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日光の黄金が瞼越しに俺の網膜をつつくので、仕方がなしに目を空ける。
午前5時45分。いつもより大分早い時間だが、すっかり目が冴えてしまった。
吉田さんから悪夢のような――というにはいささかインパクトに欠けるが――依頼を受けてから四日。俺はあれ以来部屋にこもって作曲をつづけていた。昨晩とりあえずメロディーとコードを完成させたが、正直なところ「黄色い音楽」なんて無理だ。とりあえず明るい感じの曲にしたが、これでいいのか分からない。吉田さんは、ある程度きちんとした曲ならば文句は言ってこないので、今回も適当に提出すれば何とかなるだろう。
吉田さんにはとりあえずメールで音源を送っておいて、打ち合わせは明日以降にしてもらおう。久々の休日。何をして過ごそうか、とぼんやり考えていると、ノックの音がした。
「伴さーん、起きてる? 起きているよね! おはよー、おじゃましまーす。ねえ、ちょっとこの音源聞いてよー」
俺の返事も待たず尊が部屋に入ってきた。そのまま部屋の隅に置いてあるCDプレイヤーに直行し、リュックサックから出したCDを再生しようとしている。
「まず一曲目なんだけど、クララ・シューマンの『ピアノ三重奏曲 第一番』!! 黄色って言うにはちょっと輝かしさが足りない気もするけど、でも僕的には結構黄色っぽい気がするんだ。シューマンっていうと、クララの夫のロベルト・シューマンの方が有名だけど、僕は結構クララの曲もいいと思うんだ。シューマン夫妻の曲は二人とも“地味”っていう評価を受けることもあるけど、僕はそう言うところも好きなんだよなぁ。質素で綺麗だけど、その皮の下には狂喜が潜んでいる感じ? まさに黄色っぽくない? おーい、伴さん、聞いてるー? どうしたのぼんやりしちゃってさぁ」
コイツ、朝っぱらから元気だな。人間びっくりしすぎると怒ることも出来ないなんて、知りたくも無かったよ。
「……尊には、俺がまだパジャマを着たままでベッドの上で上体を起こしているだけなのが見えないのか?」
「見えてるよー、イイねその柄。どこで買ったの、そのパジャマ?」
「お前の厚顔無恥さに心底びっくりだよ」
「へへー、照れちゃうなぁ」
「褒めている訳じゃないことが分かっているのに、照れているふりすればやり過ごせると思うお前の神経の図太さには、怒りを通り越してあっぱれだよ」
「そんなことよりさー、伴さんにはこの曲、どんな色に聞こえる?」
朝五時台に無遠慮に部屋に押し入られた挙句、CDプレイヤーを占拠されたことを“そんなこと”で片付けられた時、ヒトはどうすればいいんだろうか。友達、やめればいいんだろうか。
CDプレイヤーからは、ピアノの音と二つの弦楽器――これはヴァイオリンとチェロだろうか――の音が流れている。ドイツロマン派らしいかっちりとした造りでありながら、美しいメロディー、ハーモニーの抑揚。素晴らしい作品ではあるが。
「……いや、俺にとってはこれは黄色じゃないな。強いて言うなら、山吹色――いやもっと暗い、夕焼色、かな。時に暗くなったり明るくなったり、夜に映る前の不安定な色。不安定であるからこそ美しくて、儚い、そんなイメージ」
この曲は俺の求めている“黄色”を持っていない。脳に焼印を残すような、鮮烈な黄金の黄色ではない。
「じゃあ、これなんかどうかな」と言いながら、尊がCDを入れ替えた「J.S.バッハの、『ブランデンブルク協奏曲第四番 ト長調 BWV1049』。三楽章なんて、黄色を通り越して黄金っぽいよねー、チェンバロ入ると特に。僕としては第一楽章も捨てがたいんだけど、一楽章はどっちかって言うとピンクゴールドっぽいんだよなー」
