第5話 裏口
「話を続けますね」
魔王が言ったので、顔を上げると、メアリーが立ち上がっていた。萌が慌てて自分の席へ戻った。
見ている間に、メアリーの髪の毛がすうっと、床にまで垂れ下がった。
彼女の赤髪の頭皮から毛先に向かって、ゆっくりと金色に染まっていく。それもただ色が変わるのではなく、見ているものを惹きつけるように、輝きがゆっくりと渦を巻いているかのように。魔力、と私は思った。金色から緑色、次は緑色から群青。最後に深紅へと戻っていく。
「マリーやアイルたちは、魔族に近いものの、人間と暮らすことを決めた時から、我々のような特権的な魔法は使えなくなっています。とはいえ…感情が高まった時には、エネルギーが噴出して、外観を変えてしまうことがあります。
「ナノマシンは見ての通り、意志によって人間の姿形を変えることが可能です。ゆるやかな進化のスピードではなく、コンピューティングによって素早く環境に対応するため。ですが、有り余った力は他の科学と同様に、愉しみのために使われるようになったのです。自分の姿を好きなようにカスタマイズするという愉しみです」
メアリーが右腕を水平に持ち上げて人差し指を伸ばすと、その爪が一メートルほども、ニュッと伸びた。すぐにそれは引っ込んだ。
次に彼女が両腕を胸の前で組み、パッと広げると、数メートルはあろうかという巨大な純白の翼が背中に生え、羽が宙に舞った。私たち一家がその輝きに魅せられている間に、羽も翼も、きらめく光とともに、ゆっくりと溶けるように消えていく。
「あなたが最後にいた時代には、拡張現実の視覚効果を体験できたでしょう。好きな能力、好きなキャラクターになることが出来る。ナノマシンを使えば、現実そのものを自分の好みに変えていけるのです。
「自分の髪の色、皮膚の色、目の色…腕力、骨格まで、好みのものを選択できるようになっていきます。環境もお好みのまま。空気の香り、温度、湿度、あるいは住む環境を。そうなると、人種や肌の色の違いによる差別など無意味です。大切なのは『優れたソフトウェアを作り出せるか』。ここでいうソフトウェアとはプログラムのことだけではなく、有益な書物、音楽や映像のような作品をも含みます。時には宗教や哲学であることもあります。この世界で…未来永劫、肝心なのは、ソフトウェアなのです。
「優れたソフトウェアを作り出したものには、報酬が、物事を改変する力が与えられます。未来世界の人間にとって最も重要なのは、『血液』です。自分の身体をカスタマイズし、強力にして病気やアクシデントから守ることが出来るようにしていったのは、強い『赤血球』の力なのです」
メアリーが右の拳を顔の前で固めると、真っ赤な色が腕の付け根から流れ、拳はその色が凝結し、ネオンサインのように光を放った。
「赤血球は酸素を運ぶヘモグロビンをコントロールするため、より十全な働きをなすために必要なバージョンアップを積み重ねてきました。酸素を吸着させて運ぶ量が、あなたたちの想像も及ばないほど莫大なものになっているのです。魔族には心臓も、肺も腎臓も必要ありません。水中に沈められても何日も問題なく生き続けられます」
まるでバンパイアのようだ、と私は思った。
「血液はナノマシンが生み出す対流によって、循環しています。肉体を傷つけられても、即座に必要なタンパク質が集結し、傷口は修復され、病原菌は駆逐され、体外に放出されます。この世界で強さを象徴する色は、『赤』。それは赤血球のレベルを表しているのです。それはすなわちシステムの強さです。私の髪の色や、瞳は…実はもっと赤い色をしていますが、それは美しくはないと思います。なので普段は人間らしい、美しい、と感じられる明るさを保っているのですよ」
私は昔、アイルがダボンに腹を立てた時に、髪の毛が蛇のようにのたくっていたことを思い出した。そして…とても赤い色をしていたものだ。
そのことを口に出すと、メアリーは楽しそうに笑った。
「彼女らしい素直な反応ですね。そしてこの時代の人間が、貴族にのみ赤い靴を履くことを許しているのは、その色が頂点である力の証明の色だからなのです」
