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ライトアップピアノの蓋をあけると、白と黒の鍵盤。これから、このモノクロームの鍵盤をたたいて色彩を生み出すのだと思うとなんだか不思議な気分だ。
「尊、お前も聴き専とはいえ音楽人なんだから、コード理論は分かるよな?」
俺の問いかけに、尊は満面の笑みで、
「ううん、全然分かんない!」
と答えやがった。
仕方ない、少しだけ解説しようか。
「……尊はともかく、洸ちゃんは本当に専門外だろうから、分かりやすいように説明すると、『コード理論』って言うのは、理系的な意味での理論じゃない。これまで音楽を作って来た人たちが積み重ねてきた『こういう音をつかうといい感じだよー』っていうノウハウ、っていうのが一番近いかな。これを体系化したものを、とりあえず理論って呼んでるんだ」
そう言いながら、俺は鍵盤に指を落とす。「ド」と「ミ」と「ソ」の音。
「こんな風に、一つの音じゃなくて複数の音を重ねたものを『コード』とか『和音』って呼ぶ。んで、コードって言うのはそりゃもう、数多く存在する。たとえば、ドレミファソラシ、の七つの音から三つ音を選んでコードにするだけでも、理屈の上では35通りの組み合わせが作れる。ピアノの鍵盤は88鍵あるから、組み合わせは膨大だ。音を4つ5つ重ねるコードまで考慮に入れたら、コードを選ぶだけでも作曲なんてやってらんないくらいの手間になっちまう」
ふと横を見ると、尊が携帯をいじっている。コイツ、はなし聞いていないのか。
「ピアノの鍵盤が88だとすると……109736通りか。4つ音を重ねる和音の場合は……えーっと、いち、じゅう、ひゃく、せん……2331890通りだね。数えだすときりがないや」
……計算していただけか、すまん尊。
「なるほど……その手間を省くためにコード理論を使うんだね。美術における技法と少しだけ似ているかもしれない」
洸ちゃんはなんとなく合点がいったみたいだ。その一方、尊は理解しているのかいないのかよく分からない顔をしている。
「それで、コード理論がどんな風に便利なのかって言うと、あるひとつのコードを主役として一つ選ぶと、その主役コードと相性のいいコードを決めることが出来るんだ」
俺は、もう一度ド・ミ・ソの和音をならす。
「もし、このドとミとソで出来ているコード――『C』って名前がついているんだけど――を主役とすると、相性がいいのはソ・シ・レの『G』コードとファ・ラ・ドの『F』コードだ」
Cコードに続いて、Fコード、Gコードと鍵盤をたたく。そして最後にもう一度、C。
「あっ、すごい。それだけで曲っぽくなるんだね、伴くん」
音楽の専門家でない人は、こんな初歩的な事でも喜んでくれるので嬉しい。
「この三つのコードには別名、というか役職名が付いてて、主役のコードは『トニック』、次に大切なコードが『ドミナント』、さらにその次に大切なのが『サブドミナント』と呼ばれている。Cを主役――トニックに置いた時は、Gがドミナントで、Fがサブドミナントだ」
「ごめん、伴さん。僕だんだんこんがらがって来たよ……」
尊が眉間にしわを寄せている。精一杯理解してくれようとしたみたいだが、こいつは感覚だけで生きている様な人間だ。リクツを聞き続けるのは苦しかったろうに。
「……頑張ったな、尊。悪かったなぁ、お前のつるつるの脳みそに皺を刻みこんでしまって」
「そうだよ、伴さんはいつでも理屈っぽ過ぎる! もうちょっとで僕の灰色の脳細胞が熱暴走でピンク色に茹であがっちゃうところだったよ!」
「すまんすまん。まぁ、あんまり理屈の話ばっかりしても仕方ないから、実際にどうやって曲を作ろうかってことなんだけど、今回『黄色い曲』を作るにあたってはドミナントを工夫してみようと思ってる」
俺は、一度ピアノ椅子から離れると、尊と洸ちゃんをソファーに座る様に促す。鍵盤を覗き込んでいた二人は少し怪訝な顔をしながらも俺の指示に従ってくれた。
ライトアップピアノとL字になる様におかれたソファー。洸ちゃんは微笑みながら、尊は目を輝かせながらそこに収まっている。
「突然だけど、小学校の時ピアノの音に合わせて起立・礼・直れ、みたいなことした記憶はあるか?」
「あのじゃーん、じゃーん。じゃーん、ってやつ?」
尊が口でピアノの音を真似してきた。コイツが歌っているのを初めて聞いたけどやけに美声だな。
