第2話 創造主の訪問
入学式の明くる日。
お昼休みが半分ほど過ぎて、食事も終わった頃のことだった。
ジャンヌから言われた放課後のことは気になっていたけれど、それどころではなかった。だいたい、放課後、どこで待ち合わせるかも教えず、さっさと立ち去ってしまって、どういうつもりなんだろ? 昨晩はそのことを考えるとベッドに入ってからもなかなか寝付けなかった…というのは嘘で、新しいことばかりでくたびれてぐっすり眠れました。あたし、寝付きが悪かったことって、今まで一度もありません。
さて、朝のホームルーム。担任はオレンジ色の髪のマーガレット先生。髪型はショートカットで、年齢は三十で未婚と、ご自分で言い切ってしまうあたり、溌剌としているというか、なんというか。いつも白衣を着ているのは、化学の講師だからだそうだ。
ホームルームが終わるとすぐ社会学の授業から始まった。概論はとても面白かったけれど、中身に入っていくと新しい言葉についていくのがやっとだった。覚えることがたくさんあって、ノートをとる手が休まることはなかった。一年もしたら、ものすごい速記が出来るんじゃないだろうか。いや、もっともっと、早く書けるようになっていないと、こりゃー、大変だわ…。
午前中だけで大変な量の宿題が出て、もう、げんなり。
こんなのが毎日続くの? 大樹お兄ちゃん、よくやってこれてるなあ…。
昨日のパーティで仲良くなったサリー、サラ、それにショーンとブライという友達とテーブルを囲み、おしゃべりしながら学食を食べていたら、だんだんと元気が出てきた。
「もうへとへとですわ」と長い黒髪のサリー。言葉遣いから、あたしとは違って、本当のお嬢様だと思う。「みなさま、ついてこられています?」
「うーん…。正直半分も分からなかった」とブライ。ちょっとぽっちゃりしていて、真面目な目つきで教科書をパラパラ、真剣な青い瞳で見返している。「学問って、新しい言葉を覚えることでもあるんだな。俺、絶対復習して、ついていくぞ」
「いい意気じゃん。頑張れよ」とはショーン。
「あなたは結構、余裕みたいね?」とあたしが話しかけると、彼はにやっと笑った。
「うち、姉貴が上級生でさ、一年前から休みのたびに色々教えてもらってたんだ。ここの学習レベルが高いのはよく知られているからな」
「まあ。うらやましい。でも…ちょっとずるくないですか」と眼鏡を押し上げるのは、サラ。小柄で紫がかった髪の色をしている。ちょっと頬がこけている。
「何言ってるんだよ。俺は自分の周りにあるもので使えるものを使っただけさ。落ちこぼれになんか、なりたくないからね。それに、身内に同じ学校の出身者がいるだけじゃ、ひいきのひの字にもなりゃしないだろ。俺は一年前から真剣に勉強、大いなる予習とでもいえばいいか。そいつをやってただけさ」
言葉は軽いけれど、やるべきことはやってる。
「さすがに貴金属の卸売商・フォルツ家の人はすごいのね」とあたしはオレンジジュースを飲みながら、感心して言った。「うちもお兄さんがいるけれど…そこまでは出来なかった。教科書をかりて、最初の概論だけは一応、頭に入れてきたつもりだったけれど」
「ふーん…」とショーンはあたしのことを正面から見た。「で、どうだった?」
「どんな学問でもそうかも知れないけれど、概論は面白いと思ったわ。本当に理解している人が書いているからなのよね。そこから先の詳細となると、本当に真面目に取り組まないとダメね。ここでの教育は、社会の活動に直結していて、それを変える力を身につけるものなんだわ。難しいのは当然なんだと、やっと納得がいった。あたしって理屈っぽくてね。ただ、何かしら納得できれば、あとはもう迷わないわ。前進あるのみよ」
「そうだなあ。概論は面白い。それはそうだ。分からない人にも、学問の楽しさを紹介して、さあ中へ入ってごらんなさい、という芝居小屋の口上みたいなものだからな」
「俺は中に入って、未熟さを思い知ったよ」ブライは立ち上がると、教科書を片手で開いたまま持って、もう片方の手にはカバンをぶら下げた。「一人になって、復習してこなくちゃ。みんな、またあとでな」そして、ブライは食堂を出て行ってしまった。
