一九八×年 十四歳 2
それから一週間が過ぎ、また土曜がやってきた。部活をやめてからはすることも特にないし、勉強も今は特にテストが近いわけでもないので、差し迫ってやることもない。こんな日はだいたい、一人で街に出てぶらぶらする。勇気があればナンパでもしてみようかなとも思うが、ナンパした後どうしたらいいか分からない。お茶?映画?それともいきなりホテル?女子はいったい、何を望んでいるのか?何より、学校では「イケてない」方のグループにはめ込まれているので、自分にも自信がない。モデルをやっている時は、ナルキッソスのごとく自分に酔いしれているが、モデルが終わると、まるで魔法が解けたように自信がなくなる。男は見た目だけじゃない。いや、外見が問題ではないのだろう。よく行く洋服店のお姉さんなんかは、「今度プライベートで会いましょ」などと言って、電話番号を書いた名刺をくれることもある。営業トークならそれでもいいが、もし本気だったとしても、そのお姉さんに対してどう接したらいいのかわからない。自信がないのはむしろ中身の方かもしれない。自分さえよければいいと思っているわけではないが、いざとなれば可愛いのは自分である。街で彼女がヤンキーに絡まれたとして、助けられるかと問われれば、自信がない。最悪の場合、彼女を置いて自分だけ逃げるかもしれない。きっと女子はそんな男が好きではないに違いない。学校でモテないのも、おそらく女子は、一定の時間同じ空間で時間を過ごすことで、それを見抜いているからなのだろう。女子というのは、中学生にして、男を見る目はしっかりしているのかもしれない。だとすると、これじゃあ、一生彼女なんてできないだろうな、などと考えながら歩いていると、突然後ろから
「トシくーん」
と呼ぶ声がした。びっくりして振り返ると、信行叔父さんと孝弘さんがいた。そういえば、叔父さんと街でばったり会うのは実は初めてかもしれない。街をぶらつくようになって結構経つが、なぜ今まで会わなかったのだろうか。
「ねえ、これからお茶しに行くんだけど、よかったら一緒にどう?結構面白い店だし」
と孝弘さんが言うと、叔父さんが返す。
「おい、甥っ子をこっちの世界に染める気か?」
『こっちの世界に染める』と聞いて、ちょっと好奇心が駆立てられ、自分は
「『こっちの世界』ってことはつまり…だよね?いいよ、別に。自分は平気」と承諾した。本当に染まろうと思ったわけではない。何だかつまらない日常を破れそうな、「普通」「平凡」から脱却できそうな気がしたからだ。
「おいおい、あまり変なこと勧めんなよ」と叔父さんは言ったものの、それほど困っている様子もなかった。
連れて行かれたのは、表通りを外れたところにある、古風な感じの喫茶店だった。『こっちの世界』とか言う割には、別段変わったところはないように思える。実際、ざっと見渡したところ、女性のお客さんもいる。自分が拍子抜けしたところで、それを打ち砕くような声が聞こえた。
「あらー、いらっしゃーい」
四〇代くらいの髭を蓄えたマスターらしき男性が、決して男らしいとは言えない口調で挨拶をした。
「信ちゃんと、孝弘くんね。こちらの可愛いお坊ちゃんは?」
と、そこら辺のおばちゃんのような口調で聞く姿に、度肝を抜かれた。
「これは甥っ子。まだ中学生だからね。変なこと教えないでよ」と叔父さんが釘をさすと、その髭のマスターが
「あら、中学生も来るわよ、うち。バーじゃないからね。美味しいケーキセットもあるわよ。いかが?」
と自分の腕を触りつつ言ってくるので、ここで怯んだら負けだと思い、
「はい!いただきます!」
と元気を振り絞って答えた。マスターも上機嫌になったようで、
「ノリのいい子ね。気に入ったわ。私は大吾。よろしく。あなたは?」
心の中で、「『大吾』だって、名前と見た目は男らしいな」と突っ込みを入れつつ答えた。
「えっと、下の名前の方がいいんですかね?俊哉です」
「じゃ、トシくんね。さ、皆、カウンター席にどうぞ」
三人はカウンターに案内された。カウンターにはもう二人、常連客と思われる男がいた。彼らもそうなのだろうか。
