第二話 旋風
強い方だと思った。
優しい方だと思った。
――俺の部隊からは絶対に死者は出さない。ゆえに、訓練は厳たるものとなるだろうが、ついてきてくれるか。
他人にも厳しかったけれど、それ以上に自分にも厳しい方だった。
私は知っている。彼が、時間外にもひとりで剣を振るっていることを。
私が「恋」だと思っていたそれは、ただの「憧れ」だったようだけれど、それでも彼を慕う気持ちに変わりはなかった。
だから、私は。
「俺と結婚していただけませんか、リーア様」
この状況が、誰よりも理解できずにいた。
* * *
クールツィオ王国の一人娘、リーア。
そもそも王女たるリーアがどうして一人っ子なのかといえば、彼女の母である王妃が病に倒れ、この世を去ってしまったからである。まだリーアが三つのときだった。
普通ならば側室を娶るなり養子を貰うなりして、とにかく男子を家系に入れるものだが王がそれを拒んだ。それほどまでに王妃は王に愛され、リーアもまた同じように愛されてきたのである。
つまり全ての王権はリーアにある。といっても、いくらリーアが一人娘だろうが王が溺愛していようが、女子の身ではひとりで国政など到底できない。否、できなくはないのだが、きっと世間は許さないだろう。
そうなれば権力を得られるのはリーアの夫となる人物であった。容姿にも性格にも特別問題はなく、更に王権までついてくるとなれば、見合い話はいくらでも舞いこんでくる。百花繚乱よりどりみどりだ。
しかし、たとえ隣国の第二王子であろうが、国一番の貴族の息子であろうが、リーアの首が縦に振られることはなかった。
彼女にはひそかに想いを寄せる幼馴染がいた。とはいえ今やその人物は自分の執事で、この恋は決して許されない。
それでも、彼が言ったから。もう少しだけ待っていただけませんか、と。
「とは言ったものの、どうしましょうか」
「……え?」
三時の鐘がなって数分。いつものように紅茶を啜るリーアに、レナートが声をかけた。
本来、執事というのは主にこんなに無遠慮に話しかけるものではない。しかし仕えはじめたのは五年ほど前とはいえ、物心が付く前からの付き合いのレナートにそんな常識は通用しない。もっとも、リーアとて無言のティータイムよりもずっと楽しいと思っているので、特に何も言わなかった。
「どうしましょう、って? 何が?」
コトンと小さく音を立ててカップを置くと、リーアも口を開く。
隣に立っていたレナートが小さく頷いた。
「……いえ。見合う人間になるとは言ったものの、身分なんてそうそう変わるものじゃありませんし。どうしたものかと」
「レナート、何も考えないで言ってたの……」
あからさまに落胆するリーアに、レナートがわずかに口を尖らせる。
「先に言い出したのは姫様でしょう」
「べっ、別に私は伝えられただけで十分だとっ」
「あそこまで言っておいて、私の気持ちはどうでもいいと?」
「誰もそんなこと言ってないじゃない、ばか!」
思わず、"そのとき"のことを思い出して溢れる感情を口に任せて吐き出した。あの日から、ますますレナートはリーアに容赦ない。もはや主従としての関係が成り立っているのかすら疑問である。
しかしそれは、まるで幼い日に戻っているかのようで心嬉しかった。ふぅ、と一拍間を置いてから、ふたり揃ってクスッと笑みをこぼす。
「……レナートがこんなにわがままなの、久しぶり」
「それは……申し訳ありませんでした」
「ううん、いい。だってレナートが自分の気持ち言うの、私に関わることだけだから嬉しいの」
そう言って、リーアは顔を綻ばせた。レナートもかすかに目を細めつつ、しかし同時に溜息をつく。
「姫様も一層わがままになられたことで」
* * *
キィンと甲高い音を立てて剣と剣がぶつかる。珍しく暇を持て余していたリーアは、窓から顔を覗かせて親衛隊の訓練を眺めていた。
もっとも、暇を持て余しているのはほとんどの雑務をレナートに押し付けているせいだからなのだが。
