第一話 高橋健吉のこと
高橋健吉は六歳の時に母親の情夫を半殺しにした。彼はそれをきっかけとして家を出た。以来、野良同然の生活をすることとなった。そして保護をしようとする警察等から逃げているうちに人のいない場所へと流れて行き、十二歳になる頃には完全に山の住人となっていた。
転機は十六歳の時に訪れた。山で熊と遭遇したのだ。かってない強敵に苦戦をするものの彼はこれに勝利する。しかし、熊の生肉を喰らいながらも彼は内心で恐怖していた。まだ街にいたころ、数人単位で行動する愚連隊や無線で連携をとる警察がいたことを思い出したのだ。「今、自分が喰らっているこの生物が群れて襲ってきたら勝てない!」ならば……去るしかない。それが彼の下した結論であった。こうして健吉は逃げるように山から降りたのである。
第二の故郷を追われた健吉は街に出た。身なりが汚く、言葉を忘れてなかなか出てこない彼に対して社会は厳しく、世の中に居場所はなかった。
居場所がなければ作ればよい。彼にそんな意識はなかったが、結果としてはそうなった。障害となる者には次々と拳をお見舞いしてそれを排除する。当然ながら排除される側も黙っておらず、度々の大立ち回りが繰り広げられた。……が、もちろんの話だが熊を撲殺できる人間(?)に勝てる者はいなかった。
その結果というわけではないないだろうが、まるで環境に適応するかのように健吉の肉体は頑健に育った。成人するころには身長198cm体重150kg、全身を筋肉の鎧で覆われた豪然たる肉体を誇るようになっていた。そして彼の体には銃創が五カ所、刀傷が三十八カ所、その他の傷が八カ所、その跡が大立ち回りの証として今も刻まれている。そして三十二歳となった今では、もはや彼に挑もうとする者はおらず、チンピラは勿論のこと、親分衆でさえも道を譲る存在となっていた。
そして時は四月中旬。桜の花が散りつつあった。世間が新年度の喧騒から落ち着きつつある中で、健吉はトレードマークとなっている真っ赤な----本来は返り血を目立たせないための----スーツに身を包み繁華街の路地裏にある雑居ビルへと向かっていた。その理由はといえば、なんのことはない。バカラ賭博で日銭を稼ごうという腹積もりであった。
そんな健吉の目の前で一人の子供が泣いていた。年の頃は五歳くらいだろうか。時刻は昼の十二時。太陽は頭上で輝いていた。繁華街の路地裏、しかも平日である。普段は他人に干渉しない健吉も流石に気になったのか、子供の前にしゃがむと声をかけた。
「おう坊主、こんな場所でどうした?」
「……」
子供は俯いたまましばらく沈黙を保った。しかし、やがて覚悟を決めた様に顔をあげると、頬に刀傷のある顔を真っ直ぐに見つめて口を開いた。
「小学校落ちた、おまえ死ね‼」
健吉には事態が理解できなかった。……が、子供の右手に刃渡り三十センチを超える刺身包丁が握られているのは確認できた。
普段の彼ならば即座に殴って終了であった。……が、この時には一瞬躊躇した。相手が子供だったからなのか意味不明の言動に意識がいったからなのかは、当の本人にもわからないところだろう。
ただ一つ確かなことは、この躊躇が一瞬の遅れを生み出し、その代償として左腹部に包丁を深々と突き立てられたという事実である。
包丁はそこから捻じられ、さらには真横へと引かれていく。
「やるじゃねぇか……」
健吉が口元を歪ませ苦悶とも喜びともとれる表情を浮かべる。すると包丁を刺していた子供の体が宙へと舞った。彼の右拳が子供の顎を砕いたのだ。
「……アスピリンは残ってたかな?」
健吉は一言こぼすと子供の方を一顧だにせずに家路へとつくのであった。
その日、家で眠っていたはずの健吉はいつの間にか見慣れぬ河原に立っていた。
何とも寂しい河原であり、草木一本見当たらず生き物の気配すら感じられない。人の背丈ほどに積み上げられた河原の石が、まるで塔の様に幾つも立っているのが異様さに拍車をかける。
だが、健吉の関心事は何故自分がここにいるのかの一点であった。数秒かけて自身の記憶を呼び起こす。
あの後、家に帰るや何時もの様に傷口を釣り糸で縫合したのは確かであった。流石に内臓を傷つけられたのは初めてで、臭いと相まって腸の縫合に苦戦した記憶があったのだ。縫合が終わった後は、やはりこれも何時もの様にアスピリン数錠をウォッカで流し込んで眠ったはずである。