「のんびりしているように見えて、ずいぶん頑張り屋さんみたいねえ。あたしは休み時間まで勉強する気にはなれませんわ…」とサラ。
ショーン・フォルツは、あたしのことを見ていた。何だろ。フォルツ家の人間ってこと、持ち出さないほうが良かったかな。純粋に感心しただけなんだけど。
「サクラ・ミキ。君さえ良ければ、勉強、教えてあげてもいいぜ」とショーンは言い出した。「人に教えるっていうのは大変なことだが、予習、復習をかねることにもなるしな。本当に自分が理解しているかを試すいい訓練にもなる。こちらにはそういうメリットがあるんだが、どうだい」
サリーとサラは、ちょっと顔を見合わせていた。そりゃあそうだ。友達以上になりたいのが見え透いている。
悪い人ではないと思うけれど。
自分の力でどこまで出来るかやってみたいし、分からなくなったら教えてもらえるかしら? と正直に言うと、ショーンは尊大に頷いてみせた。
ふむ? やっぱり、そういうタイプの人なのかな。
男の子って大人ぶってても、性格は結構分かりやすいものなのよね。そうはいきませんよう。
とりあえず、みんな初日は大変だけど、まだまだこれから、希望にあふれているって感じだった。当たり前だけど、若いっていいことだ。すぐ元気になれる。
そうだ。それに、ここでは…
あたしはふと、地球の学校のことを想った。
給食費が払えずバカにされるような子はいない。
家で親に暴力をふるわれている子もいない…。
学生らしく、子供らしくあれる。尊敬できる先生方がいる。
この異世界のこの場所は、平和そのものだ。
もちろん、エミンの町にも貧しい人はいる。それでも街道が出来てからは、ずいぶん活気が出てきたと聞いている。お父さんがあらゆる道を整備し、害虫退治、盗賊退治、はては荒れ地の開拓までやってのけたのだから…。
心配なのは、帝国のことだな。
魔王軍に戦争をしかけるための準備をしているとずっと聞いているけれど、この五年間、何も大きな事件は耳にしていない。多分、帝国だって無計画に行動したりはしないだろう。いい加減、諦めたんじゃないだろうか…。北極に軍隊を送るなんて、バカな考えじゃないだろうか?
心配事はないわけではなかったけれど、次第にあたしは満腹のおなかを抱えて、ただただ、学生らしい気分にひたろうとしていた…。
オレンジジュースのあと、ポットのお茶をいれて暖まり、やっとくつろいだ気分でいると、野太い声で「サクラお嬢様」と背後から声をかけられた。
振り返ったあたしは、一瞬だけど、恐怖にかられた。
目の前には、ダボンがいたから。
何も言えないあたしに、ダボンは深く頭を下げ、肩に斜めに下げた革の鞄を開けると、中から薄いピンクの封筒を取り出し、封をしてある方を表にし、あたしに向かって両手で差し出してきた。
「驚かれるのはごもっともです。まずはイツキ様より伝言を預かっておりますので。お読みいただけますでしょうか…」
「サクラお嬢様」
聞き覚えのある声がして、声のした方へ顔を向けると、食堂の真四角のドアのない入り口にはマリーが立っていた。
微笑しているその姿を見て、ほっとして、飛びつきたくなったけれど、そうはいかない。「マリー!」と小声で言って、小さく手を振ってみせるだけにした。
ダボンの差し出している封筒に向き直ると、それを受け取って、「分かりました…」とあたしは言った。
サラたちは、何事だろうかと、あたしたちの様子を見ていたが、ショーンが気を利かせて、二人をうながすとその場を離れていった。去り際にウインクなんかしちゃって…。ふーん。一応、気をきかせてくれるんだ。
一方、ダボンは、すごく何かに苦しんでいるように見えた。
これで魔法の攻撃でも企んでいたとしたら芝居がうますぎるけれど…。
封筒は裏にお父さんの字でちゃんと三木樹と日本語で書いてあり、赤い蝋に、枝を三本伸ばした木の紋章が押してあって、封印がされてある。とりあえず封を破ってみた。
中からは普通の手紙が出てきてホッとした。