「……姫様、お見合いのお写真くらいはご自分で確認なさるべきかと」
行儀悪く椅子に膝立ちになっているリーアに、レナートが不服そうに声をかけた。リーアもまた口を尖らせて振り返る。
「いいじゃない、別に。どんなお金持ちだろうが美青年だろうが私の気持ちは変わらないわよ」
一拍の間を置いてレナートがはぁ、と頷いた。何の間だろうかと自分の台詞を心の内で反芻させて、リーアがボッと音を立てそうな勢いで頬を染める。
「あっ、いや、違! レ、レナートがぐずぐずしてたら他の人のところに行っちゃうから!」
顔の前でぶんぶんと両手を振りながらそう声を上げるリーアに、レナートが眉を曇らせた。
「……そうですか」
そう呟くレナートはこれまでに見たことないほどの落ち込みようで、リーアのほうがひどい罪悪感に苛まれる。
レナートはそれっきり黙って、また机に向かって何かの紙にペンを走らせていた。俯いているせいで、その顔色を窺うことはできない。
しかし明らかな悲哀を漂わせているレナートに、リーアはおそるおそる、そして躊躇いがちに声をかけた。
「で、でも今はレナートが一番好きだから」
「今は、ですか」
何よもう! と声を荒げたくなるのをぐっと堪えて、リーアは真っ赤な顔で呟いた。
「……ずっとに決まってるでしょ、ばか」
蚊の鳴くような声。しかしそれもしっかり耳に届いたらしく、レナートはぱぁっと面を輝かせた。
「ありがとうございます」
まだまだ希有なレナートの微笑みに、またリーアのほうが恥じ入ってしまう。確信犯だとは分かっているのだが、普段そこまで感情を表に出さない彼が露骨に落ち込んで見せるのだから黙っていられなくなる。
もちろんレナートのほうもそれを分かってやっている。しかし落ち込むのは演技とはいえ、そのあとに見せる笑顔は本心からのものだ。
「私も、姫様のために努力いたします」
「……当たり前でしょ、自分から言い出したんだから」
そう言うとリーアはぷいと窓のほうへ向きなおる。いつのまにか訓練は休憩に入ったらしく、誰の姿もなかった。少し残念に思って、小さく息をつく。
剣士の訓練を眺めるのは好きだ。騎士の訓練を見ていると自分も馬に乗りたくなるので、極力視界に入れないようにしていたからか、自然とそう思うようになっていた。
「愛しのジーノ様がいる騎士団の訓練は裏庭ですよ」
ぶっきらぼうなレナートの声がリーアの耳を掠めた。
「だから、ジーノ様のは恋愛感情じゃなかったんだってば! いつまで根に持ってるのよ!」
今までは隠しおおしていたが、この男、なかなか偏執的なのである。貴族だろうが兵士だろうが家人だろうが、リーアの口から男の名が出ようものなら何時間でも詮索してくる。リーアとしてはただ楽しく談笑したいだけなのだが、何を話すにしても一度頭の中で反芻させなければならないのであった。
未だぶつぶつと小言を漏らすレナートに背を向けて、再び広い庭を見下ろす。兵士たちの足跡が、ぽつぽつと一面に広がっていた。先程まで剣を振るっていた兵士たちの姿が脳裏をよぎり、不意に口元が緩む。
そんなリーアの視界にふらりと入り込んでくる影があった。ちょうど真下、廊下となっている部分から剣士たちと同じく休憩に入ったらしい騎士がひとり、庭の真ん中へと歩いてくる。
それが誰なのかをはっきり認識して、思わずあっと声を上げそうになった。噂をすればなんとやら。ジーノだった。
ふと足を止めたジーノがおもむろに天を仰ぐ。すぐさまその目は窓から顔を出すリーアを捉え、にっこりと細められた。思わずリーアも会釈を返す。
すると突然、ジーノの右腕が大きく振り上げられた。その手には紙飛行機が握られていて、あぁ、あれを投げるのかとリーアが気づいたころには、小さな銀の矢はすでに風を切って窓へと飛んでくる最中だった。
「えっ、わ、わっ!」
リーアの額を目がけて一直線に飛んできたそれを、慌てて両手で受け止める。己の手の中でぐしゃりと音が鳴り、リーアは顔を顰めた。この子はもう二度と飛び立つことはできまい。