店は、十人位が座れるカウンターが一つに、四人掛けのテーブル席がいくつかあり、さらに六人掛けのテーブル席もあり、結構広い。木目調の内装にテーブルや椅子といった、昔からあるタイプの店だ。常連客は基本的にカウンター席に座り、それ以外の客や一般客はテーブル席に座る。また、常連客でもカウンター席が一杯の時や、大人数で来てるような場合はテーブル席に回るようだ。なお、マスターの他、二人従業員がいたが、揃って美形で、しかも二人ともそっち系らしい。美形と言っても、いわゆるきりっとした男らしい美形で、中性的な感じではない。ちなみにこれで全員というわけではなく、あと二人いるらしいが、一人は休み、一人は夜から来るそうだ。ケーキ類はマスターの手作りというわけではなく、知合いのケーキ職人の店から仕入れているとか。ちなみにそのケーキ職人も、そっち系だ。何だかそっち系って、互助組合みたいで、ちょっと微笑ましいかも、と思った。三人はケーキセットを頼み、紅茶を飲みながら、他愛もない談笑をした。そこで二人の馴れ初めを聞いてみた。よくよく考えたら、叔父さんの恋人と一緒にこうやってお茶を飲むのも、恋愛のことを聞くのも初めてだった。
「叔父さんたちって、どうやって知り合ったの?」
「友達ん家のパーティーだよ。ホームパーティーみたいなやつ。そこに孝弘が来てて、一目ぼれで、速攻声かけたんだよ」
「へえ、ホームパーティーって、何だか外国みたいだね」
「まあ、飯食って酒飲むだけだけどね。で、孝弘がべろべろに酔ってて…」
「信くん、その話はもういいよ。ね、トシ君は好きな女の子とかいないの?」
「うーん…可愛いなと思う子はいるけど…俺、そんなにモテないし」
「何で?素敵なのに?僕が同じ中学だったら絶対惚れちゃうけどな」
「こら、孝弘、茶化すんじゃないよ」
と嫉妬混じりに叔父さんが言うと
「いいじゃん。本当のことだし」
と開き直ったように孝弘さんが返す。気まずいような、しかしどことなく幸せそうな空気を漂わせながら。そんな風に言い合う二人を見て、ああ、これが痴話ゲンカというやつか、と思い、またもや微笑ましくなった。そういえば、うちの両親は、こんな感じのケンカをしたことがあっただろうか。母親は基本的に父親、つまり夫には逆らわないし、父親も母親、つまり妻にはあまり無茶を言わない。父親も浮気や何かをしている様子もないし、一見穏やかなように見える。しかし、そこにも違和感があった。夫婦にしろ家族にしろ、こうやってケンカとかするもんじゃないのかと。ケンカのない家族―それはそれで「普通」といえるのだろうか。
ケーキに舌鼓を打ち、叔父たちの会話(ケンカ?)に耳を傾けていると、二人の客が入ってきた。その客のうちの一人を見てさらに驚いた。
店のドアが開く音が聞こえ、マスターが「いらっしゃーい」の声を挙げ、自分達も反射的にその新しい客を見た。一人は大学生風の男、そしてもう一人の男は…
「カンちゃん?」
「え?トッシー?何してんの?ここで」
もう一人は、同じ中学の同級生、カンちゃんこと菅野悠太であった。しかも、この春まで同じ部活の部員だった。自分との関係はつかず離れずといった感じで、練習時に会話をすることはあっても、お互いのことについてはよく知らない。ただ、カンちゃんは例の「遊園地電話かけまくり事件」の時、遊園地に行かなかった部員なので、他の部員たちと違って、事件後も距離はあまり変わらなかったような気はする。カンちゃんは彫りの深い顔をしていて、まるで両親のどちらかが外国人であるような顔立ちだ。カンちゃんの家庭のことはよく分からないので、本当にそうだったりするかもしれないが。しかも、部活でもエース格で、どちらかと言えば上位グループの方だったような気がする。ただ、本人はそうしたカースト的なものにはあまり関心はなかったようだ。そんな感じだったから、女子からもモテていた。カンちゃんに告白し玉砕した女子は何人か知っている。その中には学年トップクラスの可愛い子もいたのに、彼女でもダメだったことから、その女子の属するグループから「女嫌い」の噂を立てられたこともあった。自分の方を振り向かないからといって女嫌いはないだろう、女って怖いもんだな、とその時は思ったが、どうやら本物だったらしい。ここでもまた、女子達の「人を見る目」に対してある種の恐ろしさを感じずにはいられなかった。いや、単なる偶然か。いずれにしろ、やや寡黙なところがあって、「女嫌い」という噂に対しては特に否定も肯定もしなかったところも、誤解―いや、正しい理解というべきか―を生んだのかもしれない。