「そうそう、そう言うやつ。あれってコード理論で言い表すと、トニック・ドミナント・トニックって弾いてるんだ。もしCコードを主役にするなら、C・G・Cって並びかな」
よし、実際にやってみようか。俺は小学校のときの音楽の先生を思い出しながら背筋を伸ばして、ピアノの鍵盤に触れる。
「起立!」
声に合わせて、力強くCコードをたたく。
尊と洸ちゃんも、それに合わせてソファーから腰を浮かせた。洸ちゃんはごく自然にすっと立ち上がったのに、尊は入学式で張りきすぎた新小学一年生みたいに腰をそらせて胸をはって気をつけをしている。
「礼」
Gコード。
二人とも綺麗に45度でお辞儀。
「なおれー」
続けてCコード。
音の残響が消えていくのに従って、二人もそろそろと面を上げてきた。
「おーっ、確かにこんな感じだった。なんとなく、音楽って感性が大事なんだって思ってたけど、結構ロジカルにやってるんだね。それとも伴くんだけがそうなのかな?」
「うーん、人にもよるかな。理屈を感覚で捉えてる人もいるし。……で、理論が便利なのは、たとえば今のはCコードを主役においたけど、別のコードを主役におくことも出来るんだ。さっきドミナント――脇役だったGコードを主役に置くと、こんな感じになる」
Gコード、Dコード、Gコードと順番に弾いていく。先ほどよりやや高めの音が、リビングに響いた。
コード理論はある一つのコードを主役とした時の、「関係性」の理論だ。たとえ主役――トニックが代わっても、トニック・ドミナント・サブドミナントの関係が保たれている限り似たような音響効果が得られる。
「確かに、少し違和感があるけど、これでも起立、礼、直れが出来そうかも!」
尊が初めて知った! と言わんばかりの顔で言ってくる。本当にこいつは音楽好きなのだろうか。コードや和音の理論においては初歩的な所なんだが。
「よし、じゃあ実際にやってみようか」
俺は、二人を着席させる。
改めてピアノの前で姿勢を正して、咳払いをしてから鍵盤に指をそっと乗せる。これからやるのはちょっとした悪戯だ。なんとなく指先が汗で滑ってぬるぬるしている感じがする。
今度は声をかけずに、鍵盤をたたく。Gコード。
二人は、さっきよりスムースに起立した。
そのまま、間を空けずにDコード。
尊と洸ちゃんはほとんど同じタイミングで頭を下げた。洸ちゃんのおしゃれにセットされた長めの前髪が、はらりと崩れた。
そして、Gコード――ではなく、あえてCコードを強めに叩く。
期待していた音とまったく違う和音が空間に広がる。
予想外の音がくると分かっていた俺ですら、なんとなく座りが悪くて、お尻のあたりがむずむずした。
洸ちゃんは、崩れた前髪もそのままに、居心地の悪そうな顔で気をつけの姿勢に戻った。舐めかけの飴をうっかり飲み込んでしまった時の表情にも似ていた。
尊は、想定外のサウンドに拍子抜けし、そのまま顔を上げることも出来ず前のめりに膝を着けている。両手を床について、一つ息を吐いてから、恨めしそうな視線をこちらに向けてきた。
「伴さん、なんだよ今の! なんか、こう、凄く釈然としないよ! もう、なんというか、続けて見てたドラマの最終回だけ見逃したみたいな、完成間近のパズルの最後のピースだけ見つからないみたいな……。とっても、もどかしいよぅ……」
「ああ、すまん。わざと最後の和音を変えてみた。……今の和音、なに色だった? もう色じゃなくてもいい、どんな感じがした?」
俺が問いかけると、洸ちゃんが髪を整えながら口を開いた。
「びっくりしたなあ、もう。……そうだな、僕にとっては濁った血の色かな。口の中に広がった錆び臭い血液の味。吐き出すことも飲み干すことも出来ずに、そのまま生緩い苦痛に耐えているみたいな」
「洸ちゃんらしい例えだな……。尊は?」
「僕は、もう拍子抜けしちゃって、色なんて分かんなかったよ。……あーっ! もう! みたいな感じ」
尊がズボンの膝のあたりを払いながらソファーに座った。たった数瞬のアクシデントだったのに、顔に疲労が見える。
「実はさっきの和音――洸ちゃんが濁った血に例えた音は、Cコードだ。最初に弾いた時と全然印象が違うだろ?」
「そうだね。Cコードが主役だった時は、別に血液の赤茶のイメージなんて無かったのに……。前に置くコードが違うだけで全然印象が変わってくるんだね」
いつもの微笑み顔に戻った洸ちゃんが、ソファーで足を組みながら答えてきた。
「そうんなんだ。ドミナントは、その後にトニックが来るのを予測する音だ。ドミナントの後にトニックが来ると俺たちは安心する、というかしっくりした印象を覚える。逆にさっきみたいに別の音が来ると、収まりが悪いような中途半端な感じがするのさ」
