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日光の黄金が俺の網膜を容赦なく突き刺す。
昨晩、尊を部屋から追い出した後、休息もなしにぶっ続けで作曲してきたが、完成させることが出来ないまま朝を迎えてしまった。正直、今までにないくらい作曲は捗った。しかし出来たのが『黄色い音楽』じゃなかったと言うだけだ。
様々なメロディーの断片、それに伴うコード。組み合わせれば一曲分になりそうなくらいだが、どうしても黄色じゃない。藍色とか朱色とか緑とか……。何れにしてもこれでは納得できなかった。
PCのディスプレイの見過ぎで充血してしまった目をギュッと瞑りながら伸びをする。精一杯に伸びをしてふっと力を抜くと、眉間や肩に滞っていた血液が押し流される感じがした。
「はら、へった……」
思えば昨晩からなにも食べていない。いまは気が張っているから大丈夫だが、集中力が切れたらぶっ倒れてしまいそうだ。……20代のころはオールなんて平気だったのになぁ、歳はとりたくないもんだ。
軽く身支度をして、食堂へと向かう。
扉越しに食事の音、雑談の音――それに混じって、クラシック音楽が聞こえる。大方早めに食事を終えた尊がリビングでCDをかけているのだろう。朝から元気な奴だなぁ。
俺は、シェアハウスの住民たちに挨拶しながら食堂でパンと栄養補助ゼリー飲料をひとつずつ手に取ると、リビングに顔を出す。予想通り尊と、恐らく鑑賞会に付き合わされている洸ちゃんがソファーに座っていた。
「おはよう。尊、昨晩は悪かったな、付き合ってやれなくて。洸ちゃんも昨日はサンキューな」
「おはよー、伴さん。僕こそ、てっきり仕事が終わったと思いこんじゃってたよ、ごめんねー」
尊はちらりとこちらを一瞥してから返事をしてきた。音楽を聴いている時こいつは、そっちに集中がいってしまう。
俺もソファーに腰をおろして、ゼリー飲料の蓋をあける。大きめのスピーカーから聞こえてくるのはベートーベン交響曲第六番『田園』。昨日、尊が「黄色い音楽」として挙げようとしてやめたとか言ってたっけか。
「この『田園』は、黄色じゃないんじゃなかったっけ?」
「そうだねー。僕にとってこの曲は、お花畑の緑とピンクだよ。黄色い要素がまったく無いとは言えないけど、それはせいぜいお花畑に少しだけ混ざったタンポポやカモミールの黄色だね。……と、思っていたんだけど」
尊は大きく息を吐き、ワザとらしく思案顔をしながら続けた。
「途中で洸之助くんが来てからなんとなく、緑とピンクに聞こえなくなってきたんだよねー……。今はなんとなくオレンジっぽい印象」
おいおい、それ洸ちゃんの手に未だについている赤の絵具に影響を受けているだけじゃないのか……?
「ねえ、伴さんはなに色に聞こえる?」
「……いや、俺はそもそもクラシック音楽だと変化が多すぎて一色に絞るのは難しいな」
強いて言うなら、水色……いや今度はインディゴ……やっぱり絞りきれないな。
「そっか。ねえ、洸之助くんはどう思う?」
「……」
「……ねえってば」
あ、洸之助、音楽聴くふりして寝てるわ。
「洸ちゃん寝ちゃってるぞ」
「えっ。洸之助くーん、起きてよー!」
洸ちゃんは一度ビクッと痙攣すると、すっと顔を上げた。
「……寝てないよ。ぼくには鮮やかな赤に聞こえるかな」
凄いな洸ちゃん。ほぼ寝かけていただろうに、きっちり会話を合わせてきやがった。
「そっか、赤かぁ……。んんっ? 三人で聴いたらまた違った色に聞こえてきたぞ! これは、なんていえばいいんだろう。グリーンとゴールドが混ざったような変な感じ!」
尊がひとりで興奮している。音楽のこととなると本当に元気だなぁ、こいつは。
「隣り合ったものどうしで色の印象が変わる……。ふふっ、まるで新印象派の絵画みたいだね」
頭も回転し始めたのか、洸ちゃんが嬉しそうに微笑んでいる。
「新印象派、か。あんまり詳しくないけど、ゴッホとかだっけ?」
俺は音楽人だから、絵のことに関しては門外漢なのだ。
「ううん、ゴッホはどっちかって言うとポスト印象派、あるいは後期印象派なんて呼ばれているかな。新印象派で代表的なのはジョルジュ・スーラっていう人だよ」
