なくした指輪
来月、正式に妻と別れる事になった。
10年間の結婚という名の共同生活にピリオドを打つ形になった。
家族は妻と娘一人の3人暮らし。
安月給のため経済的に生活は苦しかったがごくごく平凡で幸せな暮らしだった。
離婚の理由は多々あるが、一番の原因はおれの酒癖の悪さにあるのだろう。
最近の不景気で会社の給料もカット、リストラも始まりおれもその候補に入るのではと常に不安感を持っていたというのも事実だった。
必然的に酒を飲む量が増え、結果的に酒の量と比例するように妻に対して手を上げる事も増えてしまった。
しかし、妻は私の立場を少しでも理解しようとしてはくれなかった。
顔を見ると家計が苦しいだのこれからどうやって生活するのだの一点張り。
掛け持ちでパートをしてその苦労を仕事が終わり帰って来た私に伝える。家でも会社でも心が休まる暇がなかった。
昔はあぁではなかったのに…。
妻の美佐子は元会社の同僚だった。私の2年あとに美佐子が入社し、しっかりした気丈な女性だというのが第一印象のそんな女性だった。
それから共に仕事をするようになり、細かいところにも気配りも出来る一面に惹かれ意識するのにそう時間はかからなかった。
ふとしたきっかけで一緒に食事に行くことになりそれからしばらくして付き合うようなった。
そして美佐子の26歳の誕生日に私たち2人は結婚をした。
美佐子は結婚と同時に仕事を辞め、翌年には娘の由美が生まれた。
会社もその当時は勢いがあり活気があった。同じ時期に係長にも昇進し、私の人生で最も幸せだった時期だったのだろうか。
由美が小さいうちは3人でよく旅行に出かけた。
美佐子は小さい頃、両親に車でよく遠くに連れて行ってもらっていたらしく、
自分築いた家族にも同じような幸せを求めた。あの頃は由美も明るく毎日が楽しかった。
由美は小学校に上がるくらいから持病の喘息がひどくなり、学校も休みがちだった。
欠席が多いのでちゃんと友達が出来るかどうか、いじめられたりしないだろうか、美佐子はとても心配していた。
その頃から会社の業績が悪化し始めた。何年に一度と言われるような不景気と、
一時的な好景気の時に設備投資をし過ぎたのが原因だ。残業代カットから給料カット、今ではリストラも行われている。
そのあたりから美佐子とのケンカが日課になった。
何日か怒鳴りあったかと思うと、今度は何日も口を利かない。本当に関係は冷え切っていた。由美は喘息の悪化と両親の不仲で以前のような明るい子ではなくなっていた。しょんぼりしていて元気がない時が多かった。
それから何年かそのような状態が続いたが、先週とうとう美佐子は実家に帰ると言い出した。
荷物をまとめ、来月には手続きを済ませ、正式に離婚に応じて欲しいという。
自分の名前と捺印済みの離婚届が無造作に食卓に置いてあった。
由美は実家に援助してもらいながら自分が立派に育ててみせると言い切った。
おれも承諾するつもりだった。
美佐子と由美が出て行ってから10日が過ぎようとしていた。
日曜日だというのに家の中はガランとしていた。また昼間から酒を飲むのか。
気晴らしにパチンコへ行く元気すらなかった。飲まずにはいられなかった。
飲まなければ自分を確立することが出来そうもない。一杯だけと思いつつ気付いたらかなりの量を飲んでいた。
酔いもいい加減回ってきた頃、眠気に襲われおれは眠ってしまったようだった。
夢を見ていた。
「おとうさん、このテント崩れそうだよ~。」
「!?」
これは、由美だ。ずいぶん小さい。
いつだろう?
私は辺りを見回した。この情景は…?