「あら、二人は知り合いなの?」とマスターがあまり驚いた様子もなく、淡々と訊ねた。こういうことはさほど珍しくないのだろう。
「知り合いも何も、同じ中学の同級生ですよ。部活も去年の夏まで一緒だったし」
カンちゃんが慣れた口調で答える。学校での寡黙なカンちゃんに比べて、声のトーンも心なしか明るいように聞こえる。
「えっと、こちらは俺の叔父さんで、横にいるのがその恋人の孝弘さん」自分もなるべく動揺を隠したつもりだったが、どう伝わっただろう。
「そうなんだ。あ、こちらは俺の彼氏の剛さん。大学生だよ」
どうも、と皆で軽く頭を下げ挨拶を交わす。そして当然のごとく、次のカンちゃんの言葉はこれであった。
「へえ…トッシーもこっち系だったんだ…」
待ってましたとばかりにカンちゃんが好奇心丸出しでそう言ったので、
「いや、俺は…」
と切り出そうとした瞬間、孝弘さんが割り込んで、とんでもないことを言ってしまった。
「実はそうなんだよ~。気付かなかった?」
「ちょ…」孝弘さんの発言に目を丸くし、叔父さんもまた「おい、何言ってんだ」と目で訴えていた。マスターは不敵な笑みを浮かべつつ、黙々とコーヒーの準備をしている。
「うーん、どうだろ?言われてみればそれっぽかったかも。ナルシストっぽいところもあったし、女の子に興味は無さげだったしね」
カンちゃんが言う。自分はそんな風に思われていたのかと思い、愕然とするが、こうなったらもう後には引けない。何だか面白そうだし、一芝居打つことにした。
「そうだね。歌手の麻生浩司とか好きだけど」とパッと頭に浮かんだ名前を言ってみたが、
「あ、それ王道じゃん」とカンちゃんに返され、ますます後戻りができなくなった。面白がる孝弘さんとマスターに対し、不安げな叔父さん。とりあえずその場は結構盛り上がり、何とも不思議な土曜を過ごすことになってしまった。
帰りのタクシーの中で、当然叔父さんは孝弘さんに怒ったような口調で言った。
「おい、あれは何だよ。甥っ子を仲間にする気か?」
「そうじゃないけど、あの場はそういうことにしといたほうが和むと思って。カンちゃんだっけ?あの子も色々気まずい思いをしなくて済むじゃん。それにこのことは向こうだってばらされたら困るだろうし、変なことにはならないよ」
言ってることはごもっともな気もするが、
「でも、襲われたりしたら…」
自分としても、それはやはり不安の一つだ。カンちゃんはカッコいいけど、キスしたり、裸になって抱き合うところを想像すると、やはり変な気分だ。
「大丈夫だよ。あの子は同級生とかには興味ないよ。年上のお兄さんが好きなんでしょ?」
そう言われればそうかもしれない、と自分は思ったが、
「そうかもしれないけど…」と叔父さんの方は何か納得していない様子だった。
学校は自分にとって、退屈極まりないところだった。勉強は授業に関係なく自分で進めているので、学校で習うことは、大体自分で既に勉強したことばかりだ。人間関係も腐っている。先に述べた通り、どこの学校でもそうかもしれないが、「上位グループ」「下位、冴えないグループ」「不良グループ」の三つに分類される。もちろんこれらは大雑把な分け方で、実際には上位グループの中でも上下関係があるようで、「超上位」に、「その友達」、「その取り巻き」、さらには上位グループ入りを目指して取り入ってる奴までいるようだ。その中でも、「取り巻き」や「取り入ってる奴」というのが性質が悪い。下位グループの人間をいじったり、こき使ったりするのはたいていこの辺りだ。それに対し、下位グループの方が上下関係はなく、平和なように見える。また、男子は比較的グループ分けが固定的であったのに対し、女子の方は流動的だった。「超上位」はあまり揺るがないが、そうでない辺りはよく入れ替わっていたような気がする。その理由はよく分からないが、女子の方が人間関係が複雑なのだろうか。それとは別にいる「不良グループ」、こちらは同学年内というより、学校全体で構成されている感じで、基本的には学年が上であれば上、という感じになっているようだ。さて、自分はというと、スポーツ、特に団体競技が苦手だったこと、部活でも「補欠行き」がほぼ確定したこと、加えて「遊園地電話事件」がとどめを刺して、一年の半ばにはすっかり「冴えない下位グループ」に振り分けられてしまった。