しかし今は飛行機の心配をしている場合ではなかった。取るものも取りあえず再び庭へと視線を下げる。
ところがジーノは小首を傾げて淡く微笑むと、すたすたと退散してしまった。入れ違うように剣士たちが出てきたから、休憩の時間が終わったのだろう。
「どうかしましたか、姫様」
騒動に気づいたレナートが顔を上げる。もっとも、端から見ればリーアがひとりで暴れているだけだが。
「ううん、なんでもないの! ちょっと虫が飛んできただけ」
そう言うとリーアは飛行機を握っていた手を自分の体の陰に隠す。そのままドレスの裾で庇って部屋へ戻ると、ぼすっとベッドへ飛び込んだ。
「……お疲れですか?」
「んー、別に」
「お休みでしたら出ていきますが」
「いいわよ、寝る気はないから」
レナートの声に生返事を返しながら、音を立てないように注意を払ってくしゃくしゃの紙飛行機を開く。まさかただのいたずらで投げてきたものではないだろう。案の定、中には整った字で何か書かれていた。
『本日の黄昏時、裏庭の杉の木の下でお待ちしております』
ふわりと生ぬるい風がリーアの肺へと入り込んできた、気がした。
* * *
夕陽は燦爛と赤い光を放ちながら地平線へと沈んでいこうとしていた。一緒に、リーアの心も沈んでいく。
結局レナートには言わずに来てしまった。父との夕食の合間を縫って、こっそり足を運んだのだ。
リーアが人目のつかないところを回って裏庭へ辿りついたとき、すでにジーノは杉の木陰に佇んでいた。リーアの足音に気づいて振り返ると、背後の夕陽に眩しそうに目を細める。
「来てくださったんですね」
そう言って微笑むと、ジーノは自分がもといた場所へリーアを誘う。密会がばれないよう配慮しているのだろう。
「あの、ジーノ様。何のご用ですか? あんな紙飛行機まで飛ばしてきて」
「申し訳ありません、ご迷惑でしたか?」
怪訝そうに呟いたリーアに、ジーノが即座に頭を下げた。リーアは慌てて首を振る。
「いえっ、そういうわけじゃないんです! ただ、そこまでする何があるのかと思って」
「……あぁ。僭越ながら、姫様にお願いしたいことがありまして。少し、昔の話をしてもよろしいでしょうか」
アルトゥージ王国は何百年もの間、クールツィオ王国と敵対していた小国だ。陸路で繋がっている以上、そうなってしまうことは仕方がなかった。
領土こそ狭いものの数多い鉄山とその加工技術でみるみる発展し、今やその勢いは他の大国にも引けを取らないアルトゥージ。
対してクールツィオは農業で栄えてきた国である。広大な土地を有効に活用し作られた農作物は、他国へと輸出する余裕があるほどの量だ。戦力は皆無ともいえるほどだが、その生産力に依存している国は多く、ここしばらく大きな戦争は起こっていない。そんなクールツィオの一人娘がリーアである。
アルトゥージには三人の王子がいた。王位継承権のある長男はクールツィオを降伏させ、その生産力を独占したいらしい。対する次男は隣国のクールツィオとは技術と生産力を共有し、協和していくべきだと考えている。
そして三番目の王子はというと、十にもならないうちにこの世を去ってしまったという。しかも感染症だったらしく、母親すらその最期を看取っていない。
その子は頭の回る賢い子で、父王や大臣たちはひどく残念がった。三兄弟が統べるアルトゥージを夢見ていたのだ。行動派の長男と温厚派の次男、そしてそれらを上手く取り入れまとめあげる三男。彼らならアルトゥージをますます素晴らしい国にしただろうに。彼の葬儀は成年もまだの第三王子のものとは思えないほどに、盛大に執り行われた。
しかし、三男は生きていた。
彼は自らの意思で父王を丸め込み、城を出た。この事実を知るのは、王と医伯だけである。
そうして三男がやってきたのが、クールツィオである。
「その少年は幼いなりに考えたんですよ。一番いい共存の仕方を」
「……ジーノ様」
