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第3話 刺客の告白

サクラ、大ピンチです。

 お昼ご飯と友達との会話を楽しみ、お父さんからの手紙を読んだあとでは、もうほとんど休憩時間は残っていなかった。


 あたしは校舎の階段をかけ下り、一階につくと同級生に両脇をはさまれて、自分の教室に入ろうとしている大樹お兄ちゃんをやっと見つけた。目の前に立ちふさがって、「お兄ちゃん、お父さんから手紙よ…!」と言って、手をつかみ封筒を押しつけた。

 あとは何を言ったらいいのか分からなかった。

 魔王のことを、こんな人の多い所で話すわけにはいかない。

「急・用・な・の!」あたしは頼み込むように、「放課後、食堂へ来てね。詳しいことはそこで話すわ」そう言って、自分の教室へ、急いで戻って行った。

 お兄ちゃんの友達が話していた。

「あれは、お前の妹かい? 美人だな」

「美人なのは当然だ。僕の妹だ」

「えっ。言うねえ。勉強だけが取り柄の優等生様と思ってたら、妹には甘いのかー?」

 …などと言った会話が聞こえ、教室の中へ入っていったので、お兄ちゃんの答えは聞こえなかった。

 階段を上がる時、お兄ちゃんの教室の方に向き直ると、お兄ちゃんが独り、教室から半分だけ顔を出してこっちを見ていた。目を合わせると、お互い頷いた。すぐ読んでくれるだろう。ひとまず安心した。


 午後からは、また猛勉強。


 あんまり忙しいので、お父さんはもう北極へ着いたのかとか、魔王が何を考えているのかとか…そういった思いにふける余裕は、まったくなかった。

 実際、あまりに勉強漬けのため、最初の一、二ヶ月で、辞めてしまう子も結構いるらしい。

 それでもたいてい、エミルの町の人は何かしらの家業を持っているので、学歴がなくても生きていくのに特に困るというわけでもないのは確かなのだけど。

 ただ、まあ体裁は悪いから、みんな頑張るわけなのだ。

 でもサリーなんか、ちょっと本気で危ないかも。

 あたしなんかより、ショーンが彼女を手伝ってあげればきっとみんな仲良く最後まで頑張れると思うのだけれど。そんなふうにはいかないわよね…。い


 やがて…終業の鐘が鳴った。


 担任が教室から出ていこうとした時、用務員の男性が蒼白の顔であらわれて、先生に耳打ちするとすぐどこかへ行ってしまった。

 もしかすると、帝国の事件が伝わってきたのかも知れない。

 あたしは独りでぼうっと自分の席に座っていた。みんなを見送って。わざとゆっくり持ち物をカバンにつめていた。

 いつでも移動できる態勢だった。身体の力を抜いて深く呼吸をしていた。実は、何かを感じていたから。


 お母さんの占いの才能が、あたしにも受け継がれているということを知ったのは、十歳の頃だった。


 お父さんとお母さんがそろって領民の会議に参加することになって、あたしたち子供はお留守番。その日は雨がしとしと降っていたっけ。

 お屋敷の中はとても静かだったのを覚えている。

 あたしはふと、お母さんの部屋のドアが開いていたので、中をのぞいた。

 書き物机には、黒い布の上にタロットカードのケースが置かれていた。あたしはそれを手にとったのだ。

 もちろん、この世界にタロットカードなんて売っていない。特注も特注。お母さんの記憶を頼りに、エミルの町の絵師さんに頼んで、三ヶ月ばかりかけて完成したものだ。上質な白くて硬めの紙をきれいに切り、角を丸めているカード。二十二枚の大アルカナと呼ばれるカード。六色で、絵図は鮮やかに塗り分けられて、表面は薄く、接着剤みたいなものでコーティングされていた。

 トランプのケースのような木の箱に入れてあり、これはまた、別の職人さんの手によるものだ。桐のようなてざわりだった。

 それを手にとった途端、あたしは今まで見たこともないものを見、感じたことのないものを感じた。


 お母さんが帰ってきたあと、あたしは聞いてみた。

「これからは一週間ごとに、お母さんが天気を占うのね。大変ね。でもお百姓さんたちは助かるわね」

「えー。どうしたのー、桜…」お母さんは相変わらずの間延びした声で言うと、あたしをじっと見た。

「んー。まさかと思うが…視えたのかい? お母さんと同じように?」とお父さんが聞いたので、あたしは頷いた。

「お母さん、タロット教えてくれる?」

 お母さんはちょっとびっくりしていたけれど、喜んでもいた。

 あたしたちはエミルの町から家庭教師を呼んで、一年くらい前から(お金の心配が無くなってからは)勉強を教えてもらっていた。この世界に曜日はなかったけれど、五日働き、二日休むというのが基本的な習慣で、そのため、あたしたちは普通に休みの日のことは、週末、と呼んでいた。その週末に、あたしは学校に通うまで、お母さんに占いのことをたくさん教わったのだ。