物音がして振り向くと、ハリー・ポットが壁の中から、何やら引き出しているところだった。壁の一部が滑らかにのたくって何かを吐き出している。
「あっ。あたしの荷物!」と桜が椅子から飛び出していった。
ハリーがにこにこしながら、トランクを桜に手渡しながら言った。
「ま、どうせこんなことだろうと思ってな。感動的な別れの挨拶をしたのはいいが、お前たち、自分の荷物を学園に忘れてきただろう。アイルに連絡して引き取ってもらったあと、こちらまで運ばせたのだ。アイルには例の門のところで待ってもらっている」
大樹もすぐにハリーの元へ駆けつけた。
「お前は、このボストンバッグだな。アイルはきちんと仕事をしたようだぞ」
「ありがとうございます。本当に」大樹は荷物を抱え、素直に頭を下げた。
「ごめんなさい。あたし正直なところ、ハリーさんって無神経な人かと思ってました。だけど思い込みだったみたい。ありがとうございます。この世界の筆記具って細かい彫り物してあったり、ノートもしっかりした生地できれいなカバーが付いているし…あたし、お気に入りだったの」
「僕もです。本当にありがとう、ハリーさん」
ハリーは馬鹿みたいにうろたえていた。
「私たちは、人間に関わらないで生きていると、段々と『鈍く』なっていくのです…」
メアリーがため息をついた。
「なので、人間に接触すると、自分の中に生じるホルモンへの対処法に戸惑うことになるのです。私があなたを好きになったのも、めったに生じないホルモンに翻弄されているのかも知れませんね…」
「ということだから、樹さん、迷っちゃだめよ」と椅子から乗り出して腕を伸ばしてきた萌にひざをつねられて、何も悪いことをしていないのに私は飛び上がっていた。
そのあと、ズズン、と床から軽い響きが伝わった。
メアリーとハリーがゆっくりと顔を上げた。何かに耳を澄ますように。
「最後に、精霊について、お話しておきましょう」
「最後?」
「ええ。この会話も長くは出来ません。時間が差し迫っています。
「あなたは、魔法ネットワークと同じように…しかしもっと高次元の精霊のネットワークがあると考えてしまったようですが、それは間違っています」
「そうなんですか? 魔法より精霊の方が強い、と話されていたので、てっきりそうなのだと…」
「これは、あなたのように論理的にものを考える人間にはショックなことかも。いえ…萌さんと桜さんのことをあなたがどう考えているか、私は知らないのでこんなことを言うのですが…」
急に魔王メアリーがしおらしく見えた。
「精霊は、精霊なのです…。火の精霊は、火を象徴する力そのもので…人間のコンピューティングとは、何の関係もないのです」
私はポカンとし、次に、少しぞっとして私たち家族を取り囲んでいる光の粒を見渡した。
「ああ…そういうことだったのか。これは、本当の、魔法なんですね」
私はぶるっと背中を震わせて、納得した。
「この時代の科学をもってしても、なお解き明かすことが出来ない存在、というものがあります。精霊、魔法、占い…。まったく論理的ではありませんが、それはそういうものなのです」
「時々、占いを論理的にパターン化できないかなんて言う人がいるんだけど…論理的じゃないですからね、占いは。あたしたちは」
萌が言って、肩をすくめた。
「あたしたちは、ただひらめくの。ただ分かるの。話を聞いたり、タロットカードを混ぜたりもするけれど、それは答えを出すためのきっかけに過ぎないことも、よくあるわ。でも、何の根拠もなく当ててしまっても信じてくれないから、カードの意味がどうとか言ってこじつけてしまうのだけれど(とてもよく分かる時はなおさら)。パターン化とか、理屈があるから答えが出るわけではないの。すごい人ほど、いきなり分かるのよ」
私は苦笑した。
「萌は…会ったこともない人の性格や行動をズバリと言い当てますけど、そこに論理なんてないですね…。実は私も最初はロジックで表現して、ゲームみたいなものが作れないかなどと、よく分かっていない時はそんな馬鹿なことを考えたりしたんですが。まったく、そういうものじゃありませんでした。だから…あなたが精霊を、コンピューティングじゃなくて、精霊そのものだとおっしゃっても、私は受け入れることができますよ。そういった世界が存在することは、今さら疑っていません。プログラマの同僚だった連中には、きっと理解できないでしょうが」