そうなるとみじめだ。「上位グループ」か男女関係なくパシリのように扱われたり、つまらないことでいじられてストレス解消の道具にされたり、もはや人間扱いされなくなる。それが嫌で「冴えない下位グループ」にいることを拒む―つまり、上位グループからの「命令」を断ったり、彼らの後を追うようなことをやめたり、意識して一人で行動するようになったり―ようになった結果、学校に居場所がなくなってしまった。露骨に無視されるとか、そういうわけではないが、うわべだけの会話しかしなくなった。学校の外でクラスメイトと遊ぶなんてこともまずなかったが、これは親の影響で自分は昔からそうだったので、今更特に違和感はない。まあ実際には今の方が気楽だし、特に不自由もないので、拒んだことは良かったのかなとは思う。
実は過去、「冴えない下位グループ」にいた時に、「不良グループ」に入ろうと、接触を試みたことがある。なぜか不良グループの連中とはそれなりにうまくやっていた。試験の前にノートをコピーして渡したり、宿題を写させたりしたせいだろうか。彼ら曰く、「ほかのやつには皆断られた。こういうことをしてくれるのはお前だけだ。俺らみたいなモンにでも、分け隔てなく接してくれる」ということになっているらしい。そういえば、彼らはノートのコピーを受け取った後や、宿題を写させた後に必ず礼を言ってくれた。また、「お前のノートのおかげで、何とかテストを乗り切れたよ」とか、事後報告?もちゃんとしてくれた。「上位グループ」の連中は、何かしてやっても「してもらって当然」みたいな態度で、礼も言わなかったし、さらにここがダメだの何だのと、文句をつける。こいつらホントに思い上がった連中だなと思ったものだ。「不良グループ」との接触を試みたのは、自分としては「上位グループ」や女子を見返したいという気持ちもあったが、「不良グループ」の方が意外ときちんとしているのかもしれない、と思ったというのもある。少なくとも、「礼を言う」という常識は持ち合わせているようだ。そこで、「不良グループ」の中でも特に懇意にしていた木本というやつに、思い切って胸の内を話してみた。すると、ちょっと衝撃的な答えが返ってきた。何でも彼らのグループの連中は、みんなそれぞれ家庭に問題を抱えているのだという。大体が家庭不和、育児放棄、虐待、貧困であったが。あいつを見ろ、と木本は同じグループの平山という男子を指差し、
「あいつ、普段昼飯抜いてんだよ。あいつん家は本当に貧乏で、家帰っても飯がないことも多いんだよ。だから同級生から金捲き上げてでも、金を得ないとどうにもならないんだ。余裕がある時は俺らが助けるけど、皆ん家も貧乏なとこ多いしな…。昨日は俺も金なかったから、どうしてやることもできなかった…。家に帰っても飯があるかどうかわからない暮らしなんて、お前に想像できるか?」
そんなことを言われたら、さすがにグループに入れてくれとは言えない。木本自身も父親の顔は知らず、母親が水商売をしながら生活を支え、育てられた身である。途中で男に騙されて、莫大な借金を背負わされたこともあり、その時は毎日おかずなしの食事が続いたそうだ。最近は母親の開いたスナックも軌道にのり、ようやく人間らしい生活ができるようになったという。
「まあ、俺の場合は、おふくろは常にそばで俺を守ってくれたから、他の奴らよりはましかもな」
ということは、「他の奴ら」はもっとひどいのだろうか。それ以上聞くのも怖かったので、自分はこの話から引くことにした。ただ、そこで木本は
「『下位グループ』が嫌なら、一匹狼になったらいいんじゃねえか?部活もそんなに好きじゃないなら辞めちゃえよ。充実した生活が送れるかは、部活やグループなんて関係ない。お前次第だと俺は思うけどね」
というアドバイスをくれた。このアドバイスを聞いた時、やっぱり木本に相談したことは間違いじゃなかったと思った。やつは大人だ。結局、自分は彼のアドバイスに従った形になり、今に至る。
「ま、何かあったらいつでも相談に乗るよ。お前もまたノートコピーさせてくれよ」
そう言って、木本とはその場は別れた。
木本はその後、母親が再婚したとかで、引っ越し、転校していった。子供は親に振り回されるものだ。それを分かっているだけでも、不良グループに入る価値はあったとは思うのだが、それだけではだめだったのか。