 もちろん、占いが大好きになった。

 

 あたしが初めて『遠視』を行った日だけれど。

 お父さんは、夕食の時間、様子がおかしかった。

「お父さん、手がとまってるよ」

 大樹お兄ちゃんが帰ってきている時だった。で、学校の話をふっても、上の空だったので、注意したほどだ。

「んー。そうだな…」お父さんは腕組みをして考えこんでしまっていた。


 その晩、寝る前にあたしの部屋にお父さんとお母さんがやって来た。二人はあたしのベッドの端に腰かけ、あたしは自分の勉強机の前の椅子に腰かけていた。

 お父さんが言った。

「ようく考えたんだがね。お父さんの考えが正しければ…」


 そういうわけで、あたしはその日の放課後、兆しが訪れるのを静かな部屋で待っていた。

 そして、お父さんが言ったことも考えていた。

 本当のところは、これから起こることを頭だか、心のどこかは分からないけれど感じていて、立ち向かう決心を固めるのに必死だったのだ。

「行こうか…」あたしは誰もいない教室、日が傾き始め、夕日がさしこんでいる部屋で呟くと、ゆっくりと出て行った。いつまでもここにいるわけにはいかない。身体がわずかだったけれど、震えていた。


 食堂ではお兄ちゃんがちゃんと待っていて、一人で丸テーブルの席に座っていた。お父さんからの手紙を両手で広げて繰り返し読んでいる、そんなたたずまいだった。

「お兄ちゃん」

 呼びかけると、顔をあげて、「遅かったな」と答え、お兄ちゃんは読んでいた手紙を封筒にしまった。

「さて、どうしたものかね」とお兄ちゃん。

「あのね、お兄ちゃん。あたしたち、これから校舎の裏に行った方がいいと思うの。この時間は誰もいないから。関係のない人を巻き込まないですむと思う」

 お兄ちゃんは何も言わず、あたしを見つめると「…何が起こるんだ?」と静かに尋ねた。それとなく、周りに変わったことがないか、目を配りながら。

 周りは夕食を囲んでおしゃべりしている学生ばかり。みんなの声のざわめきで、あたしたちが何を話しているか、盗み聞きされることはなかった。

「大変なことになると思う」あたしはきっぱり言った。

「あたしたち、死んじゃうかもしれない」

 言ったあと、ぽろっと涙がこぼれた。自分でも意外だった。テーブルの上に置いた両手を握りしめた。

 お兄ちゃんがあたしの右手を両手で握った。

「お前のことは僕が守ってやる。お前はひとりじゃないんだぞ」

 あたしは左手で顔を覆うと、感情がこみあげてきて涙をぼろぼろこぼした。「うん、そうだねえ」

「いつかは、こんな日が来るんじゃないかと思ってた」

 お兄ちゃんは言った。

「いつまでも魔王が僕らのことを見過ごすはずがないって。お父さんの言ったとおりになっただけのことじゃないか。でも、僕たちは悪いことは何もしていない。そう信じられる程度には努力してきたよな…。理不尽なことになったら、二人で立ち向かえばいいさ。それに、本当のところは僕らは二人だけというわけでもない。いざという時は、お父さんやお母さんが飛んできてくれるかも知れないぞ。アイルたちは…多分、立場上、無理なのかも知れないけど」

「あたし、お父さんもお母さんもお兄ちゃんもみんな大好きよ」

「僕だって」あたしの手をやさしく握っていたお兄ちゃんの手に力がこもった。

 あたしはハンカチを出して顔をぬぐうと、「そろそろ行こうか。向こうもやってくるみたい」と言った。時には、思い切り泣くのかいいこともあるのね。だいぶ落ち着いた気持ちになっていた。

「分かった」

 あたしたちは手をつないだまま、食堂を出ていった。


 校舎の裏に回り込む寸前、「ちょっと待った」と誰かに声をかけられた。

 振り向くと、眼鏡をかけたぼさぼさ頭の男の子、入学式の時に学長のお話を、したり顔で聞いていた子が立っていた。

「あなた、なあに?」とあたしは言った。

「君が泣いていたんで気になったんだ」と彼。

「僕はロバート・ネッシー。よろしく。同じクラスだけど、君のことは自己紹介の時からずっと気になっていたんだ」

「あら、どうして?」

「君はサクラだろ。サクラ・ミキ。僕はバスターズなんだ。それで、エミルの町の地下の排水路の清掃が主な仕事だった。危険な仕事だったよ…」彼は右腕をまくった。手首のちょっと上のところから、腕がいびつな形に歪んでいるのが分かった。