「分かっています…。私が、繰り返し読んでいる本があります」
メアリーが最初に自分が座っていた椅子を手で示した。その脇に置かれている本のことを言っているらしい。
「科学者であり、芸術家でもあった偉大なゲーテ。ヨハン・シュトラウス・フォン・ゲーテは…そういったもののことを『デモーニック』と呼んでいました。あそこに置いてあるのは、エッカーマン著『ゲーテとの対話』です。そこにデモーニックな要素を持つ人について、彼の姿勢が書かれているのを読むのが、私は、とても好きなのです。私は人間のコンピューティングの結果、ここにある存在です。それは複雑ですが、説明がつくもので、すっきりしています。
「ですが、心のずっと奥底では、何か尊厳を感じるべきものがあると思っているのです。自分たちの祖先のことだったり、伝統や習慣のこと。今を生きていくのには決して必要ではないでしょうが、私はそれを知りたい。これは人間としては正しいでしょうが、論理的ではないでしょう? 歳をとっても、常に賢明だったゲーテに会って話をしてみたかった。尊敬すべき人間に会って、直に話をしてみたかった。そうすれば小賢しい知識などではなく、大切にすべき本当の知恵というものを、自分自身の手で、自分自身の中に発見できたに違いないと思うのです。
「どうしても解決できないことがあると、ゲーテはデモーニックな精神を持つ人のところへ行って相談します(占い師ではありませんよ!)。あとはその人のアドバイスに従っているだけで良い…」
メアリーは夢を見るように話した。私たちはみんな、それに共感し、心を震わせていた。
「ゲーテが優れた観察力を持っているというのは知っていましたが、論理的でないものの特性も、見抜いていたんですね。なんて人だ。『ゲーテのとの対話』、読んでみたかったなあ…」
私がぼやくと、メアリーは微笑し、本に向かって手を差し出した。それは宙に浮くと飛んできて、彼女の両手の中におさまった。メアリーはそれを両手で私に差し出した。
「どうぞ、差し上げます。あなたの時代の日本版は上中下の三巻ですが、これは合本です」
「いいんですか?」
反射的に答えつつも、私は久しぶりに見るれっきとした日本語の単行本に魅せられていた。日本語の活字に飢えていたのだ。
「誰かが何かで心から喜ぶことを知っていて、それを自分の手で差し出すことが出来るというのは、とても素晴らしいことだと思いませんか? 単純ですが、そこには愛情以外の何物もないと思うのです。ずっと停滞しているのに近い世界でした、私の魔王としての世界は。ですが、これから何が起きようと、私は満足することができました。これで十分です。
「楽しい会話の時間は終わりです。人類の敵がきました」
メアリーは私に本を押し付けた。
メアリーの声が途切れると、萌たちが入ってきた壁(今はいつの間にか穴がふさがっていた)の真ん中に赤い円が現れてきた。
「私の後ろへ」と魔王が言ったので、私と萌は立ち上がり、彼女の背中へ回った。
すぐにハリーが子供たちを引き連れてきた。
「なかなか楽しかったぞ、樹。子供は可愛いものだな。まったく、理屈ではない。理屈など、この場合、役には立たん」
ハリーが言い、すぐにその手の中に抜身の黄金の剣を出現させて両手で握りしめると、メアリーの前に進み、腰を落として立った。
壁の赤い円はやがて直径五メートルほどにもなった。突然、赤い部分がドロリと溶けると、床に液状になったものが積み重なっていき、その動きが止まると、壁には大きな穴が開いていた。
壁が崩壊した。穴の周辺にひび割れが生じたかと思うと、ボロボロと砂のように一面が崩れていく。
「ここが貴様の根城か…。ようやく会えたな、魔王を騙る女」
崩れていく壁の向こうから声がした。そして、何百人もの人が足を踏み鳴らして近づいてくる轟音も。
「帝国王、ロブ・スティーブンソン。火の精霊使い、カイザー・ロビンソン」