スピーカーからは、華々しくて羽のように軽やかな――けれど決して軽薄ではない――フーガが流れてきている。時にトゥッティしながら、時に転調しながら、終わりなんてない神の国の階段みたいに音楽は進んで行く。通奏低音のチェンバロのかすかな響きが、銅色に光って俺の脳みそを引掻いているような錯覚がした。
「これも、俺にとっては黄色じゃないな。きらびやかな世界観であることには同意だけど……こんなにぎらぎらしてなくてもいいかな、って感じ」
バッハは嫌いじゃないが、あの日の音楽とは、違う。例えるなら同じ神でも、キリスト教の神とギリシャ神話の神々くらいの違いがある。
もういいんだ曲作っちゃったから、と俺が口を挟もうとした時には既に、尊はCDを入れ替えていた。
「じゃあ、これはどうかな。シュトックハウゼンの『ヘリコプター弦楽四重奏曲』!」
「まて、それは絶対にない!」
「えー、なかなか刺激的なレモン色だと思うんだけど」
「それってあれだろ、別々のヘリコプターに乗りながら弦楽四重奏を奏でるって奴だろ。明らかに、その、違うだろ、色々とジャンルが」
一度録音を聞かされたことがあるが、ヘリコプターのプロペラの音に混ざって弦楽四重奏(しかも良く分からない感じの)が聞こえてくるという、チャレンジングな曲だったはずだ。現代芸術としての価値は否定するつもりはないけど、俺がいま作曲している「黄色い音楽」の参考にはならない。
「えー、今日の伴さんはノリが悪いなぁ……。確かに僕なりの『黄色い音楽』を集めたのは僕の勝手な行為だけどさ……、伴さんの仕事の参考になればって思いで一生懸命調べたんだから、お礼の一言くらいあっても罰は当たらないよ?」
「もしこれが、こんな早朝では無く常識的な時間だったなら、こんな素敵な友人を持ったことを神に感謝するよ」
それにお前は、何かにかこつけて音楽に浸りきりたいだけだっていうのを、俺は知っている。尊が部屋にこもって音楽に浸っていた四日間、シェアハウスの住民たちから「尊が音楽をかけながら唸り声を上げているのが聞こえる」「尊が指揮棒を振りまわして箪笥に手の甲を強かに打ちつけ悶絶している声がする」という報告が上がっているのだ。
「おまえ、ここ数日大学サボっているだろ」
時々忘れてしまうが、尊は大学生である。確か法学部の三年生、だっただろうか。
俺の指摘に、尊はわざとらしく目線を上に逸らした。そして一呼吸置いてから、
「じゃあ、次の曲なんだけど……」
無理やり話を元に戻そうとした。
「……行かないんなら、大学なんて辞めちまったらどうだ」
「そんな簡単に止められるもんでもないでしょ」
尊は、目線を壁の方に逸らしたまま、ぽつりと返事をしてきた。
「真面目に大学に行けなんて言える身分じゃないけどさ、地に足をつけて親御さんを安心させてやっても罰は当たらないと思うぜ」
俺は両親に散々心労をかけながら生きてきたし、そのことに関して後悔も負い目も無い。しかし、尊はそんな風に割り切れる奴ではないだろう。
「……分かってるけどさ。父さん母さんを安心させてやりたいって気持ちもあるんだよ? 仕送りでコンサートに言ったりCD買ったりふらふらしたりしているの、知られてるし。でも、同時に『親を安心させるために生きてるんじゃない』とも思うんだよねー。」
尊が、今度は反対側の壁に目線を移しながら、ポツリポツリと小さく呟く。しんとした早朝の空気を伝わって、そのささやかな呟きははっきりと俺の耳に届いた。
「伴さんみたいに、気ままに暮らせたらなぁ……。好きな音楽でお金稼いで、親とか世間の目線とか気にせずに生きて……」