ダボンが立ったままなのに気づき、あたしは「どうぞ…そのあたりに座っていてください」と言った。彼は頷いて、近くの椅子を引き寄せると座った。顔は上げなかった。
マリーにもあたしは頷いてみせた。彼女は首を振って、そのまま立っていた。そうか、ダボンの見張り役なんだわ。
あたしは手紙を読んでいった。
「桜へ。
急なことだが、いろいろと変化があったので取り急ぎ連絡します。
結論から言うと、お父さんは旅に出ることになった。
この手紙を読み終わったら、大樹にも、お前の手から渡して、読んでもらってほしい。
さて、大樹とお前には言わなかったが、お父さんはアースーンに来てから五年の間、ずっとダボンと仲良くなろうとしてきた。
ショックかも知れないが、私は彼を『囲いの魔法』にいつまでも閉じ込めておく気はなかったのでね。
理由としては、彼ほど、魔法に精通した者がこの近辺にはいないからだ。それに、人殺しでも私には裁く権利はない。人を閉じ込めるのも性に合わない…。内々に、グーテンさんとエミン町長とも、ずっと話し合っていたのだよ。
その結果、罪滅ぼしとして、今後十二年は、三木家に召使いとして仕えることになった。これは大人の決定だから、受け入れて欲しい。
最も、彼には町でやってもらうことが多いので、住まいは町の下宿を探してあてがっているんだ。だからあまりお前たちの生活には入り込んでこないから、心配しないでいい。
彼には検知魔法を使って、エミン町長と、図書館長と、検察庁の長官と、私、の四名で見張っている。自由のきく身ではない。どこへ行っても監視されているようなものだ。それに、エミンの町から私たちのお屋敷までの範囲内しか移動できないように取り決めたのだ。
ダボンは最初、そのようなことで自分の罪が許されるのかとずいぶん驚いていたよ。それに、三木家に奉仕している間は、それなりの給金も出る。贅沢はできないが、衣食住で困ることはない。初めはずいぶん困惑していたが、自分が持っている知識をすべて明文化してほしいと依頼したら、私の目的が何となく分かったようだ。
それから二ヶ月、今日まで真面目に仕事をこなし、毎日レポートを夕方に届けにくる。時には深夜まで質問をしたり、実際に何かを作ってもらったり。図書館で本も借りてきてもらえるし、助かっているよ。まあ、わずかな力でも三年の間、苦心してマリーやアイルをも苦しめた魔法を作った男だ。こつこつした仕事は向いているのだろう。また、トレント家をのっとるまでは、ひどい生活をしていたようだ。最初の一ヶ月は懐疑的だったが、最近はすっかり落ち着いてきた。もう眠るところを蹴り飛ばされたり、腹をすかせることもない、それだけで十分だとダボンは言っている。
さて、勘違いはしないでほしいのだが、ダボンより『優れた魔法』なら、使える者はそれなりにいる。例えばマリー、アイル、うちのメイドたちは、みんなそうだね。エミンでは、図書館長もそうだ。
だが、魔法そのものをしつこいくらい追求して、少ない力で何ができるかを検討した者となると、彼以外には残念ながら、私はまだ知らない。
お父さんは、この世界の魔法と呼ばれるものをずっと研究…検証してきたが、最初から抱いていた疑問がある。
強く念じれば、たいていのことは出来てしまうということ。
これは、ジョブズ氏からたっぷりと力を頂いたのだから当然といえばそのとおりなのだが、お父さんは力の働き方がどうなっているのか、ずっと分からなかった。無我夢中でやれることをやってきたまでだ。
ただ、分からないものをそのまま使い続けるのは間違ったことだと思っている。まあ、こうしつこく考えてしまうのは、エンジニアの職業病だな。
魔法使いの多くは、力を発揮する時、たいていは呪文を唱えることからはじめる。
『暗き夜に我らを見守る月とアースーンの三木樹の名において命じる』
初期の魔法使いであれば、このように唱えてから、さまざまなものに直接訴えかける。
『力が強まるにつれ』とは図書館長の言葉だ。
『次第に初期の唱和は必要なくなり、訴えかける呪文も、必要がなくなっていくのです。大魔法使いとなると、考えるだけで魔法を行使できるのです』
なぜ?