メアリーが会釈した。
「連絡方法は教えてあったはず。正門から盛大に出迎えたのに。裏口から入ってくるとは、帝国王も落ちぶれたものだな」
尊大な口調に戻り、メアリーは気軽な服装から甲冑と深紅のマントを身に着け、特注の杖を携えた正装に変身していた。
私は、まさか、という思いでいっぱいだった。メアリーでさえ無断でここには入れないのに、ただの人間がどうやって? と。が、すぐにその部屋は甲冑で身を固めた兵士でいっぱいになった。部屋に入ってきたのは二十人くらいだろう。誰もが青白く光を放つ何らかの魔法の武器を持っている。国を出てきたので使えるのだろう。甲冑で顔が見えないのが不気味だった。私が反射的に恐怖を感じたのは、青く光る矢じりを構えた射手の姿だった。もう、金輪際、あの手の武器に射抜かれたくはない。
この暴力的な集団の先頭には、メアリーが呼びかけた二人の男が立っている。
肩まである長髪で、薄く髭を生やした美男子といっていい、痩せぎすの男。彼は純白のマントを身に着け、甲冑は付けず、白のスーツに、両手には金の腕輪をはめ、金の靴で腕組みをして立っている。
そのすぐ横には百歳近いと思われる、皺だらけの男が黒マント、黒ズボンの姿で、薄手の甲冑に身を固め、やや背中を丸めて立っている。眼光は鋭いが、頬はこけていた。顔色が見るからに悪いし、肩が上下にゆれていて、息も荒いようだ。
「あの、裏口って何のことです?」私はメアリーに尋ねた。
「なに、そなたらが通ってきた門のことだ。正統な客人は、内側から大門を開け離して迎える。客人にわざわざ認証など、もうけはせん。外から開くことは出来ないが、内側に既にいる認証者には、開ける通路があるということだ」
「誰か他にいるのか?」
ロブが神経質な声を上げた。
「お前たちとは違って、我らには親愛なる客人がいるが、引き合わせたくはないのでな。遠慮してもらっている。お前たちは、会話ではなく、破壊と征服しか興味がないのであろう」
メアリーが軽蔑するように答えた後、私にこっそり耳打ちした。「そなたの家族の姿は光学迷彩で隠してある。あいつらに見えはしない」
その時、カイザーが両手をこちらにかざした。すると渦巻く炎が出現し、こちらへ噴出してきた。初めて攻撃の形を見るが、これがサラマンダーの力か、と私は思った。空気を吸い込むのか、それとも獣のような存在なのか、キーッと甲高い音が辺りに充満する。
「ふん!」
ハリーが両手で握った剣を振り下ろすと、炎は二手に分かれて彼を包み込んだ。
「ハリーさん!」桜が叫んだ。
次の瞬間、炎が動きを止めたように見えた。それから小さく光る青い火花のようなものが何百も動いたかと思うと、ハリーの立っていた場所が爆発した。
「どうだ…」
帝国王が低い声で唸った。
その肩にポン、と後ろから手を置いた人物がいた。ハリーだ。
「そういった直接的な存在ではない、と何度も申したはず」
王は、腰の長剣を抜いて飛び退った。
カイザー老人は急には姿勢を変えられないようで、ゆっくりと彼に向き直った。
「撃て、かかれ、何をしているか、奴らを滅ぼせ!」王がわめくと、射手が矢を放ち、剣をさげた兵士がメアリーとハリーに向かっていく。
鈍い振動を立てて、魔法の矢じりが、剣が、盾が、粉々に砕けた。兵士たちの甲冑の仮面が真っ二つに一度に割れたかと思うと、現れたその顔はどれも脱力し、呆けた表情で、次の瞬間には床に全員が横たわっていた。気絶させられたようだ。
「ご苦労であった、カイザー!」メアリーが高らかに声を上げる。
「愚か者どもをここまで率いてくれて感謝する…」
「なにを…」帝国王が驚嘆し、絶句する。
「絶対防御の砦のすきを見付けたと、カイザーは申したであろう。そこへ至る魔法の通路もサラマンダーが見つけたとな。なぜ、お前はそれを信じたのだ? まったく論理的ではないな。我は五年の間、ここがどんな場所かを伝えたな。お前は常に疑心暗鬼だった。その結果がこれだ。お前はまったく論理的ではないが、心から信じたいわずかな希望にかけたのだ。国民の不信で充満する国から出てこられるなら、理由は何でも良かったのだ。魔法を牛耳る悪魔を滅ぼし、世界を元通りにすると言って従順で健康で無実な兵士たちをだまして連れてきたのだ。