「確かに俺は気ままに暮らしているけれど、決して楽して暮らしている訳じゃないぞ。収入は少ないし、恋人もいない。友人たちだけは最高だけれども。それに――別に音楽の事はそれほど好きじゃない」
俺にとっては分かりきったことを言葉にしただけなのに、脳みその芯が急に冷たくなった気がした。音楽が好きじゃない。口にしてはいけない言葉だった。
「……せっかく色々『黄色い音楽』を探してもらったところ悪いが、もう曲の形はある程度出来あがってるんだ。企画書もない、歌うアーティストの音域も分かっていない時点で作曲するなんて、我ながらどうかしていると思うけど……まあ、吉田さんならどうにかするだろうさ!」
俺は、なんとなく重くなってしまった空気を変えようと、わざと明るく、告げた。大きな声ではなかったけれども、ほとんど叫び声の様だった。
「えーっ! もう作っちゃったの?! まだ、『ドイツ三大Bシリーズ』とか、『イタリアオペラシリーズ』とか色々あるのに!」
尊はそう言いながら、リュックサックから大量のCDを取りだした。
「朝からなんでそんなリュックしょってるのかと思えば、まさかそれ全部CDか!」
「ううん、CDはせいぜいリュックの半分くらいしか入っていないよ」
「残り半分は?」
「DVD」
映像付きになっただけじゃないか! もう突っ込む元気もない。なんで俺は休日の朝一番からこんなに精神をすり減らしているのだろうか。
「じゃあ、次ねー。ドイツ三大Bシリーズから、ベートーベンの『ヴァイオリン協奏曲ニ長調 Op. 61』。ベートーベンは交響曲第六番『田園』の第一楽章にしようかとも思ったんだけど、あっちは黄色って言うよりは緑と桃色な感じがしたんだよねー。徹底してモチーフとなるメロディーを展開していくところなんてさ、大小様々な、ピンクや白の花がずうっと広がって行く様が目に浮かぶようだよね。だれにも見つかっていない、人の手の入っていない、素朴で無秩序で生命力にあふれたお花畑を見つけた時の感動、そのまんまだって思うな。で、ヴァイオリン協奏曲に話を戻すと……」
「だからっ! もう曲は作っちゃったんだって」
無理にでも話を打ち切らなければ。確か目が覚めた時は六時前だったはずなのに、もう少しで七時になってしまう。なにが嬉しくて朝っぱらから男二人のクラシック音楽鑑賞会を開催しなければならないのだろうか。
「……」
「そんな、悲しそうな目をしても無駄だ」
「……じゃあ最後に『イギリス三大Bシリーズ』だけでも……」
「だから、もう曲は……って、ちょっとまて、『イギリス三大B』だって?」
ドイツ三大Bはドイツ出身の偉大な作曲家で頭文字にBを持つもの――バッハ、ベートーベン、ブラームスを指す、というのは常識というか、知っていても知っていなくても困らない音楽小ネタみたいなものだけど、「イギリス三大B」なんて、まったく聞いたことがないぞ。
「俺、『イギリス三大B』って聞いたことがないんだけど。というかそもそもイギリスの作曲家で名前に『B』が付いている人物でさえ思い出せない。まさかイギリスだからと言ってB&Bとか言わないよな?」
「びーあんどびー? なにそれ?」
「あれっ? ああ、日本じゃ一般的じゃないか。ベッド&ブレークファストの略でB&B。イギリスの比較的安価な民宿だよ。その名の通り安く寝室と朝食だけ提供してくれるんだ。俺は子どもの頃、親の車でB&B巡りのイギリス旅をしたことがあるだけどな、この朝食がすげえマズイの。薄くて板みたいなトーストと、小麦粉でかさましされた様な食感のソーセージ、バリバリに焦げかけたベーコン、豆のトマト煮……。決して美味しくないんだけど、慣れてくると逆にそれがいいっていうか、無いと寂しいっていうか。紅茶だけは普通に旨かったけど……」