「君のお父さんに命を救われた。大ネズミの群れに襲われて死ぬところだったんだ。ぜひ伝えてほしい。本当にありがとうございました、この恩は一生忘れませんって」

 彼は頭を下げた。

「その時は死にかかってたんで、ろくに礼も言えなかった。君のお父さんは僕を治してくれた。そのことが原因なのか、傷がすっかり癒えたあとは、前よりもましな魔法が使えるようになってね。そのことを知った病院の先生が、勉強さえすれば、奨学金をもらって学校に行けるかも知れないといってくれて…。それで先生に勉強を教えてもらって三年、とうとう僕はこの学校に首席で入学できたんだ。もちろん、半分は自分の実力だけれど、ミキさんがいなかったら今の僕はここにはいない。いつかきっと恩を返します、そう、伝えてくれないか」

「ありがとう。きっと伝えるわ。でもね」あたしは微笑んだ。

「お父さんなら、きっとこう言います。『恩なんて返そうとしなくていい。世の中のために役に立てる人間になって下さい』ってね」

「僕…僕、きっと医者になるんだ!」

「すごいわ! 頑張ってね」とあたしは言った。

 お兄ちゃんが言った。

「僕はタイジュ・ミキ。この子の兄だ。ちょっと姉弟で相談することがあってね。妹を心配してくれてありがとう。これからも良い友達でいてくれると嬉しいよ。ところで、そろそろ行ってもいいかな。寮長に怒られないうちに話を済ませて帰りたいのでね。ちょっと実家から手紙が来てね…。プライベートのことなので、すまないが」

 ロバートは頭を下げ、「サクラさん、僕にできることがあったら何でも言ってね」と言い残すと踵を返して、元気良く寮の方へ歩いていった。

「少なくとも、三木家は未来のお医者さんを一人作ったかも知れないね。良かった。それにあいつ、お前のことかなり気に入っているみたいだし…」

 あたしはお兄ちゃんの脇腹を肘でついてから、校舎の裏へ引っ張っていった。


 校舎の裏は、建物のすぐ近くから灌木が生い茂っているほかは、むき出しの地面で、ちょっとした広場になっていた。低い丘を背にしていて、松によく似た樹が等間隔で植えられていた。さらにその向こうは鉄の柵があり、柵の向こうは舗装されていない道が、校舎に沿って伸びている。

 そこへ入ったら、昨晩のジャンヌがあたしたちから五メートルほど離れたところに立っていた。背中を向けていた彼女は、こっちへ向き直った。

 あたしたちは、たじろいだ。ジャンヌは嬉しそうだったけれど、焦点があっていない眼でこちらを向いて、その眼を紅く光らせたから。

「我が名はメアリー。魔王である」とジャンヌは腕を組んで言った。

 耳を疑ったわ…。

「あの、魔王様…? お父さんと出かけられたと教えられたのですけれど」言いながら彼女の背格好を確認したけれど、どう見てもあたしと同い年の子にしか見えない。

「はじめまして。サクラ・ミキです。あなたは…」

「あなたが魔王だとして、父はどうしたんです?」大樹お兄ちゃんが尋ねた。そしてあたしに「すごい…魔法の力だ」と呻くようにささやいた。「左眼が、痛い。ヒリヒリする」

 ジャンヌは、腕組みをしたまま、ニタリと笑った。でも、何も言わなかった。

「父を…僕らのお父さんをどうしたんです?」

 返事の代わりに、ジャンヌの両腕に紅い稲妻が現れた。低く、バチバチと音を立てていた。

 次の瞬間、ジャンヌが両手を開いて、こちらへ向けた。

 空気が熱くなったかたと思うと、周囲に弾け飛んだ。

 あたしは、お兄ちゃんと手をつないだままだったので、お兄ちゃんの左眼を通して、紅い稲妻が二本、こちらへ飛んでくるのを見てとれた。

 それでも、稲妻より早くなんて、動けやしない。

 あたしは力を全力で開放して、左腕でそれをはらおうとした。お兄ちゃんも右手で。

 あたしは右手、お兄ちゃんは左手でお互いの掌を握り合っていた。これなら、お兄ちゃんは右手を使えるし、あたしは、感覚の共有でお兄ちゃんの眼を通してあらゆるものを見通すことが出来る。

 けれど。

 気がついたら、あたしたちは仰向けに倒れていた。土煙がすごい、そして空気が暑かった。

 あたしの左腕は黒焦げだった。けど、もう、回復が始まっていた。

 お兄ちゃんは…?