お父さんはその理屈が知りたかった。が、そういうものだとしか回答は得られなかった。
そういうものだと納得できれば良かったのだが。お父さんが納得できなかったのは、明らかに魔法と呼ばれるものには、それを使う者以外のコントロールが働いていることが予想できたからだ。『誰かが見ている』とね…。
そこで、ダボンのことだが、彼の傷ついた腕を修復した時、マリーが驚いていたのを覚えているかな。
あの時、お父さんは具体的に、力に指示を出して…つまり、手順を説明して使ってみた。そうすると、どうなったか?
魔法の力を、ほとんど使わずにすんだんだ。
傷口を閉じ、骨を合わせ、血管をつないで血を通わせ、自分のカロリーでもってそれらをなしとげよ、とね。くどいくらい、考えて、間違いのないように説明してみたんだ。
大魔法使いなら、『この者の腕を癒やしたまえ』と念じれば良い。お父さんはそうはしなかった。そうやって念じる…祈るといったらいいのか。
さて、それはいったい誰に向かってなのだ?
もちろん、魔法を作った魔王に決まっている。
そこでお父さんは魔王が怖かったので、おいそれと念じる訳にはいかなかった。
お父さんは出来るだけ、この世界のことが分かるまでは、魔王が気にかけるような存在にはなりたくなかった。もっとも、この世界に転生した時に空間を変異させた時の衝撃はすさまじく、アイルが飛んできたことから分かるように、三木家はかなり騒々しくこのアースーンに登場したのだ。魔王が異世界からの闖入者に気が付かないわけはないと思って、それからは、慎重にお父さんは行動してきたんだよ。
だから祈ったり念じることで『魔王の力』にすべてを委ねるのではなく、自分で出来る限り考えた。
つまり、お父さんは力の向かう先を自分で『プログラミング』したんだ。繰り返すが、具体的に、『指示、手順を与える』ということでね。
すると、そのように物事は動き、ダボンは回復した。
結論を言おう。この世界の魔法は、魔法の力を持っている者(言い換えればその資格を持つ者)が手順を正しく構築すれば、直接力を使うよりも、少ない力で目的を果たすことができる。場合によっては、単純に念じることより、複雑なことさえ可能になる。
『街道』を作る工程でも、なるべく具体的に力に命令を出した。
怒るかも知れないが…お父さんがその気になれば、念じるだけで、『街道』は生まれていただろう。
ひとりでに木は燃え上がって根から灰になり、粘土からレンガが誕生し、桜や大樹、萌の力も、鍛冶職人の力もかりずに、すべてがなしとげられただろう。
きっと、はるか昔、アースーンの人間に与えられていたのと同じくらい、強くて自由な魔法をふるまうことだって出来たはずなんだ。
だが、そんなことをしても何の意味もない。
桜も十三歳。もう、分かるよね?
魔王に見つかり、殺されるかも知れないということは置いておいて、仕事というのは、何かに、誰かに貢献できなければ意味がない。
沢山の人に会ったね。みんなの意見を聞いて、みんなが豊かになれる方法をみんなで考えてきた。そのために必要な力があれば、私はちょっとお手伝いをしてきた。
その結果、たくさんの雇用と仕事が生まれた。みんなのおかげで、三木家は貴族と認められた。
ここまでは、良かったね。
だが、今日は昼前に魔王がうちに来てしまってねえ。一緒に食事をしたのだよ」
…魔王と食事ですって?