「へー、さすがドミナントなんて言う名前がついてるだけあるねえ」
尊が、納得いきました、と言わんばかりの顔で呟いた。
「……どういう意味だ?」
「ドミナントって、日本語に直すと『支配的な』とかって意味でしょ? それにラテン語でドミヌスとかドミノって、神とか主を表す言葉だったと思う。古い合唱曲とか宗教曲には良く出てくる単語だよ!」
確かに、宗教曲なんかには良くドミヌスっていう単語が出てくるな。合唱曲にはあんまり明るくないから知らなかったけど、そう言う意味だったのか。
「へー、主役であるトニックじゃなくて、脇役であるドミナントが音楽を支配するんだねぇ。いや、脇役というよりも、ゴールに向かう過程って言った方が正確かな。ゴールがどれだけ輝けるかは、それまでの道のりによって決められる」
洸ちゃんもなんだかしみじみといった感でうなずいている。
「……とまぁ、こんな感じで、ドミナントとトニック、それだけじゃなくてコードとコード同士の関係性を工夫して最終的に『黄色い音楽』に聞こえるようにしてみようと思う。……冷静に考えれば、こんな事作曲の基礎的な事だったのに、なんで思いつかなかったんだろう。焦ってたのかなぁ、俺……」
結果より過程が大事だなんて青臭いことを主張するつもりはないけど、ちょっと結果を焦りすぎていたかも知れない。誰が聴いても、何時聴いても『黄色い音楽』を作る――そんな不変で普遍のサウンドなんて、もしあったとしたらそれは神の音楽だ。神の音楽を目指して挫折して、その結果ドミナントという神に助けられるなんて皮肉な話だな。
俺が出来ることと言えば、自分が目指す音楽を丁寧に作ること。この胸の内にある色彩を他人と共有するために、技術も時間もつぎ込んで、手段を問わず、プライドもかなぐり捨てて、音を紡いでいくことだけだったのに。
「まぁ、いいじゃん。伴さんがこれだけ苦労したんだから――ゴールに至る道のり、ドミナントをきちんと積み上げたんだから、あとはトニックを輝かせるだけだよ」
「……そうだな、ありがとう尊。お前の能天気さには救われてばかりだよ」
「やだなぁ、そんなに褒めないでよ。お礼は回らない寿司と、食べ放題じゃない焼肉だけで良いよ」
「伴くん。ボクはあんまり手伝ってないから、ケーキバイキングだけでいいよ」
「ギャラが入ったらな……。さて、俺はこれから作業に入るから部屋にこもるぜ。洸ちゃん、尊、付き合ってくれてありがとな」
ふたりにコード理論の解説をしているうちに、構想も固まってきた。やっぱりひとりで頭を抱えるだけじゃだめだな。これからはいい曲を作るためだったら、手段は選ばない事にしよう。友達であっても使えるものは使おう。使う、と言っても相談に乗ってもらうくらいだろうけど。
「えーっ! 伴さんここで曲作って行きなよ。ここまで付き合ったんだから、せっかくだし曲が仕上がる所を見届けたいんだ。伴さんのドミナントが、ここでトニックに花咲く所を、この目で!」
「……尊、これ以上大学をサボると、単位落とすぞ。このままだと学生生活というドミナントを終えて社会人というトニックにたどり着くことが出来無くなっても知らんぞ。因みにドミナントからトニックの動きで一つのフレーズを終わらせる方法を『完全終止』と言うんだが、トニックに行かずにドミナントだけでフレーズを終わらせるのは『半終止』と呼ばれている。もし単位を落としたら、お前の人生『半終止』だぞ」
「僕の人生、半終止……」
「そうなったら、お前の事は以降『半終止人間』と呼んでやる」
「……大学いく」
尊はとぼとぼと自室に向かった。背中に哀愁が現れている。ちょっと言い過ぎたかもしれないが、このほうがあいつのためだろう。
「じゃあ、ボクも部屋に戻って絵を描くことにするよ。うかうかしてるとボクも半終止人間になりかねないからね」
またね、と爽やかに手を上げながら洸ちゃんも部屋に戻っていた。
ひとり残されたリビングは静かだった。もうとっくに朝食の時間は過ぎてしまったようで、食堂の方からも物音はしない。壁越しに、外を走る車の音が聞こえるか聞こえないか、といった所だ。
しずかだ、けれど、俺の脳にはいま音楽が溢れている。ひとつひとつのサウンド、コードは赤かったり青かったり、濁っていたり透明だったりするけれど、距離を置いて眺めると何故か黄色く輝いている。
さて、作曲にとりかかろう。静寂にメロディーがこぼれおちてしまわないうちに。