そこまで思い出したところで傷口の確認をする。不思議なことに傷はない。一方でシャツは横一文字に切り裂かれている。そしてシャツにもスーツにも血痕なし。
整合性のなさから夢かと思い始めた健吉に声をかける人影があった。
「もし、そこの御仁」
何時からそこに居たのか、健吉の背後に和服姿の老婆が立っていた。
「あの川は葬頭河。早い話が三途の川だわさ」
しわがれ声が続く。
「あの川の向こうは死後の国。知っての通り、そこで閻魔様のお裁きを受けるのが習わしなのさ」
「俺は死んだってことか」
健吉は振り返りもせずに老婆に質問を出す。
「ええ、ええ。普段ならアタシがあんたの服を船賃代わりに貰ってね。そしてあんたを船頭に引き渡すんのさ」
「奪衣婆って奴か」
「理解が早くて助かるね」
奪衣婆は軽く笑いながら懐をまさぐると一枚の紙を取り出した。
「だけど、アンタは特別らしくってね。閻魔様から指示を受けてるんだよ」
そして咳払いを一つして紙を読み上げていく。
『高橋健吉は常であれば地獄行きであるが、彼の者は彼岸で責めるには及ばず。此岸において贖罪させるべし。なお、暴徒となる虞がある由に、河原の獄卒は引き上げさせておくべし』
奪衣婆は紙を懐に仕舞うと、健吉の前に回り込みその顔をまじまじと眺める。
「この仕事を千年以上やってるけど、こんな通達は初めてでねぇ……。なんにしても還るとエエわ。振り返るだけだから簡単だろ。それであんたは奇跡的に一命をとりとめる。メデタシメデタシ……じゃろ?」
言われた健吉はというと、聞いてないのか聞こえてないのか黒いネクタイを緩め始める。
「何をしてんだい? アンタは脱がなくてもいいんだよ」
「閻魔を名乗る野郎はあの川の向こうか?」
奪衣婆の問いを無視して健吉は逆に質問をする。
「名乗るって……そりゃ閻魔様は彼岸でお裁き中だわさ」
「そうか」
健吉は一言返すと川の方へと一歩踏み出した。
「ちょ、ちょっとどこに行くんだい!」
奪衣婆が慌てて制止する。
「なに、ちょっと挨拶してやろうと思ってな」
当の健吉はどこ吹く風である。
「挨拶も何も振り返って還ればいいんだよ!」
「人の生きざまを評価しようなんて舐めた……お偉い野郎の御尊顔を拝ませてもらうぜ」
「なに言ってんだい! それが閻魔様のお仕事なんだよ!」
「人は自分の生き方を決められねぇってのに、それを裁こうなんざ何様なんだかな」
奪衣婆は歩みを止めない健吉の前に立ち塞がり、なおも制止する。
「何様もなにも閻魔様だよ! あんたはそんな事も知らないのかい!」
「同じ人間だろ?」
健吉は絶叫調の奪衣婆を突き飛ばし前進を止めない。
「同じなものかい! 閻魔様って言ってんだろが!」
奪衣婆はそう叫びながら背後から腰にしがみ付く。
「早く死んだのがそんなに偉いもんなのかねぇ?」
そんな調子で健吉は背後の奪衣婆を気にすることなく引き摺りながら川べりにまで進んでいく。
川べりにまで行きつくと、奪衣婆もようやく観念したのか腰から離れた。
「あんたがその気でもね、渡し守は……舟は来ないよ!」
奪衣婆は呼吸を整えながら続ける。
「大昔に力尽くで……渡し守を脅して彼岸に行った御方が居てね。その二の舞を避ける為にあんたが還るまで舟は来ないことになってんの」
奪衣婆はそこで若干得意気に見える笑みを浮かべた。
「残念だけど諦めな。大人しく回れ右をして----」
「舟が来ねぇのなら泳ぐまでよ」
健吉はそう言い放つと、勢いよく川に飛び込んだ。
……三途の川に飛び込んだはずの高橋健吉は見慣れぬ森の中にいた。勢いよく水面に飛び込んだはずの彼は何故か陸上に飛ばされたのだ。
飛び込んだ格好のまま、あわや大地とキスをしそうになるもすんでのところで踏ん張れたのは彼の筋力と運動神経の賜物だろう。
健吉は辺りを見渡した後に確認するように腹を一擦りする。やはり傷はもとより傷跡すらない。一方でシャツが切り裂かれているのは先ほどと変わりない。そして緩めたネクタイもそのままだった。
確認を終えた健吉は軽く息を吐くとともに近くの大木に近づく。そしておもむろに拳を引いたかと思ったら、大振りの一撃を放った。木は激しく揺れるが、揺らした本人はそれを気にする様子はなく拳の塩梅を確認するように数回指を開け閉めする。
そして左頬を掻くとネクタイを締め直し、行くあてもないまま森の中へと消えて行った。
補足
>早く死んだのがそんなに偉いもんなのかねぇ?
リグヴェーダによれば初めて死んだ人間が冥界の王なんですって
>渡し守を脅して彼岸に行った御方
ヘラクレスのこと