あたしは顔を上げてダボンを見た。
彼はあたしの様子から、どこまで読んだか気がついたのだろう。唇をかんで、頷いた。
あたしは急いで手紙の先を読んだ。
「魔王は美しい人で、肩幅も広く力に満ちていたが、眉を曇らせていた。
居間で早目のお昼を萌といっしょに待っていると、お母さんが突然びくっと身体をこわばらせた。どうした、と聞いている間に、アイルがすさまじい早歩きでやってきて、私の隣に直立不動の姿勢をとった。
『イツキ様…。ま、ま、ま、ま』
『落ち着くがよい、アイル・デュナン』と戸口にその人が姿をあらわした。
真紅のドレスの上に黒いローブ。袖口に赤い刺繍の入った黒い手袋をはめ、右手には先端に真っ赤な宝石をあしらった金の杖を握っている。杖の表面には文字とも図形とも判別しがたいものが刻まれている。
黒のハイヒールをカツンと鳴らし、右のかかとを立てた。目の前に杖を両手で立てて体重を預けてこちらを見る瞳の色は真紅。髪の色も同じで、長く、腰まで垂らしていた。
『魔王、メアリー・スタウト様のご降臨でござる』
彼女の後ろから、黄金の甲冑を着ている人物が仮面の下からくぐもった声でそう言った。
『わたくしは、ハリー・ポット。魔王軍総帥。以後お見知りおきを』
我々は慌てて起立し、自己紹介をした。
『分かっている』魔王はふうっと息を吐いた。見た目は、私より若く見えた。せいぜい、三十五、六歳にしか見えない。
『そなたは異世界からやって来た。ふん。今まで、ずいぶん慎重に行動してくれたものだな。まあ、そなたが私利私欲のために動いているのではないことは分かっている。安心して、座ってよろしい。我々も着席させてもらうぞ』
すると、ハリーの後ろから、もうひとり、抜身の槍を手にした、仮面をつけていない他は、彼とほとんど同じ姿の女性も現れた。怖くなるほど赤い髪と、きらめく緑の瞳をしている。魔王は私に一番近い席に座り、身体をこちらに向けた。あとの二人は、魔王の背後に直立した。
私は厨房のサムを呼び、飲み物を用意してもらうように告げた。
『何になさいますか?』と聞くと、『水でよい』と魔王メアリーは言った。『酒は嫌いでな。茶を飲むゆとりは、今はない』
『と申されますと?』
『お主はもう気づいているであろう。魔法は、この世界の隅々にまで行き渡っているネットワークである』メアリーは言った。そしてこちらをじっと見つめると、『気が変わった。なにか食べたいが、我らの分はあるかな?』
サムを呼んで、ビーフシチューにシュトーレンとサラダを用意させた。サムたちの分を、メアリーたちにまわすことになったが、コックたちは何でもまかないますから、お気になさらずに、と余裕だった。そうか、魔王に料理をふるまえるなんて、滅多にあることじゃない。あとで町に行って、自慢しまくるのだろう。サムとはそういうあけっぴろげな性格なのである。
メアリーの後ろに控えていた重臣たちも席に付き、料理を堪能した。みな、おかわりをし、雑談をした。メアリーは、『この家は気に入っているのか』とか、『アイルが無事結婚できたことは、めでたい』とか言った。お父さんは、『この世界の北極とはどんなところなのでしょう。きっとお住まいは快適なのでしょうね』と言ってみた。魔王は『まあな』と微笑み、『いいところだ』と答えて、シュトーレンをちぎり、行儀良く口を動かした。
ちなみに、甲冑の人は、仮面を脱ぐと金髪がこぼれ、私よりニ、三歳は歳上のようだった。最初はあたりを警戒していたが、食事が終わる頃には…意外にも眠たそうだった。
紅茶が入ると、『さて、本題に入るとしよう』とメアリーは言った。
『誰かが願望を…何かを望むことで、魔法ネットワークは機能する。このネットワークは脳にあるシナプスに似ている。初心者は魔法をこれから行うことを宣言し、ネットワークに自分の存在を繰り返し覚えさせなくてはならぬ。そして繰り返し力を行使し、十分、正しく力をコントロールできると判断したところで、初期の唱和は必要がなくなる。その者は、魔法ネットワークの承認を得て、組み込まれるということなのだ』
サムに向かって、メアリーが空になったカップを差し出すと、サムが厨房の息子に声をかけた。ジャックがポット抱えて進み出て、魔王がテーブルの上に置き直したカップにたっぷりと注いだ。二人とも立派だな、とお父さんは思ったよ。メアリーは一息で飲み干した。
『魔法ネットワークには、二つの使い方がある。望むことと、工程を指示することだ』
魔王はお父さんを、じっと見つめた。
『帝国の魔法使いどもは、いつしかそれに気づき…我ら魔族の監視をかいくぐることに専念した。「工程を指示する場合、それが完了するまでは、魔法を検知することができないから」である。工程が進んでいる間は、検知魔法をもってしても何が行われているかは察知できぬ。遠隔からは、結果しか見て取れぬのだ』
