第一話 夢語
コポコポと、紅茶を淹れる音が静かに響く。芳醇なアップルティーの香りが広がった。
「姫様、いいかげんお心を決められてはいかがですか」
そんな昼下がりの沈黙を破るのは、世話焼きな執事の声。リーアはハァとわざとらしい溜息をついた。
「あら、レナート。あなた、人より自分の心配をしてはいかが? 確か私より五つも年上だったのじゃなくって?」
薄桃色のドレスの裾で口元を覆い嫌味ったらしく言ってやるが、レナートの表情はぴくりとも動かない。
「王の一人娘としがない執事じゃ話が違うんですよ。見合い話ならいくらでも来ているでしょう。好きな殿方をお選びになればいいじゃないですか」
レナートは執事とはいえ物心が付く前からの付き合いとあって、王女であるリーアに対しても口のきき方がぞんざいだ。しかし、自分よりずっと年上の大人たちにさえ敬語を使われるような環境で育ったリーアには、それは希少な存在で決して不快ではなかった。
音も無く目の前に置かれた紅茶を一口啜ってから、リーアはその愛らしい顔を顰めながら口を開く。
「その"好きな殿方"が部屋に山積みにされた写真の中にいないから困ってるのよ!」
「おや、そんな方がいらっしゃったんですか」
それは吃驚というよりはどこか馬鹿にしたような口調で、むっとリーアの目が三角になる。
「何よ、私だってうら若い乙女なんだから恋のひとつやふたつくらい」
「ふたつされては困ります。で、お相手は?」
よくぞ聞いてくれました、と言わんばかりにリーアの目が輝いた。
毎日のように早く結婚しろ、早く結婚しろと繰り返すレナートのことだ。リーアがこんなふうに異性の名前を挙げようものなら、即座に話を進めてくれるだろう。
期待に胸を膨らませて、リーアはゆっくりと口を開いた。
「騎士団のジーノ様!」
その日一番の笑顔を見せたリーアだったが、そんな彼女とは裏腹にレナートの顔はみるみる曇っていく。
「……期待した私がばかでした」
「え、ちょっと、何その反応! ジーノ様じゃダメなの?」
いきなり婚約はともかく、少しはよい展開になると思っていたリーアはただただ首を傾げるばかりだった。
そんなリーアを見てレナートが小さく息をつく。その態度は本当に、よくクビにならないものだと感心するほどだ。
「隣国の第二王子だとか、貴族のお家の長子だとか、そんな方でないとお父君は納得されませんよ」
「そんなのろくに関わりもないのに、どうやって知り合えっていうのよ」
「そのための見合い話でしょう……」
今度こそハァと盛大に溜息をついたレナートに、リーアがむむっと口を尖らせる。
「何が悲しくって初対面の方と結婚なんてしなきゃいけないのよー。私は恋に落ちた殿方としか結ばれる気はないの!」
「……ご自分の身分について考え直されることをお勧めします」
これ以上やっていても何も進まないと思ったのか、レナートは空になったカップを下げはじめた。皿に残っていた最後のクッキーを慌てて口に突っ込めば、はしたないと叱責される。
「とにかく、いいかげん真面目に考えておいてくださいね」
それだけ言うと、リーアの返事も待たずにレナートは部屋を出ていった。
しんと、部屋に沈黙が満ちる。
「真面目に、ねぇ」
* * *
もう何度目だろうか。パタン、と扉が閉まるのを確認してから、レナートは再び息をついた。
自分のことだというのに結婚話に興味を示さなかった主がやっと乗ってきたと思ったら、なんと騎士に恋をしたという。本当に、我ながらよくこんなところで働いていられるものだ。心臓がいくつあっても足りない。
「どうせまた恋愛小説でも読んだんでしょう……それも王宮が舞台で、姫様と騎士が駆け落ちでもする話とか……」
リーアももう十六になる。一刻も早く色恋沙汰に興味を持ってほしくて、女中たちにはそれとなくサポートするよう伝えていた。だからといって、これは無いだろう。
ただでさえ夢見がちな彼女のことだ。こうなることは一目瞭然だったろうに。
とはいえ、そんなことなら一月もすれば落ち着くだろう。それからまた考え直してもらえばいい――しかしその考えは、翌日にはもう撤回されていた。
朝の弱いリーアを起こしに行くのはレナートの仕事だった。
その日は珍しく部屋から物音が聞こえてきて、やっと改心なされたか、と喜び勇んで扉を開けたのも束の間。レナートの目に飛び込んできたのは、窓から身を乗り出してブンブンと腕を振るリーアの姿だった。
「なッ、何やってるんですか、姫様!」