尊はまったく想像がつかなかったのかちょっと目線を上に逸らして、それから不満そうな顔をしながら口を開いた。
「もう、良く分かんないし、それにいまはクラシック音楽の話だよ! 『三大B』と言ったら作曲家のイニシャルに決まっているじゃないか! B&Bなんてルール違反!」
ぷんぷん、という擬音が聞こえてきてもおかしくない怒り方だが、それが様になるのは頑張っても高校生くらいまでだぞ、それも女子の。
「ああ、悪かったな、ちょっと懐かしくて……。で、一体誰なんだ、イギリス三大Bってのは?」
「そこまで言うなら教えてあげようっ! イギリス三大B、最初のひとりはブリテンだよ。イギリスの作曲家で名前がブリテンってなんだかそのまんまだよね。代表作は『戦争レクイエム』略して『戦レク』! しかし残念ながら彼の楽曲の中には黄色っぽい物がなかったので、本日は僕がブリテンの作品の中で一番お気に入りのオペラ『ピーター・グライムズ』のDVDを持ってきましたー! ということで、さっそく見てみましょう。伴さんテレビのリモコンどこ?」
「リモコンは渡さないし、オペラも見ません」
ちゃぶ台の下に落ちているリモコンの存在に、尊が気付きませんように、と祈りながら、しかしそのことを出来るだけ表情に出さない様にしながら答えてやる。
「えー」
「えー、じゃない。そのオペラの鑑賞会は今度付き合ってやるから、今はやめてくれ。……で、イギリス三大Bの残り二人は?」
さっきから、寝起きで回らない頭で必死に考えているが、名前にBが着くイギリス出身の作曲家を思い出すことが出来ない。そもそも俺が知っているイギリスの作曲家なんて、ヘンデルとホルストくらいだ。
「二人目はビートルズです」
「まて、それはルール違反だ。クラシックじゃないのか」
「三人目は、ベンジャミンです」
「……だれだ? 本気で知らないぞ」
「フルネームで言うとベンジャミン・ブリテン」
「さっきのブリテンと同姓だな、親子か?」
「ううん、同一人物」
「……仮にビートルズを認めたとしても、二大Bじゃないか!」
「いやあ、ちょっとしたブリティッシュジョークだよ! イギリスって歴史の割にクラシックの作曲家が少ないんだよねー。あくまでも日本人にとって身近な作曲家って意味ではだけど」
あっはっは、と尊が朗らかに笑う。
ああ、俺は朝は低血圧気味だというのに、どんどんと血圧が上がって行くのが分かる。この怒り、どうやってぶつけてやろうか。
「尊、ちょっとこっちへ来い」
「……伴さん、いくら人肌恋しいからと言って朝っぱらから男をベッドに誘うのは、いろんな意味でいろんな方面にやばいよ」
「そっちの心配はしなくても大丈夫だ。正しい意味で『プロレスごっこ』をするだけだから。俺、最近、腕ひしぎ逆十字固めが出来るようになったんだ。いいおんがく を いろいろ しょうかい してくれた おれいに たけるに ひろうしてあげるよ。かんしゃするといいよ」
「いや、べ、別に披露してくれなくてもいいかなぁって」
「そう、遠慮するなよ。骨は折らないから、多分」
「多分ってなにさ!? えーっと、あ、そうだ僕、朝ごはん食べてくるね! 僕朝ごはん食べないと死ぬ体質だからごめんね! 『ピーター・グライムズ』の観賞会は、伴さんの仕事が終わったらやろうか! じゃあ、またね!」
あわてながらもCDをきちんとリュックに収納すると、尊は何故か足音を立てない様にそろりそろりと俺の部屋から出て行った。
「もう、休日って感じじゃ無くなっちゃったな……」
なんだか、どっと疲れた。もし吉田さんの時間が開いているなら、今日簡単な打ち合わせしてしまおうかな。俺は、パジャマを脱ぎ棄てながらPCの電源を入れた。とりあえず曲を一度聞き返して、吉田さんにメールを送ろう。