メアリーは頭痛がするようで、こめかみを両手の拳でぐりぐりと押さえつけていた。
『人間は、自ら生み出した文明で滅びようとしている。一万年前と同じように…』
『どういうことです?』私は尋ねた。
『このまま工程系の魔法で戦略を立て、道具をつくり、命のない人形兵を大量生産するなら、それは我らの預かり知らぬところとなる、などと帝国軍は思い込んでいる。そして…残るのは、すべてを支配しようとした者の結果だけだ。その結果で我らは判断し、鉄槌を下すとも知らずに…。帝国はそなたと違い、我らを恐れてはおらん。魔法ネットワークの監視をかいくぐることができれば、どんなことでも我らには気づかれずに出来る、と、こう信じているからだ』
『馬鹿げたことですね。魔法ネットワーク…。それを管理しているのは、あなた方でしょう。どんなに細かく刻んで工程を組み立てることが出来たとしても、ネットワークの一部なんだ。管理人が気づかなわいわけがない。それに、その気になりさえすれば…』言いかけて、私は息を呑んだ。
『そうだ。故に、我は帝国の魔法ネットワークへの力の供給を止めてきたのだ』
魔王は目頭をおさえた。
ハリーが付け加えた。『帝国は大混乱に陥っておる。すべての魔法が機能しないのだからな』
『ちょっと待ってください。…病院とか、治療の魔法も…みんな…』
メアリーが何も言わないので、ハリーが引き続き語った。
『そうだ。もはや帝国の地においては、いかなる魔法も機能はせぬ。上下水道から、あらゆる工場で機能は停止した。病院もな…。明日にでも、誰かが隣国に密告すれば、帝国には様々な国が攻め込むだろう。帝国の軍事力は、その多くを工程系の魔法で開発してきたからな。今は、限りなく無防備なのだ』
大変なことになったものだ。
お父さんはメアリーの許可を得て、速記する速度を加速させ、大急ぎでこの手紙を書き上げたよ。
とりあえず魔王に着いていくことになった。
つまり、お父さんは、取り急ぎ、北極に行ってくることになった。
『この世界の人間は、今や救いようのない連中だが、お前はどう思う?』とメアリーは尋ねた。
『それと、お前にその気があるのなら、この世界の秘密をさらに教えてやってもいい。その結果、どのような返答をするか、実に興味深いのだよ…。お前がこの五年間、求めてきたものを与えてやろう。その程度の資格であれば、ミキ・イツキ。そなたはすでに持ち合わせている。我らに同行するか?』
というわけで、お父さんは行ってくる。
お母さんのことは、屋敷のみんなに任せている。まずないとは思うが、困ったことがあったら、例えダボンであっても、みんなで協力して乗り越えてほしい。私にどこまで出来るか分からないが、帝国の軍事関係者以外の人には罪はないと思うから、事態を好転できるものならそうしたいと思っている。
すまないが、お父さんの留守中は自重して行動してくれ。大樹もな。
いいか大樹、妹と学園生活を謳歌するんだぞ。いつまで平和が続くか分からない。
魔王メアリーは私に見せたいものがあるらしい。その上で、三木家が今後も工程系の魔法を使ってもいいか、最終的な判断を下すということなんだ。
では、行ってきます。帰ったらまたすぐ、ダボンに手紙をもたせる。今回の配達がうまくいくようなら、信頼して大丈夫だろう。いや、むしろ信用してあげなければ、彼自身、いつまでも人を信じることができないだろうからね。」
手紙はそこで終わっていた。
読み終わって呆然としていると、ダボンが「イツキ様はいい人だ」と言った。「どうしてここまでお考えになられるんだろう…」
あたしは手紙を元のように折りたたみ、封筒に入れると彼に言った。
「うちのお父さんは、虐げられている人を見るのが嫌なの。考えもなしに行動して命令する人たちが大嫌いなの。いくらでも代わりがいると考える人が嫌いなの。
うちのお父さんは穏やかに見えるけれど、心の中では理不尽なことに対して、ずっと、ずっと怒ってるのよ。自分が長いこと、そんな目に遭ってきたから、この世界で自分に出来ることがあるなら…。そうしたものと本当の意味で戦えるなら、これからだって、どんなことでもするんだと思うわ」
あたしは立ち上がると、マリーに近寄り、抱きついた。
「これから、お兄ちゃんのところへ行ってきます」
マリーは頷いた。
「魔王はいい人なのかしら?」あたしはあまり答えを期待せずに聞いてみた。
「魔王メアリー様は、人智をはるかに超えた方でございます。人間ではございません」マリーはおごそかに言うと、目を伏せた。