 あたしたちはまだ手をつないでいた。

 大樹兄ちゃんの右手は半分溶けて、骨があらわになっていた。それに意識がない。あたしはつないでいた手を離すと、かがみ込んで、無事な右手をかざし、お父さんが言っていたように手順を考えようとした。早く、早く! あたしの腕の力を使っていいから! それでまず筋肉と血管を再生するの、それが済んだら皮膚を元通りにして…!

「詠唱を忘れているぞ」

 ジャンヌがあたしの頭の上から言っていた。

 あたしは悲鳴を上げて。飛び退き、尻もちをついた。

「次はどうする? 兄を捨てて逃げるのか?」

 あたしは無事な右手に力を集中した。あたしたちを救ってくれた、『良き魔法使い』の人たち…。あたしたちを魔法使いにはしてはくれなかったけれど、どうか生き残るために力を貸してください…!

 あたしは右脚で地面を蹴り、これでダメなら最期になってもいいと思いながら右の拳をふりあげた。

 次の瞬間、あたしは宙を見ていた。起こったことが信じられなかったから。そこで回転しているのは、肩の付け根から切断された、あたしの右腕だった。

 見ている間に、また赤い稲妻が走り…右腕をは焼き尽くされてしまった。

「サクラ…!」

「お兄ちゃん…」

 あたしは相当出血していたのだろう。お兄ちゃんの声に答えたけど、自分がどうなったのか分からない。目の前がどんどん暗くなった。

 野太い男の声がした。…この人は大事なものを奪われて正気を失っている、とあたしは思考が定まらないまま感じていた。

 ああ、ダボンなのね…。

「お前が出てくるとはな。…ふん? この子供らが己の命より大事なのか? 人殺しのお前がそう思うのか?」

「お前に何が分かるっ!」

 ダボンが…捨て身であたしたちを守ろうとしている…?

「お前が魔王なのか! だったら教えろ、なんで俺たちみたいなバスターズを…この世に誕生させやがったんだ! お前が魔法なんて与えてくれなけりゃ、俺はもっと人間扱いされたろうよ! 俺はずっと蔑まれてきた。蔑まれた人間がどうなるか知ってるか? 生き地獄に落ちるのよ! どんなやつもみんな敵だ、どれだけ時間がかかっても復讐してやる。だが! この人達は呆れるほどいい人なんだよう! お前には大したことじゃないだろうが、きちんと向き合い、誇りを与えてくれた。この世で大事なのは、金でも女でもねえ、誇りを持つことだ! どんな境遇だって、それがありゃあいいんだ!」

 ダボンは革のカバンから小さなナイフを取り出し、柄を捨て、腰のところで構えて右手で柄を包み込むように持った。体当たりでぶつかるつもりなんだ。

 って、あれ?

 気がついたら、あたしは青い光に包まれて、地面から十センチほど浮いていた。

 いつの間にか目が開いていて…驚いたことに無くなった右腕が、光りに包まれて…そこにあった。

「サクラ、こっちだ」

 左を見ると、お兄ちゃんも同じ青い光に包まれ、右手も明るく光っている。

 ダボンがわめく声ではっとそちらを向くと、ジャンヌに突進したところだったが、ジャンヌの手からは刃渡り十メートルはある巨大な剣が突き出て、彼を串刺しにした。あたしも、あれでやられたんだ。