そうだ、思い出した。これは夏のボーナスで大型のワゴン車とテントを買って3人で初めてキャンプに出掛けた時だ。
夢とは不思議なもので、頭の中で、半分は夢とわかっていながら見る夢もある。
おれはそんな思いを抱きながらその夢の心地よさに必死で自分を合わせた。
「だ、大丈夫だよ、ちゃんと説明書通りに作ったから。」
「でも、私もちょっと心配。」
美佐子が大げさに心配した表情を見せる。
こんな風に普通に会話したのはいつ以来だろう。
「由美の心配症は美佐子譲りか。ははは。」
様々な思いが交錯しながら、私は必死で状況に合わせた。
ガタガタガタ
「きゃあああああぁぁ」
突風によってテントが煽られた。ガタガタガタ。
テントは風邪に飛ばされあっけなく崩壊した。
潰れかけたテントから出てきた美佐子が笑いながら言った。
「だから言ったじゃないの!」
由美もキャッキャと喜んでいる。もぞもぞとテントの中から出てきた。
おれもなんだか楽しくてしかたなかった。
「ごめん、ごめん、すぐ立て直すから。2人とも怪我はなかった?」
「大丈夫だよ!!私も手伝うね、お父さん。」
「お、由美は優しいなぁ。お母さんと違って。ははは。」
「何よ、もう。私も手伝うわよ。」
「じゃあ3人で我が家を立て直そう!」
「あははは」
「あははは」
しばらく笑い声がやむことはなかった。
3人で力を合わせてテントを立て直した。今度はさっきより幾分丈夫なはずだ。
「よーし、テントはこれで大丈夫だ」
反応がなかった。
「おーい、どうした??」
後ろを振り返ったらそこには誰もいなかった
記憶の中のキャンプ場は無人だった。
視界もだんだんとぼやけ始めてきた。
目が覚めた。
もう日が暮れていた。
やはり夢だったようだ。
分かってはいたが酷く切ない。
おれはさっきの夢の余韻から抜け出せず、あの頃の事を思い出していた。
懐かしく幸せだったあの頃…。
俺ははこれからどうするのだろう。
どうしたいのだろう…。
美佐子と由美はどうしているのだろうか。
元気にしているだろうか。由美の喘息は落ち着いているだろうか。
最近の由美はいつもしょんぼりしていたな。
私達がいつもケンカばかりしていたせいだろう。
本当に可哀そうな事をした。
今すぐ由美を抱きしめてやりたくなった。しかし由美はいない。
いてもたってもいられずに由美の部屋のドアをあけた。
部屋の主要な物は片付けられてガランとしていた。
主人を失ったその部屋はまるで別の部屋のようだった。
そういえば、由美の部屋に入ったのは久しぶりだ。
会社と妻のストレスで無意識に喘息の娘と向き合う事を私は避けていたのだろか。
ひどい父親だ。これでは出て行かれてもしかたないな。
由美の世話と、パートで家計を支えてくれていた美佐子にも労いの言葉一つ掛けた事はなかった。
「はぁ」
ため息をついた。今まで一体何をやっていたのだろう。
その時、何気なく見た部屋の片隅にきらりと光るものがあった。なんだこれは。
拾い上げてみるとそれはおもちゃの指輪だった。これは由美が小学校1年生の時に誕生日のプレゼントとしてねだられ、買ってあげたものだった。
「あの指輪かぁ。懐かしいな。まさかこんなところにあるとは。」
あの時の事を思い出していた。
由美はこの指輪がお気に入りでいつも指にはめていた。
しかしある時、いつも指にあるはずの指輪がなくなっていたそうだ。
何かをしていたときに気付かず外れてしまったのだろう。由美は大慌てで指輪を探していた。
私たちも協力してずいぶん探したが結局は見つからなかった。どこか外でなくしてしまったのではないか、
という大人たちの結論に由美は納得していない様子だった。
由美はかなりの時間泣きやまなかった。新しいのを買ってやると言ってもあれじゃなきゃだめだときかなかった。
しかし、それがまさか由美のベッドがあった場所の真下にあったとは。ベッドを完全にどかさなければ見つからないような場所だ。
皮肉だった。こんなベッドがあった真下では、この指輪は由美がいる間は見つかる事はなかっただろう。
いなくなったからこそ見つかったのだ。
そこでおれははっとした。
いなくなって初めて見つかるものがある。
それはまさに今のこの状況の事じゃないのか。
美佐子と由美と距離を置いてみて初めて2人のかけがえのなさが本当の実感として湧いているのではないか。
いなくなって初めてわかったものだった。
私はこの先、美佐子と由美なしに一人で生きていくのだろうか。
今まで生活を共にした2人とは別の家族として、生きていくのだろうか。
想像が出来なかった。
常に酒浸りの寝ぼけた頭で、2人が出て行ったという事実さえ、現実として捉えていなかったのだろうか。
いい加減目を覚ませ。今ならまだ間に合うかもしれない。
美佐子の実家は仙台だ。
私は居てもたってもいられずに、指輪を握りしめ自らの現実に向かって駆け出していた。




