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「でさ! ラットリの指揮棒が、今日も絶好調でさぁ!」
「そうか」
「あの、いつもの天に祈るような独特の締め方も最高だったのよ!」
「ふーん」
「いつもはクレバーな指揮をするラットリがさ、あのラットリさんがだよ! 今日に限ってさヤケに熱い棒を振るわけ! もう僕、しびれちゃってさぁ!」
「良かったな」
「ねえ、僕の話聞いてる? 聞いてないでしょ。もっと聞けよ! ラットリさんの雄姿をさ、瞼の裏に鮮明に描けるくらいに、集中して聞いてよ!」
「……聞いてるよ」
「そういう、『とりあえず音だけは耳に入れてます』的なおざなりな姿勢はいらないよ!」
「本当に聞いてるって。要は、今日のヨントリーホールで演ったシモンヌ・ラットリのドヴ8が最高だったって話だろ。よかったな、39,000円出してS席でみたかいがあったじゃないか」
コイツ――小川尊 は、クラシックのコンサートを聞きに行った晩はいつもこうなってしまう。コイツは兎に角クラシック音楽が大好きで、素晴らしい演奏を聞くと、その感動を誰かに伝えなければ気が済まない。俺以外の奴に話して聞かせやれば良いといつも思うのだが、俺たちが住むシェアハウス「YellowHOUSE」には、他に欠片でもクラシック音楽を理解してくれそうな奴がいないらしい。
「すごいね、伴さん。本を読みながらなのに、良く僕の話が聞けるね」
「本を読んでいることが分かってるなら、少しは遠慮しろ」
「本はいつだって読めるじゃないか! 僕の心の中に残っている熱い音楽の残響は、きっと一晩寝れば鎮まってしまうよ。だから今の内に話しておきたいんだ」
「……分かった。ちょっとは真面目に聞くから、少し落ち着け。とりあえずお茶でも入れてくるよ。尊も紅茶でいいか?」
「いいよ、わざわざすみません」
尊がすこしおどけながらってきた。ちょっとはすまなそうにしてほしい。
サイドテーブルに本を置き、共有のキッチンに向かう。お湯を沸かす2分と、紅茶を入れる3分、計5分もあれば尊の頭も少しは冷えるだろう。しかし冷静になったらなったで、奴の話は長いのだ。話を逸らす算段を考えなければいけない。
「お待たせ。今日はF& Mの茶葉にしてみた」
マグカップに入った紅茶を尊に無造作に差し出す。
「さんきゅー。それで、まず第一楽章 Allegro con brioの話から始めていいかな?」
「……いいともー」
あらん限りに適当に答えてやる。さっきは本を読みながらでも一応聞いてやったが、今度は適当に聞き流す。どうせいつものように楽曲分析から始まり、その後指揮者の解釈についての推論を話し出すに違いない。ドヴ8、正式にいえばドヴォルザーク作曲、交響曲第8番ト長調作品88の分析は過去に何度も聞かされた。大澤征彌さんが指揮した時も、キム・ミュンフンが指揮した時も、クラウディア・アドバードが指揮した時も同じ話を聞かされた記憶がある。
「ところでさ、尊」
奴の話が良い区切りまで来たところで、口をはさんでやる。
「お前が、音楽を好きになったきっかけってなんなの? 俺もポップスとはいえ音楽をやっているから、入れ込み具合は分からないでもないけど――お前みたいに、指揮者のポスターを壁に張ったり、指揮者の映った写真集を集めたり、指揮者の書いた料理レシピ本を買ったりするのは、正直なところいまいち理解しきれない」
話の腰を折るついでに、前々から気になっていたことを聞いて見る。
われわれの住むシェアハウス「Yellow HOUSE」には、変な奴がたくさん住んでいる。自室に閉じこもって油絵やってる女の子とか、自称キャンドルアーティストとか、ビスクドール職人とか。オーナーがそもそも変わり者で、ある日突然シェアハウスの壁を黄色一色で塗りつぶしたと思えば、名前まで「Yellow HOUSE」に変えてしまった。それまでは普通の白っぽい壁で、名前も「シェアハウス・ぼんじゅーる」という普通(?)だったのに。こういった変人たちに交じっても、尊は遜色のない変わり者だ。
「それはですね」
実に嬉しそうに尊が話し始めた。まずった、この話も長そうだ。
「小学生の頃、音楽の授業で聞いたクラシック音楽に感動したのをきっかけに、作曲家の自伝を読んだり、オーケストラのスコアを買いあさったり、指揮者ごっこしてたりしたら、いつの間にかこうなっちゃったんだよね」
……思ったより短かった。
「ふーん。思ったより、普通のきっかけなんだな。尊のことだからてっきり『指揮者に命を救われた』みたいな壮大で突拍子もないストーリーがあるのかと思ってた」
冷めてきた紅茶で唇を濡らす。
さて、そろそろこいつの<語りたい欲>も収まって来たところだろう。現在22時。自室に戻るには良い時間だと思う。自然に立ち去る算段を立てながら紅茶を飲みほした時、尊が声をかけてきた。
「伴さんは、どうして音楽始めたの?」
尊の顔が、何の感情の無いロボットのように見えたのは、きっと俺がこの問いに対する答えを持ち合わせていなかったからだと思う。こんなことを聞かれるだなんて、まったく予想していなかった。極一般的な問いかけなのに、まさか自分が聞かれるだなんて、と思うのはおかしいことなのだろうけど。
「……そうだな、なんでだっけな」
自分が音楽を始めたきっかけ。
少なくとも、習い事で強制的にという訳ではない。部活で吹奏楽や合唱を始めたのでもない。俺の音楽は独学で、世間知らずだ。だからこそ沢山の本を読み漁ったし、音源を聞いた。
俺が自分の意思でCDを聞こうとしたのは、いつが始まりだったっけ?