「へ? あら、レナート。おはよう」
慌てて駆け寄るレナートの表情など目にも留まっていないようで、リーアは軽い口調で言った。その様子に安堵と苛立ちが半々で込み上げてくる。
「おはようございます。何をされているのですか?」
「あぁ、あのね! 今朝は偶然早くに目が覚めちゃって。騎士団の訓練のお見送りができたの!」
嬉々として語るリーアには柳眉を逆立てるレナートに気付く様子など微塵もなかった。それどころか、未だにちらちらと窓を振り返って笑みを浮かべている。
「あなたはもう少し王女としての自覚を」
レナートの言葉が最後まで紡がれることはなかった。ピシャンッという鋭い音に声を呑んでしまったからだ。
慌てて面を向かうと、窓のガラスが静かに揺れていた。一瞬遅れて、リーアが窓枠を叩いたのだと悟る。
「自覚ならあるわよ! だから、今日からは届いた写真も全部見る! ちゃんと私に見合った方と結婚するから安心なさい、ばか執事っ!」
早口でそう捲し立てると、リーアは扉のほうへ駆けだした。止めようと手を伸ばすもレナートの指はドレスの裾を掠めただけで、リーアはそのまま部屋を飛び出して行ってしまう。
「リーアっ!」
* * *
部屋を飛び出したリーアの背中にレナートの叫び声が届いた。ふっと足が緩んだが、慌てて加速する。
「レナートのばか、ばか執事……っ!」
リーアの名を呼ぶ彼の声を聞くのは数年ぶりで、思わず涙が溢れる。
お互いに"王女"と"執事"という身分を自覚してから、ふたりの関係はすっかり変わってしまった。対等に話し、同じ暮らしをして一緒に遊んだ記憶なんて、六つのころで途切れてしまっている。
ある日を境に、とはっきり覚えているわけではない。それでも気がつけばレナートはリーアに敬語を使うようになっていた。
まるで絵画のような白皙の美顔をくしゃっと綻ばせて、あの優しい声で「リーア」と呼んでくれることもなくなった。
レナートにとってリーアは主であり、「姫様」なのだ。
そんな彼に、将来のことを真面目に考えろと言われて。
一晩中考えた。昼時はあんなことを言ったものの、リーアの脳裏に浮かぶ人物はひとりだった。
しかしそれは騎士なんかよりずっと許され難いのかもしれない。だから自分の胸に収めて誰にも伝えぬまま、知らない殿方のところへ嫁いで行ってしまえば、そのうち忘れられると思っていたのに。
努めて笑顔を作っていたものの、いざ本人を前にしてみれば、その気持ちは堰を切ったように溢れてきた。
幼いころの記憶が走馬灯のようによみがえって瞼の裏に映り、同時に悲しみが胸を満たした。
自分とレナートは結ばれないのだと悟って、その瞬間にも涙が零れそうだった。しかし、そんなことになればレナートを悲しませるだけじゃない。困らせることになるかもしれない。
そう思うと、身体はもう勝手に動いていた。
気がつくとリーアは、裏庭の花壇の裏へ腰を下ろしていた。
無意識の自分の行動に、また涙が零れそうになる。
「ここ、いつもレナートと遊んでたところじゃない……」
ふたりっきりで行うかくれんぼが楽しいのか、今となっては疑問だが、それでも自分が毎回のようにここへ隠れに来ていたことを鮮明に思い出せた。
まだ小さかった身体はこんなスペースでもすっぽり隠れてしまっていたが、レナートはすぐにリーアを見つけ出した。別に、本当に毎回ここで息を殺していたわけじゃない。リーアがどこに隠れようが、レナートは「リーアのいるところはどこだって分かるよ」と笑って、ものの数分で見つけ出してしまうのだ。
涙が頬を伝うのにも構わず顔を上げれば、幼い自分たちの姿が見えた気がした。
「……見つけ、た……」
不意に頭上からかけられた声に、リーアはぱちりと瞠目する。ついに幻聴まで、と思って振り払うように頭を振った。
しかし目の前のレンガ敷きの歩道に映った影が、それが幻聴でないことを証明している。
ゆるりと顔を上げると、花壇の反対側から顔を出すレナートの姿があった。ぜぇぜぇと肩で息をしているのを見て、ここまで走ってきてくれたのだと気付き、また目頭が熱くなる。
「姫様は何かあるとすぐここに来たがりますね」
そう言ったレナートの笑顔はまるで幼いころのそれのようで、リーアはごくりと息を呑んだ。そんなリーアの様子にレナートはわずかに眉を曇らせたが、すぐさま笑顔を作るとリーアの正面へ回ってきて手を差し出す。
「戻りましょう。やっと結婚してくださる気になったんでしょう?」
