夜闇⑥
◆ジョージ十三世二十九年 十二月三十一日 二三時五八分
屋上へ続く階段は、やけに長く感じられた。いや、実際に長いのだが、骨が折れている身で登るには、輪をかけて身に堪える長さである。
一段、また一段。踏みしめるたび、肋骨が内部から拳で殴られたように痛む。階段の隙間から吹き上げてくる風が、傷の熱に触れてぞくりとした寒気を走らせる。
もう少し、もう少しで辿り着く。
今はただ、一人になりたい。いや、一人にならねばならない。私の死体が見つかれば、彼らの手土産も増えるのだ。
——手土産。
おそらく新体制はメアリか、その父ボーツシャー公爵を王へと戴いたものとなるだろう。ギルシャー侯爵ら元老たちの保守派は、革新的な王子への反発から一時は支持に回るだろうが、メアリの政治的志向自体は王子に近い。早晩に破綻するはずだ。となれば、近在の連隊への押さえとして衛士隊の武力が必要となるだろう。
私は退場するが、うまいこと立ち回ってくれ。
冬の冷気が顔を刺した。屋上は近い。
上部の階段には雪がうっすら積もっている。白い。やけに白い。月齢の若い月が薄く空にかかっており、その光を反射して屋上全体がぼんやりと明るい。雪夜とは、これほど明るいのか。
なんとかかんとか、屋上にたどり着き、胸壁にもたれかかる。向こう側には、きらめく王都がある。今夜の死者は叛乱近衛と、マンカスター一門と、三卿の重騎兵達からしか出ていない。まあ、ギリギリ王都衛戍の名目は保てたろう。
王子と相対した時は馬鹿らしくなったが、やはり「手続きに則り」「役目を果たす」というのは、捨てたものではない。
眼下では、近衛の軽歩兵たちが、城塞への橋を堂々と進んでくる。どうやら、我が部下たちはちゃんと降伏を選んでくれた。今後、苦難はあるだろう。頑張ってほしい。
先ほどから、王都じゅうの僧院が鳴らす鐘の音が聞こえている。そう。もうすぐ新年なのだ。
雪に包まれた白の王都は、戦火に灼かれず静謐を保っている。最期の景色としては、悪くはない。
遠くで、誰かが笑っているような声が聞こえた。新年を祝う王都臣民達だろう。サーリンガムの村々には劣るが、まあ、良い街だ。
「さて」
懐から、緑色の小瓶を取り出す。
これは毒。貴人の使うというそれは麻痺性。帝国製で、噂で聞くところによると、何かこう……魚の毒らしい。効きは早く、苦しむ暇さえない、優秀な代物だという。
王子の死体から頂戴したのだから、王子は私と相討ちになったようなものだ。
馬に引き回された後、見世物として臓物を引き出され、最終的には身体を四つに裂かれる、という末路は流石に遠慮したい。さっさとこの現し世を去るに限るだろう。伯父上や王子に文句も言いたいことだし。
瓶の蓋を開けると、薬草の香りとも腐敗臭ともつかない、妙な匂いが立った。さて伯父上の「馬の小便」とどちらがうまいかな。私は小さく息を吸い、そして軽く笑った。
「面白おかしい人生だった」
瓶を傾け、口に含む。
舌が少し痺れる。喉の奥に冷たい刃物を差し込まれたような鋭い感覚。
飲み込もうとしたその瞬間だった。
——ドン。
夜空を引き裂くように、轟音が走った。
視界の端に、赤い光が弾ける。続けて、青。金。白。
花火だ。新年を告げる花火。王都の空は一気に明るくなった。
思わず顔を上げる。
色とりどりの光の花が、寒気を震わせるように開いては消えていく。光に照らされた雪片が、きらきらと瞬いて舞っていた。
「……悪役の末路にしちゃ、上出来だ」
本当に、悪くない。
王都が私に用意してくれた、お礼だと思おう。一応、無能なりに努力をしたことは認めてもらえたのだろう。ありがとよ。
そう思って喉に力を込め——
——その瞬間、背中に何か柔らかいものが触れた。
誰かの腕が、私を後ろから抱きすくめている。
「……?」
次の瞬間、鳩尾に、鋭い衝撃が走る。
「……っ──!!」
胃袋がひっくり返り、口に含んだ液体が反射的に吐き出される。
身体が折れ、呼吸が乱れ、視界が揺れる。肋が折れてる怪我人に、なんてことをするんだ。
咳き込んで、声がうまく出せない。
「がはっ、ごほっ……なっ、ん……!」
視界の隅に、月と花火の光を受けて輝く金髪が見えた。雪を払うようにして流れるその髪。
メアリ。
甘いのに鋭い声が囁く。
「死なせませんわ、ウィリアム」
呼吸が止まった気がした。
「あなたは——必要ですもの」
背後から、エドワードやコーヴァン、そしてオークレイら、なじんだ部下たちの声が聞こえる気すらしてきた。なにやら怒鳴っている。はいはい、済まないね。私は先に退場だ。メアリに必要とされるのは……嬉しかったが。
これは、死ぬ前に見る「幸せな幻覚」だろう。なら、私はそう望んだのか。望んだに相違ない。視界が周辺から暗くなる。中央がにじむ。
世界が、暗く沈んでいく。