リーアの頭が警鐘を鳴らす。
この先は聞いてはいけない。聞いたら、戻れない。
しかしジーノの口が止まることはない。さらさらと言葉を紡ぐ。
「彼は知っていました。王族にとって『結婚』とは何かを。自分の選択によって変わる、国の未来を」
ふわり、ジーノの短い銀髪が風になびく。夕陽を照り返して、黄金色に輝いた。
一瞬なんかじゃない、十分も二十分もそうしていたかのように、リーアは錯覚した。けれどそれは確かに一瞬だった。
再びジーノの口が開かれる。リーアが息を呑む。ふっとジーノが微笑んだように見えたが、逆光ではっきりとは目視できなかった。
「俺がそのアルトゥージ王国の第三王子、ジーノ・トリチェッラ・アルトゥージです」
外れていてほしかった予想が、当たった。
別に昨日までなら当たったって気にしなかった。いや、気にするべきなのだが。とはいえスパイが入ったところで甚大な被害が出るような国でもないのだ。
――けれど、先ほどの彼の話を思い出せば。
次の台詞は容易に予想できた。
「俺と結婚して頂けませんか、リーア様」
驚きのあまり顔を上げられないリーアの耳に、大きな音が届く。がしゃんと缶のようなものが落ちた重い音と、からからと何かが転がるような軽い音。リーアはその音を知っていた。これは――レナートのペンケースが落ちたときの音と同じだ。
慌てて振り向いたリーアの視線の先には、案の定レナートの姿があった。切れ長の目を見開いて、じっとジーノを見つめている。
「レ、ナート……」
思わず呟いたリーアに、レナートがハッと我に返った。まごつきながら深く頭を下げる。
「申し訳ありません。姫様の様子がおかしかったのでついてきて……聞くつもりは、なかったんですが」
そう言って眉を顰めるレナートだったが、対するジーノはどこ吹く風、爽やかな笑みをたたえていた。
「いいえ、お気になさらず。いずれ執事殿にもお話しなければならなかったでしょう」
「……え?」
ジーノの言葉にリーアとレナートが揃って首を傾げた。それを見たジーノは、おや、と不思議そうな顔をする。そしてスッと人差し指を天に向けた。その先にあるのは城壁――リーアの私室だ。
「ご存じなかったんですか? さすがに訓練中は大丈夫なんですが休憩中のしんとしたときなら、この場所はリーア様のお部屋の声がよく聞こえる」
リーアより一瞬早くその意味を悟ったレナートが瞠目した。
――ふたりの関係が、ばれている。
思わぬ激白にレナートが息を呑んだ。しかしそのとき、まるで図ったかのようなタイミングで女中のひとりが顔を出した。
「あ、リーア様、レナート様! こんなところにいらっしゃったんですかぁ」
話はここまで、と言わんばかりにジーノが不敵に微笑む。そのまま踵を返すと、城のほうへと歩みを進めた。
去り際に、レナートの耳元にそっと囁く。
「ああいうことをするときは窓は閉めるのが得策かと」
そして今度はリーアのほうを向いて、
「お返事、お待ちしております」
どこか赤い顔で、しかし喧嘩でもしたあとのように俯くふたりを、女中は不思議そうに見つめ小首を傾げた。
* * *
「どうして一言、相談してくださらないんですか」
「だから、それは……ごめんなさい」
ベッドに腰掛けるリーアを見下ろして、レナートは幾度となく繰り返した。ドアにも窓にも、きちんと鍵までかけて。
「ていうか、レナート! そんなことより……」
突然の感覚に、リーアがはっと顔を上げる。言いかけたリーアの手をレナートのそれが包み込んでいた。
「……姫様。私はおそらく、あなたが思っている以上にあなたのことが好きです」
「え、あっ、ど、どうしたの急に!」
ぎゅっと両手を握られて思わず声を荒げる。
今まで身分の違いを思ってか、一定以上近づくことさえ躊躇っていたレナートが、こんなに近くにいる。とくにお互いの思いを知ってからこんなに近づくのは初めてだった。
「好きで好きで、怖いんです」
その文脈にリーアが首を傾げた。
――怖い?
