フィルター
小学校二年生の時、僕の目には他の誰にも見えないフィルターがかかってしまった。そのフィルターはブラウン管テレビの砂嵐のようでありながら、時には宝石のように蠱惑的に、時には悪夢のように鮮烈な色で、僕を恐怖の溜め込まれた水瓶に引き込んだ。
この世の全てが怖い。眠りから覚めて、目を開けた瞬間から、僕にだけ押し付けられる誰かのカルマ。
僕は父さんと母さんに泣きついた。泣きついても治ることはなかった。
ちょうどその頃、僕らの住むアパートの隣の部屋に若い夫婦が引っ越してきた。挨拶に来た二人の声をわずかに開けた自室のドアにへばりつきながら聞く。
「隣に越してきた芳賀と申します。これ…」
そう言った芳賀夫人がガサガサと音を立てながら、何かを母さんに渡したようだったので、気になった僕はもう少しドアを開け、覗き込んだ。
そして何を渡したかなんてどうでもよくなる程に驚いた。芳賀夫人はフィルターの前にいる。
父さんも母さんも鏡にうつった自分でさえも全てフィルターの向こう側で、僕だけをこの世界の外側へ追いやっていたのに、彼女はこっち側にいる。
僕は彼女をこの目にしっかり焼き付けた。大人になった今でもはっきり思い出せる程にだ。
彼女の髪は少し明るい茶色だが、チャラチャラした感じではなく清潔感があって、肩のあたりに伸びた毛先は自然に真っ直ぐだった。前髪は分け目が4:6くらいのところにあって、目をしっかり避けるように頬まで伸びている。目は横幅が広くて、目頭から目尻までが真っ直ぐで、二重の上瞼の描くアーチはとても綺麗だった。化粧はあまり濃くなく、唇は自然なピンク色をして少し艷やかで、爪も同じように薄いピンクに塗られているが派手な飾りはなかった。サイズの合った半袖の白いブラウスはフォーマル過ぎずに可愛らしく、七分丈のスキニーパンツが細すぎない太ももを強調している。そしてその背後には、穏やかで真面目そうな彼女と同い年くらいに見える旦那さんが立ち、二人共ニコニコと笑いながら母さんと手短に話を終わらせて、我が家のドアは閉められた。
それから僕は彼女をこの世で唯一の本物だと思うようになった。他人はわかりもしないのに僕の目に映るフィルターを「大丈夫」だと言う。しかしそういう人たちは皆、フィルターの中の世界に生きていて、僕とは隔離されているのだ。そんな人たちの言葉をどうして信じられるか、と僕は毎日苛立ちと恐怖と不安感と疎外感を繰り返し感じていた。
しかし彼女だけはいつもフィルターの前にいて、すれ違うと挨拶して微笑んでくれる。
僕はもうそれ以外のことを何も考えなくなった。