復讐のお供に
男は走った。
舗装された道どころか獣道ですらない暗い森の藪を掻き分けて、ただ前のめりに走り続けた。
滝のような汗に濡れた顔は、焦りと絶望と溢れんばかりの憎悪で彩られていた。
男の遠くの方で明かりが幾つも瞬き、微かに怒号のようなものも聞こえる。
距離こそ遠のいているが、それが男に安堵をもたらせることは出来なかった。声に混じる獣の鳴き声。恐るべき追跡者の存在がある限り彼が見つかるのも時間の問題だった。
ふと男の視界が開ける。
森の外に出た訳ではない。森を切り開いて作られた古びた教会がポツリと建っていたのだ。
男は中に飛び込んだ。
助けを求める為ではない。せめて武器になるような物を探す為である。
廃墟に等しい教会に当然人などいる筈もなく、腐りかけの家具などが転がっている程度だった。
あんなに離したはずの声の主も、大分距離を詰めている。
男は飾られた女神像を見た。
数刻前神などいないと嘆いた男には最早神に祈るぐらいしか術がなくなっていた。
神に縋ることはもう男には出来ない。
悪魔に願うことも男には出来ない。
諦めることも男には出来ない。
神でも悪魔でもない誰かに願う。
助けて欲しいと。
やらなければいけないことがあるのだと。
奴らに復讐するまで死ねないのだと。
男の組んだ手は夜の冷気と汗の蒸発によって、凍えるような冷たさになっていた。
その男より冷たい何かが男に触れた。
男は顔を上げた。
しかしそこに誰もいない。
依然として冷たい何かが触れている感触があるにも関わらず、だ。
男の耳に微かな囁きが届く。
私があなたを助けます、と。
**
男を追っていた追跡者は気付いた。
恐ろしいものが近づいていると。
怯える彼に主が訝しげな顔をする。
主が命令する。男を探せと。
忠実な彼は、それでも動けなかった。
恐ろしいものが近づいてくる。
声も出せないほど恐ろしいものが来る。
音もなく、主も気付かないソレ。
もうすぐそこにまで来ているのだ。
青白い、主と同じヒトの女の姿をしたもの。
木々をすり抜け地面から浮いたソレは彼が見たことがないものだった。
主にはソレが見えないらしい。だから主は彼にどうすればいいか教えることが出来ない。
主を女から守るように立てたのは、彼の忠誠が真のものだったからだろう。
女は笑う。耳障りなノイズを伴ったソレは彼の僅かばかりの勇気と忠誠の芯をへし折っていった。
彼をこの場に留まらせていた想いが無くなった今、彼が逃げない理由がなかった。
恐怖という本能に突き動かされて彼は走った。
獣道ですらない藪の中を突っ切って。
大事な主を捨て置いて。
彼はひたすら走った。
逃げ帰った住処で彼は丸くなって震えた。
夜が明け朝になっても恐怖は抜けない。
彼の震えは主が優しく撫でてくれるまで止まらないだろう。
しかし彼を乱暴でも暖かい手が撫でることは二度とないのだ。
**
男の側に何かがいることは、あの教会の件から分かっていた。
あの後奇跡的に逃れることが出来た男は、不思議と側に誰かがいる感覚が拭えなかった。
危険な目に合う度に奇妙に難を逃れる事が数回。
そして確定的な出来事がつい先程起きた。
男を殺そうとした暗殺者が見えぬ何かで絞め殺される様を。
男の側には変わらず冷えた何かがいる。
だがソレが暗殺者を殺したのだと男はなんとなく察した。
男を殺す様からソレは神である筈がなく。
悪魔というには男に何の要求もしてこない。
得体の知れないものを信じることは出来ない。
しかしソレは確かに自分の願いを聞き届けた者と思える。
ソレが何の為に自分を助けるかは分からないが、復讐を遂げるにはソレの手助けが必要なことは分かる。
ソレの気が変わらぬように気をつけるべきだろう。
だから男は礼を言った。
ソレに対して、初めて礼を言った。
聞こえるか定かでない。
ある意味これは男にとってソレの立ち位置を自分に教え込む儀式のようなものであって、聞いてなくても全く構わないとすら思っていた。
だから、次に起きたことに驚いた。
青白い女が、男の目の前に現れた。
地面から浮いた女は、明らかに人ならざる者だ。
しかし男は冷たい空気を纏うその存在は、常に感じていた見えぬソレと同じものであるように感じていた。
女は自己満足で男を助けていると告げた。
男はそれで自分の仮定に確信を持った。
教会から自分の側にいた見えぬソレこそ女であると。
幼い可憐な顔立ちの女が四六時中側にいたとおもうと少し恥ずかしい気分になったが、人じゃないからいいかと男は開き直ることにした。
アヤと名乗る女は不思議な力を持っていた。
男を守ってきたのはその力である。
負の感情から生まれる呪いというその力は、攻撃や妨害には相当使えるものである。
反面傷の手当などは全く出来ない、と男の傷だらけの見て申し訳なさそうに女は言った。
それでも男にとってこれ以上頼もしい存在はいなかった。
**
以来男は女の姿を見ることが出来るようになった。
女は常に男の側にいて、男の助けをする。
男は困っていることがあれば女に話すようにした。
そして女は男が思っている以上に真摯に協力した。
男はついに女に助ける理由を聞いた。
男にとって女は大切な存在になりつつあった。
切れる内に明らかにしなければ、将来男は復讐を諦める道を選ぶことも考えられたからだ。
女はあっさり答えた。
死んでなおも許せなかったから自分はこうなったのだと。
結局果たしきる前に祓われたのだけどと笑っていった。
要するに未練の解消だという異界の死人の女。
寂しそうな女にかける言葉を男は思いつけなかった。
ただ男は女と関係を切るという選択肢を捨てた。
彼女は自分の復讐を肯定した。
そして自分の復讐を手助けすることで女の未練が晴れるといいと男は思った。
私はあなたを助けると女は言った。
必ず復讐を遂げると男は告げた。
**
男は復讐を果たした。
そして男は今牢にいた。
未練をなくした女は消えた。
復讐誓ったあの日のようにまた男は一人になった。
それでも男は満ち足りていた。
空虚な想いを多く抱きながら、男は夢想する。
全て奪われる前の日々を。
そこにおずおずと加わる女の姿を。
お読み下さりありがとうございます。
ほの鬱系ssであっさりと読めるように書いたのですが、やっぱり削り過ぎた感が…申し訳ありません。
復讐相手や動機まで削った結果希釈し過ぎたコーヒーみたいななんとも言えないものになってしまいましたが、何か感じるものがあれば嬉しいです。