「レナート……?」
「ジーノ様が本気になれば、姫様と結婚するなど造作もないことです」
レナートの言葉にぞくりと肌が粟立った。
ジーノは、本気だ。そうでなければ、あんな話をリーアなんかに聞かせるはずがない。
「私はジーノ様と結婚する気はないわ」
「……いいえ。あの話が真実だと証明されれば、もう姫様の意思なんて関係ありません。それは国の問題です」
もうわけが分からない。承諾するなんて考えられないし、かといって断ればジーノはきっと王へ全てを話すだろう。
ということは王や大臣たちに相談することはできない。同性で歳の近い女中たちは。だめだ。彼女たちは口が軽すぎる。
「私たちの関係を知って、急いで事を進めているんでしょう」
いつもなら赤くなってしまいそうな言葉だったが、今はそんな余裕はない。むしろ顔色は悪くなる一方だ。
「私は、どうすればいいの?」
「そんなの私が聞きたいくらいです」
包まれていた手を握り返してリーアが尋ねても、レナートの返事は素っ気ない。
溜息をつきそうになるのをぐっと堪えて、リーアのほうから口を開く。
「じゃあ、逃げる?」
「だめです。あなたはクールツィオの王女なんですよ」
「レナートとはなればなれになるくらいなら王女になんてならなくていい」
「そういう問題じゃありません。あなたがそう言って捨てるのは国だけじゃないんですよ。何万という国民たちも見捨てることになるんです」
さっきまでの儚げな表情とは一転して、力強く真面目な顔でじっとリーアの顔を覗き込む。その手はいつの間にか、がっしりと両肩を掴んでいた。
濡れ羽色の瞳に映る自分の姿に、リーアははっとした。自分が背負っているものの重さ、そして後悔と羞恥。自分は軽々しく逃げるなんて言っていい立場ではないのだ。
そんなリーアの思いを悟ったのか、レナートがふと目を細める。
「いつか私も一緒に背負わせていただきますから」
「……うん。別の方法を考えよう」
「はい。でも、これは……」
これは、リーアとレナートが結ばれる、という今まで抱えていた問題よりずっと深刻で現実的かもしれない。
今まではほとんど夢を見ているだけだった。いつか絶対結ばれようと。時間だって、そこまで切羽詰った状況ではない。けれどそれが突然、リーアが他の人に求婚され、しかもそれは隣国の王子様で、もしかしたら時間がないかもしれない。そんな局面へと差しかかってしまったのだ。
「正直、どうしたらいいか分からない」
ぽつりと漏れたリーアの言葉にレナートが眉間に皺を寄せた。
しかしそれすらも振り払うように、リーアは微笑む。あのとき――初めてふたりの心が通じ合ったときのように。
「でもレナートのためなら頑張ろうって思うから! だから、そんな顔しないで」
そう言って優しく頬を触れられて、レナートは一瞬息を呑むと、困ったように笑ってみせた。
「……はい」
* * *
月明かりが部屋を照らす。レナートの長い睫毛がその頬に影を作っていた。
「……困ったな」
呟く声に返事をする者はない。執事長であるレナートの一人部屋だ。
机の上には書類が山を作り、ベッドのシーツはきりっと糊がきいたまま。掃除は滅多にしないが、床には塵一つない。もう随分と部屋でゆっくり休むなどということがなかった。誰もいない部屋が汚れるはずがないのだ。
上着をソファーに放り投げ、ベッドへ身を投げ出した。こうして寝転がるのも久しぶりだ。暇を見つけてはリーアを訪ね、ジーノとのことを話し合う日々がもう五日は続いている。つまり、彼の告白からもう五日が経った。
国のことが絡んだ結婚なのだから、そんな早くに返事が来るとは向こうも思っていないだろう。とはいえ、五日経って何も話が進んでいないというのは問題だ。
正直、リーアの頭に期待はしていない。でも、自分もどうすればいいのか分からない。三人寄れば文殊の知恵――なんて東国のことわざがあるが、あと一人、どんな賢人が現れればこの問題は解決するのだろうか。
この数日で何百と吐いたであろう溜息のカウントがまた増えた。
しかし、それからレナートが溜息をつくことはなくなった。
――「賢人」は、意外にもふたりのすぐ近くにいたのだ。