「……やっぱり、やだ」
「へ?」
蚊の鳴くような声で絞り出すように言ったリーアを、レナートがきょとんと見つめ返す。何を言っているのか理解できない、というふうだ。
「やっぱり私は、恋に落ちた殿方としか結婚できない」
「では晩餐会でも開かれれば」
「そうじゃないの!」
自分の気持ちをさっぱり理解してくれないレナートが腹立たしかった。それでも嫌いになれないのだから、果たせるかな恋の力は偉大なのである。そう思えば、やはり知らない男となど結婚できそうになかった。
「レナート、さっき私のこと名前で呼んだでしょう」
「失礼しました。お忘れくださ……」
「だから、そうじゃないんだってば!」
リーアは差し出されたままだった手を今更ながらに取り、立ち上がった。突然の衝撃にレナートのほうが倒れそうになる。
「この際、はっきり言うけど、私はレナートのことが好きなの! ちっちゃいときから!」
「……は?」
リーアの突然の言葉にレナートが素っ頓狂な声を上げた。
少しは動揺なり何なりしてくれると思っていたリーアは、真顔のままのレナートに顔を曇らせる。
そんなリーアに今度はレナートのほうが狼狽えた。
「あ、いや、あの、別にそんなつもりじゃなくて」
「いっ、いいわよ、無理しなくて! 迷惑でしょう!」
やはり自分の思いは迷惑なのだと慮ったリーアは、そのまま踵を返して部屋へ戻ろうとした。
「なッ、だから違…………リーア!」
しかし、それをレナートが制する。それも腕やドレスの裾を引くのではなく、名前を呼ぶことで。
絶対に止まってやるものかと意気込んでいたリーアも、予想外のそれに足を止めてしまう。
「言い逃げなんてずるい、だろう」
不自然だが、まるで昔を思い出させるかのように紡がれたその言葉に、リーアの胸が早鐘を打った。
ところがぽぅっと頬を染めるリーアとは裏腹に、レナートの表情は晴れない。
「……言ったでしょう。王子や貴族じゃないと誰も納得なさらないと」
過去のレナートが垣間見えたのは一瞬だった。またいつもの敬語に戻ってしまって、リーアも顔を曇らせる。
しかし胸の内で数回レナートの言葉を繰り返しているうちに、リーアはハッと顔を上げた。
「レナート、私のこと嫌いじゃない……?」
リーアの言葉にレナートがうっと息を呑んだ。それを見るや否や、リーアの表情がパァッと晴れる。
「よかった」
ほとんど自分に言い聞かせる程度の声量で呟いたリーアに、レナートが眉根を寄せた。
レナートとて、リーアの気持ちには応えたい。けれど、自分の身分でそれをすることは許されないと分かっていた。
とはいえそれはリーアのほうも同じで、彼女も執事なんぞに恋をしていい身分ではないのだ。
ふっと肩の力を抜いて、リーアはできるだけ自然に微笑んでみせた。
「……うん。伝えられただけで十分だわ。レナート、部屋に戻って皆様の写真を見せて」
夢の世界はこれで終わりなのだと。
自分たちは再び"王女"と"執事"に戻ったのだと。
そう言わんばかりに、リーアは毅然として言い放った。他の従者たちへ言うのと同じように。
くるりと踵を返して歩み始めたリーアだったが、しばらく進んでもレナートの足音が聞こえないので振り返った。彼は先程の場所から一歩と進んでおらず、そのままおもむろに口を開く。
「申し訳ありませんが、それはできません」
「……レナート?」
不思議に思って再び戻ってきたリーアに顔を合わせて、しばらくの躊躇のあと、レナートは言った。
「大変恐縮とは存じますが、もう少しだけ待っていただけませんか。いつか姫様に見合う人間となって、必ずやお迎えに上がります」
音も無く頭を下げるレナートのそれは間違いなく執事が主人に行うものだ。しかし今の台詞は、執事が主人に、ましてや王の一人娘に言っていい台詞では到底なかった。
当のリーアも己の耳を疑ってしまうようなその台詞に、すっかり開いた口が塞がらない様子だった。
しかし顔を上げたレナートはいつになく真剣な表情で、今更ながらに頬が朱に染まる。それはもう、ぷしゅぅと音を立てそうな勢いで。
なかなか口を開こうとしないリーアに、レナートが視線で返事を促す。
気付いたリーアは、一瞬の間のあと、震える声を振り絞って告げた。
「……お待ちしてます」
無垢な少女のようでありながらも、王女としての強い意志を感じさせる笑顔だった。
そんなリーアに幼いころの面影を重ねて、レナートも微笑んだ。
願わくば、彼女と永久に共にある未来を。