「いいか。我はまだ何も失ってはいない。だからまだ、いくらでも慈悲深くなれる…。もう二度とは言わない。魔法は、根本的には決してお前たちの勝手にはならない。魔法を戦争に使い、命を破壊することは決して許されることではない」
「お前が、なぜ、ルールを決めるのだ?」
王は怒りで顔を真っ赤にして怒鳴った。
「俺からすべてを奪った貴様を決して許さぬ」
ロブ・スティーブンソンはカイザーに向き直った。
「この裏切り者め…、貴様は父の代から俺をいつも支えてきたのに、いつも力になってくれたのに…。最後の最後でなぜ手を離すのだ?」
「あなた様に仕えてきて、光栄でした」
カイザーは深々と頭を下げ、ゆっくりと顔を上げた。
「ですが、あなたの野心が大きくなるにつれて、私は自分の責任を果たさなくてはと、この五年間、毎日それを考えるばかりでした。私は一年前から、魔王様に相談していたのです。罵ってくれて構いません。ですが、この瞬間まで、私はあなたの命令に背いたことは一度もありません。私は国王様に仕える身。決しては裏切ることは出来ない。わが子のように見守ってきたからです。ですが、国を亡ぼすことになった時は、私が自らの手で決着を付けなければならないと、その時は責任をとるので、どうか国を救ってはくれないかと、メアリー様に願ったのです」
突然、老人の動きが早くなった。
彼がマントの片方を握って引き寄せ、次にぱっと開け放つと、マントの内側の影から黒装束の人間が四人、飛び出してきた。スキンヘッドの男が三人、一人は五十代くらいでリーダー格のように見え、あとの二人は二十代、もう一人は女性で三十代くらい。
「カイザー様?」と出てきた黒装束の中の一人、リーダーに見える男が振り向くと問いかけた。
「魔王メアリーに近づいて、我らに捨て身の暗殺をさせるという任務は…どうなったのです」
「諜報機関ザイルの長官、ヒットとその部下に私から最後の命令だ」
カイザーが語ると、質問をするものは誰もいなかった。ザイルの四人は少し下がると皆、膝をついて命令を待った。
「諜報機関ザイルは解体し、政府監視委員会として新たに組織する。長官のヒットよ、お前は委員長として間違いのないよう、委員会を運用せよ」
カイザーは丸めた分厚い文書をマントの奥から引っ張り出すと、ヒットへと投げてよこした。
「政府には万が一の時の話は通してある。それを熟読し、手に負えないあ場合は国民から知恵者を集めよ。すべてを公にするのだぞ。間違っても自分の判断で国を動かすような野心をおこしてはならん」
「はっ。それは決して!」ヒットが頭を下げ、文書を拾い上げると、うやうやしく胸の前で握りしめる。
「それでは、私は自分なりの決着をつける」
カイザーは初対面の印象とは異なって、毅然とした態度で、早足で王に近づいた。
「他にどうしようもなかった」王は顔をそむけ、呟いた。
「分かっています。それは私も同じこと…。参りましょう」
二人の周りに炎の渦が現れた。キィーッとした甲高い響きが充満する。まだ彼らは炎に焼かれないが、その姿は床から離れて宙に持ち上がっていく。
「メアリー様、そこの兵士たちとザイル…そして我が国のこと、どうか許してくだされ」
「心配するな。そなたの覚悟、ずっと知っていたのだ」
メアリーを見ると、彼女は泣いていた。「私も結局、人の心を変えることは出来なかった」
カイザーが頷くと、炎がさらに噴出し、その輪が大きくなり、回転を速めた。
音はなおも高まり、そして最後の時、炎同士がぶつかりあい、部屋は光で満たされ、何も見えなくなった。誰かが叫んでいるような気がした。激しい光と爆発音で目と耳をふさぎたくなった時、メアリーの声がこう告げたのをはっきりと聞いた。
「あなた方は外へ。もう二度と会うことはないでしょう。さようなら。今後どうするかは、エンデに相談するといいでしょう」
すべてが暗くなったかと思うと、私たち家族はどこかへ向かって落ちてった。萌が私の名前を、桜が、大樹が、お父さんお母さんと叫ぶ声がした。