中高生の頃には、友達とバンドを組んでいたからもっと前だ。
出始めの作曲フリーソフトで作曲のまねごとをしていたのは、小学校高学年。
小学校中学年の頃は、『リコーダーの剛ちゃん』というニックネームがついていた。
低学年の頃は鍵盤ハーモニカでアニメや特撮の主題歌を吹いてクラスの人気者だった。
それより前は――
「黄色い、音楽だ」
「えっ、なに、それ」
黄色い音楽だ。俺が音楽を始めたきっかけは黄色い音楽を聞いたからだった。
「……多分、幼稚園児くらいの頃、親に連れられて演奏会を聞きに行ったんだ。未だ小さかった俺は演奏が始まって直ぐ寝ちゃったんだけど」
「黄色い……ってのは良く分からないけど、夢でも見たの?」
「いや、違う、と思う」
もしかしたら夢だったのかもしれないけど。
「俺は演奏中ほぼ寝てたんだけど、不意に眠りから覚めて目を開けた瞬間、目の前が黄色――黄金に近い輝かしい黄色だった、に包まれたんだ。多分だけど、俺子どもの頃、共感覚、持ってたはずだから」
何かの刺激に対して関係ない別の感覚が想起される――たとえば、音に色を感じるとか、色に味を感じるだとか――事を共感覚という。もっとも俺のその感覚は、小学校に上がる前には無くなってしまっていた。
「何それ!? 凄いじゃん! 僕もその音楽聞いてみたい、なんていう曲だったの?」
「覚えていない。ま、ともかく俺はその音楽に感動して――というか、その音楽が不思議でたまらなくて、どうやったらあんな色になるんだろうって色々自分で試す様になったんだったと思う。今の今まで忘れてたよ、こんなこと」
「えー!? 思い出してよー! 僕も、その黄色の体験してみたいー、伴さんだけずるいー」
「……そんなこと言ってもなぁ」
そもそもこのエピソードだって忘れてたんだ。
「じゃあ、調べるから、何でもいいから情報を教えてよ。会場名と大体の季節だけでいいからさ! 実家どこだっけ? 北海道? だったらキララホールかなぁ、あそこはいいホールだよ!」
「……多分調べても無駄だと思うぜ。俺そのとき、親の都合でイギリスに住んでたから。少なくとも英語で調べなきゃな」
「じゃあ、新しく作ってよー! 伴さん、作曲家でしょ!?」
「作曲家って言ってもポップスだぜ? それに『黄色い音楽』だなんて我ながら指示が曖昧すぎる」
その時聞いた音楽は、恐らくポップスでは無かったと思う、情操教育のために聞かせるのだ、クラシック音楽か何かだろう。歌声は入っていなかったと思うから、恐らくオーケストラか室内楽か。
「いいじゃん! ゲイジュツカっぽくていいじゃない! 自分の思い出の色彩を表現するために曲を書く! 実にそれっぽいじゃん!」
あのなぁ、お前だだこねるなよ、と言おうとした瞬間、後ろからダンディな声した。
「いいじゃない『黄色い音楽』。実に、素敵だ。伴くん、書いてみなよ」
振り向くと吉田さんがいた。吉田さんは、俺に作曲の仕事をくれるディレクターだ。こんな時間にシェアハウスに来るなんて珍しいな。
「吉田さん、久方ぶりです。夜に来るのは珍しいですね。この前納品した曲、何か問題ありました?」
「いいや、この前の曲も実にラブリーだった。聞いたとたん、全身の毛孔から銀の粉がふきだしたような気分だったよ」
吉田さんは、堀も深くて上背もありスタイルが言い、渋い声のナイスガイなのだが、如何せん発言が意味不明だ。服装が何時でも全身花柄なのにも、その異様さを際立たせる。
「今日は、上村くんに会いに来たんだが、興味深い話が聞こえてきたから、ちょっと寄ってみたんだ」
上村、とはこのシェアハウスに住む女の子のシンガーソングライターの名前だ。彼女の書く幻想的な世界観の歌は、吉田さんの訳のわからないノリとも実に親和性が高い。
「吉田さん、『黄色い音楽』、聞いてみたいっすよね! ねえ、頼むよー伴さん!」
そして、何故か尊と吉田さんは馬が合う。二人が会話していると――尊が一方的にクラシック音楽のマニアックな話題を振り、それに対して吉田さんが斜め上の方向からコメントする――まるで、ピカソの絵画の世界に迷い込んだ気分になる。
「伴くん、ワタシはひらめいたよ! その『黄色い音楽』、作ってくれないか? 今丁度プロデュースしようとしている新人アイドルがいてね、その子のために一曲必要なんだ。本当はコンペにしようと思っていたんだけどね、ワタシには見えたよ。君のその『黄色い音楽』で彼女が一代アイドルになる未来が!!」
ああ、駄目だ。吉田さんが自分の世界に入った。経験上、こうなった吉田さんには言葉は通じない。電波とか霊力なら通じるらしいのだが、如何せん俺にはそんなものの発信機は着いていない。
「という訳で、とりあえず3週間くらいを目処にラフスケッチをもらえるかな? なに伴くんなら出来るさ。じゃあワタシは上村くんの所に行くよ、じゃあね!!」
そう言うと吉田さんは、花柄の服に包まれた身体をくねくねとよじりながら共有スペースから出て行った。
「伴さん! 完成したら僕にも聞かせてね『黄色い音楽』!」
こいつもこいつで、何やら無邪気に喜んでいるし。
ふと、飲みほしたカップを見ると、底にほんの少し残って乾いた紅茶が黄色く光っていた。カップの底に残った跡やる占いがあるらしいが、さてこの模様が表すのはどんな未来だろうか。