雷雨①
◆ジョージ十三世二十九年 十二月二十四日
冷たい小雨が、ぽつ、ぽつ、と石畳を濡らしていた。
ハイメア市壁西門から北西、ジェームズ二世恩賜墓地公園は、木々の枝がすっかり葉を落とし、灰色の空と石の色が溶け合っている。遠くで鐘の音が、湿気に吸い込まれるようにぼやけて響いた。
非番のセリア・ヘスフィールドは、濡れることも気に留めず、白い近衛外套の裾を揺らしながら墓地を進んでいた。
草も色をなくし、もはや世界からは色彩というものがなくなったかに思えた。
――今日こそは、来ねばならぬと思っていたのだ。
墓地の奥、わずかに盛り上がった小高い丘の上に、彼女の墓はあった。
墓標は簡素だった。近衛の英雄として記されるはずの名が、ただ石に彫り込まれているだけだ。
エリザベス・グレイベリー。
彼女の『王国騎士』たる身分はおろか、生没年すら刻まれない墓標は、その主の罪を端的に表す。
大逆犯の遺体は引き渡されず、処理も王宮が内々に行うのだ。大罪人に名前や名誉は残されない。こうして、どう生き、何を成したかすら語られぬ、簡素な墓標のみが置かれるのが慣例であった。
しばし沈黙したあと、手袋を外し、指先で刻まれた文字をなぞった。
石が冷たい。いや、冷たいのは自分の指か。分からぬほど、体が冷えている。
「……もはや、近衛は何もかもを失いました」
静かに呟くと、肺の奥が少しだけ痛んだ。
近衛のなかでも、王宮警護の責任者として王のそばに侍ったモルタム司令を除いた男性陣は前線に送られ、王太子マーカス殿下と行動を共にしていた。そのため、前衛での警戒を任されていたはずの第二王子ヘンリー殿下の突出により生じた警戒網の隙をこじ開けた魔族軍に真っ先に襲撃をうけてしまった。王太子ともども彼らの消息は不明であり、留守居以外の近衛は全滅したものとみられている。
それはよい。王太子殿下を守って討ち死に、というのは名誉ある近衛の死だ。
問題はそのあとである。
先日、外戚マンカスター伯爵と陛下が王統に関して行ったといわれる非公式の会談中に、陛下がヘンリー王子を召喚された。その案内にあたったグレイベリー卿は、王子を廊下に待たせた状態で陛下の私室へ入り、突然激昂。伯爵を討ち漏らしつつも、陛下を弑した——直後、第二王子殿下は父を殺した彼女を、斬り殺したという。
あれよあれよという間に、司令モルタム男爵は自裁し、悪名高い「悪役令嬢」ダールガム男爵夫人メアリが司令として赴任。王宮外苑におかれた近衛本部は市壁外に移され、挙句の果てに昨日からは伯爵の甥が、私兵サーリンガム連隊の破落戸どもに「王都衛士隊」などと名乗らせて王宮や市門をうろつかせている。
それも全て、グレイベリー卿のせいである、と「良識ある」同僚の皆が言う。
「卿が……乱心したなど……」
顎が軋むほど、歯を噛み締める。
あの温厚で誠実な人間が、よりによって、陛下に刃を向けられるというのか。
彼女は、正しいことを正しいと言う人だった。
同時に、自分の地位を誇らない人だった。
困った兵を見れば手を貸し、叱責する時も相手の名を呼んで諭すように話した。
そう。私は、近衛としての心得のすべてを、彼女から学んだのだ。
ありえない。
絶対に、ありえない。
近衛内部の「良識ない」層には、彼女は優しすぎるからこそ、仲間の死に耐えられず、兄である王太子をみすみす死なせる愚挙を犯したうえで「勇者」などと居直る王子と、その懐刀として王に取り入る佞臣、伯爵を討たんとしたのだ、これは義挙だった、という囁きもある。伯爵が証言した『こんな下賤な男と政治ができるか』というグレイベリー卿の発言こそがそれを補強している、などとのたまう始末だ。
そんなお人ではなかった。
悲しみと怒りが胸の奥で煮え立ち、頭の中がざわつく。それでもなお、自分が本来近衛として相応しくない墓参をしているのだと、自覚はしている。深く息を吐き、足元を見つめる。
その時だった。
「……ん?」
不自然に墓石に、折られた紙片が貼りついている。小雨に濡れ、端が丸く縮れていた。
太ももを揃えしゃがみ込み、そっとそれをつまみ上げて紙を開く。
書かれたのは、たった一行。
『宮廷医の足取りを追え』
「どういう、ことです……?」
胸がどくり、と脈動した。
誰が置いていったのか。どういう意図なのか。
しかし『悪戯』にしてはあまりに出来すぎている。
そもそも、グレイベリー卿の墓など、誰も訪れないはずだった。
罪人扱いである。葬儀も行われなかった。近衛の誰も、そして親族の誰も、連座を恐れて近づかない。私だって、あれだけ世話になっていながら、数日間ここに来ることをしなかった。
……私が来るのを待っていた? だから、ここに手紙を?
素早く折りたたんだ紙片を内ポケットに滑り込ませ、深く考え込んだ。
雨が外套を濡らし、額の隙間から冷たい雫が首を伝って落ちる。
示唆なのか。
告発なのか。
それとも、罠なのか。
だが、このまま何もしないという選択肢は、もうない。
「卿。私は……見つけます。真実を」
小さくそう誓い、墓に手を当てる。冷えた石が指先に痛いほど響いた。




