加えれば、その全員が直接戦闘に関わる職種だ。
評価を得難い荷物持ち(ポーター)のような職種は、他の職種に比べて格段に昇級が困難となる。現にマルナには白磁等級の荷物持ち(ポーター)しか存在しない。
「ねえ、ハルト、地上に出たらどうするんだい?」
「正直まだ何にも…」
あれから何度、野営しただろう。一〇回目以降は数えるのを止めた。各階層にはセーフエリアと呼ばれる、野営に適した安全地帯が存在する。
いくらセーフエリアと言っても、野営の際にあまりたくさんの火を炊くことはできない。地下迷宮内の狭い場所では煙が充満しやすいうえに、場合に寄ってはセーフエリアの周辺に魔物を引き寄せてしまう可能性もある。
そのため食事は主に、保存の効く硬麦パン、堅果などの木の実、干し肉などが多かったが、驚くべきことに地下迷宮でも狩りや採取が出来る階層があり、そんな時にはご馳走にありつけた。
「じゃあ、冒険者になってみたらどうかな?」
「え、冒険者って、ジルさんみたいな?」
「必ずしもボクみたいである必要はないけどね。冒険者は自由な仕事だからね。ハルトに向いてるかと思って」
ジルの優しい表情がカンテラの灯りに照らされる。地上に出たらどうするかなど考えたこともなかった。もしかすると心の片隅で、また誰かに助けてもらえると甘えていたのかも知れない。
「…でも、オレに出来ますかね」
「ハルトはまだ気付いてないだけだよ」
「えっ、何にですか?」
ジルは話をはぐらかすように薄い笑みを浮かべる。冒険者か。確かにそれも悪くない。ふとそう思う。
今日はジルに習った仕掛け罠で、初めて小型の獣を捕らえた。その瞬間は言いようのない新鮮な衝撃を感じた。きっと冒険者になれば、あんな感動を幾度となく体験するのだろう。
慣れとは凄いものだ。少し前まで暗闇にすら怯えていた自分が、地上を目指す当初の目的から外れ、ジルと一緒の旅に充実感すら覚え始めていた。
よろしければまた覗いてやってください。