ジョルジュ・スーラ……。まったく記憶にない名前だ。
「あ、僕、知ってる。すごい点描で書く人だよね!」
「そうだね。一辺2メートル以上もある大きなカンバス全面に点描で風景画を描いたりもしているよ」
「気の遠くなる様な作業だな……。なんでまたそんな面倒くさいことを」
「さてね、ぼくは美術史をきちんと勉強した訳じゃないから詳しいことは分からないけど……。そもそも印象派って言うのは光にこだわった作家たちだったみたいだよ」
光と絵画、点描……。うーん、結びつかないなぁ。
俺の困った顔を察してか、洸ちゃんがよりゆっくりと語り出した。
「印象派の画家たちは『筆触分割』っていう技法を使ったんだけど、これはものすごく大雑把に、美術の先生に怒られるくらい適当にいうと、色が濁らなくなる効果がある」
「……良く分からないが、昨日言っていた『絵具は混ぜると色が濁る』っていう話と関係があるのか?」
絵具を混ぜて色を作るって件で確か、そんなことを言っていた様な気がする。
「うん、良く覚えてたね。印象派の画家たちは光の一瞬の輝き、揺らぐ景色、そこから受ける心的印象を画面に残すために、わざと筆の跡が残る様に、絵具がカンバスの上で濁ってしまわない様に色を置いて行ったんだ。それをもっと小さい粒でやろうとしたのがスーラの絵画だよ。彼の作品は、緑の部分なのによくよく見ると茶色の点が使われていたり、青の点が使われていたり……。例えるなら……最近は見かけないけど、ブラウン管のテレビがあるだろう? あれって遠くから見ると、違和感なく映像が映し出されて見えるけど、極至近距離で見ると、赤と青と緑の光の粒の組み合わせだけで表現されているのが分かる」
そう言えば子どものころにやったことがあるかもしれない。駅に掲載されている巨大広告もそんな感じだっただろうか。
「使われている色は赤と青と緑なのに、遠くから見るとまるで違った色に見える、組み合わせによって違う色に変わってしまう。ふふっ、今のぼくたちみたいだろう?」
まるでその色じゃないのに、隣り合った組み合わせによっては、まったく違う色に見える……。
「……それだ」
「なにがー?」
おそらく今の話をほとんど理解していなかったであろう尊が、間延びした声で聴いてくる。
「黄色い音楽が、音が作り出せなくても、組み合わせによって『黄色い音楽』を作り出せばいいんだ!」
今まで作った、藍色や赤や緑や……そのほか様々な色のメロディーやコード――黄色っぽい印象のメロディーもあるのだが、今一つ納得がいっていない――これらを組み合わせて、輝かしい黄色を描きだすことが出来るかもしれない。
「……面白いね、伴くん。本当に印象派の画家みたいだ」
「どういう意味だ?」
「『印象派』って呼称からたまに勘違いされるんだけど、彼らは単に印象――自分の心の内を画面にぶつけた画家たちじゃなかったんだ。どうやったら自分が目の当たりにした光景を、光の輝きを画面に残せるか。色彩の理論――どの色の隣に、どの色を置けば、なに色に見えるか――をつかって、ある意味で科学的に彼らはその課題を乗り越えようとした。伴くん、理論で、理屈で作曲しようとする君が、自分の脳裏に焼きついた黄色の光を表現しようとしているのに、まさにぴったりじゃないか」
さっきまで音楽を聴きながら寝入ってしまいそうだったとは思えないくらい生き生きした表情で、歌うようにしながら洸ちゃんは言う。
「とは言っても伴さん、どうやってというか、何と何を組み合わせれば黄色が表現できるの? 色だったら分かりやすけど、音楽にそのまま置き換えることなんてできるの?」
尊が、訊ねてくる。
「多分、出来るさ。実際にやってみようか」
出来る、と俺の直感――というよりも、いままでの音楽的蓄積がささやいてくる。リビングの隅に置かれているライトアップピアノに向かい、蓋をあける。いつもなら、周りに人がいる状態でピアノを弾いたり作曲したりする事は無いのだが、今日はなんだか尊と洸ちゃんが見ていてくれた方がいい曲が書けそうな気がした。
美術の理論に関しては、詳しい内容は都合上ほとんど省略しております。
興味のある方は、検索していただければと思います。