「やめてえっ!」

「やめろっ…」

 あたしたち兄弟は青い光の殻を押したり、叩いたりしたけれど、びくともしなかった。

「まあ、そう慌てるな」魔王だか、ジャンヌだか分からない女の子は言った。

「お前たちの命をとる気はない。特別な力を切り離して、元の人間に戻してやったのだ」

 剣を引き抜くと、ダボンは前のめりに倒れて、大量の血が飛び散った。が、ジャンヌが手を掲げるとダボンの体も青い光に包まれ、やや後ろに傾いた格好で宙に浮いた。

「確かに、お前たちはいい人間の部類に入るだろう。こやつが、ダボンがここまで変わるとはな。予想外のことである」

 いきなり青い光の殻が割れて、あたしたちは地面に投げ出された。

「やり方が乱暴すぎるぞ!」

 お兄ちゃんが怒って言った。

「何か理由があってしたんだろうけれど、やり方がぞんざいすぎる!」お兄ちゃんは怒りでわなわなと震えていた。

 ジャンヌはきょとんとした。

「ふむ、そういうものか…。いや、すまないな。長く人間らしい行動をとることがなかったので、つい…そう、事務的に行動してしまったのだ」

「…あなたは、やっぱり魔王なんですか」お兄ちゃんが聞いた。

「正確には、我が本体は、そなたらの父と行動中だ。このジャンヌは、優秀な魔法使いでな。ちょっと体を借りているのだ。いや、もちろん本人の許可はとったぞ」

 あたしは右腕を動かし、なんの違和感もないのを知って、心からホッとした。それからダボンを見にいったが、傷口はきれいにふさがっていた。

「そなたらの、そういう行動が理解できぬ」魔王…メアリーは言った。「そういうのを、人間らしいというのだろうな。見れば分かる。懐かしい気持ちが感じられるのでな」

「僕らにも教えてください! この世界はいったいどうなってるんです?」

「ここは、異世界なんかじゃないんでしょうか?」あたしは言った。

「えっ」とお兄ちゃんが振り向いた。「どういうことだ」

「だって…タロットカードが使えるのよ、この世界。お母さんもあたしも、占いができるのよ。全然、別世界だったら、そんなもの、使えないんじゃない?」

 お兄ちゃんは目を見開いた。「じゃあ、いったいここはどこなんだ」

「正確には、西暦一万二千七十九年である」ジャンヌの体を通して、メアリーが言った。

「答えを教えてやろう。おっと。そなたたちは、食後に勉強の時間があったな。神経伝達を加速させよう」魔王が指を鳴らすと、風が止まった。「歩きながら話そうではないか。そこの男は…。仕方ない」もう一度指を鳴らすと、ダボンは宙に浮いて、気を失ったまま、あたしたちの後ろについてきた。


「我も元をたどれば人間なのだ」と魔王は言った。「歩き続けねばならんのは、我らの感覚を加速しているからだ。とどまっていると、その場の空気を吸い尽くして酸欠になるぞ」

 あたしたちは、宙で羽ばたいている鳥や、枯れ葉、そして陽の光までが静止している世界を歩いていた。

「西暦でいえば、二千年の後半、『シンギュラリティ』が起こった」

「人工知能が人間の知性を超えるっていう…?」お兄ちゃんが尋ねた。

「ふふ。そなたはもとの地球にいたときは幼かったのに、よく覚えていたな」

「父が話してくれたことがありましたから」

「話好きな親を持つとは、幸運なことだ」メアリーは校舎に入り、廊下を歩きだした。

「だが、ほんとうの意味での『シンギュラリティ』とは、そういった高度な人工知能と人間が統合することを示す。シンプルにいえば、人間の機能を機械が拡張するのだ。そして爆発的な進化が始まった。優れた発想が、またそれを超える発想を生む。これを再帰的という。この時点より、人間は変わった。無限に、しかも高速に進化を進めることになった。魔族と呼称さらる我らは『ポスト・ヒューマン』なのだ。原人からヒトはゆっくりと進化してきた。数千年の間、ヒトは基本的には変わらなかった。古代から人間の心は、人間という種族である限り、不変だ。だから古典には意義がある…。だがある時を境に、人間は自らをアップデートし続けることができる存在へと変わった。機械の力が、生物的な限界を取り払ったのだ」

「人類はどうなったんです?」お兄ちゃんは夕暮れの光線をくぐり抜けながら尋ねた。

「望んでも『ポスト・ヒューマン』になれない者もいた。金属アレルギーで機械を体内に埋め込むことができない者、電磁波で体調を悪化させてしまう者たち。あるいは、『非人間的』だとか、『人間らしさを失う』という思想で拒絶した者もいた。そうして、一部のヒトと『ポスト・ヒューマン』は隔絶した。後者は地球を飛び出し、宇宙へと旅立った。新しい知識を求めて…。残されたヒトは…この地上に残り、宇宙へ旅立つ前に残されたネットワークに依存した」

「それが…魔法ネットワークなんですね」

 魔王は頷いた。

「科学が十分に進化すると魔法と区別がつかなくなるというな。地球に残されたヒトは、次第に無気力になっていった。魔法ネットワークはすべてを管理し、公平に裁くことができたから。すべてを共有したから。各個人にふさわしいものを、すべて与えたのだ」

 魔王はため息をついた。

「その結果がこの世界だ」

「僕らは…時間旅行をしたんですか?」

「察しがいいな。だが、話の続きはまたにしよう。そなたらの父とある場所へ行かねばならん。時が来れば、また会おう」

 指を鳴らす音で気が付くと、あたしたちは勉強室に来ていることが分かった。

 それじや、ここは…未来なの?

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