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暗雲③

 伯爵私室の重たい扉が、背後で静かに閉まった。

 廊下に出て一歩目で、思わず小さく息を吐く。さきほどまで鼻腔を満たしていた上等な酒の香りと、古い木と紙の匂いが薄れ、代わりに冷えた空気が胸に刺さった。

 しかしとんでもない話を、酒の肴のようにされたものだ。

 国王暗殺。近衛司令の自裁。公爵令嬢の上洛……そして王都衛士隊総長への任命。

 矢継ぎ早に告げられた事実が、まだ頭の中で定位置を見つけられずにぐるぐる回っている。

「殿」

 オークレイから差し出された外套を羽織ると、先ほど以上の重さを持っているように思えた。

「お話は……」

「あったとも。山ほどな」

 ウィリアムは気のない返事をして、手袋越しにこめかみを押さえた。

「ひとまず外だ。立ち話する内容でもない」

 赤い絨毯の敷かれた廊下を歩きながら、何度目かの思考の整理を試みる。

 王都警備隊を再編した新設部隊、王都衛士隊。信頼のおけない近衛の代わりに『王都の盾』となる新進気鋭の治安機関。

 聞こえはいい。だが実際には、これから始まる政争の軋轢を真正面から受け止めながら治安を守る至難の業が要求される。しかもこの混乱した王都で。

 うちの連隊だけじゃ足りない、と納得してくれただけ、伯父上はまだ現実が見えてるほうか……

 募兵許可も出た以上、速やかに衛士隊とやらは戦力化ができるだろう。ひと月以内にはものにしなければ。

 見積もりながら、階段を降りる。伯父上ご自慢の内装——磨き上げられた手すりや壁の絵画も、今は目に入ってこなかった。

 玄関ホールを抜け、重い扉を開けると、冬の空気が足元から流れ込んでくる。曇天の下、石畳は薄く湿り、庭木は葉をすべて落として丸裸だ。

 門柱へと続く砂利道の先に、人だかりが見える。

「……ん?」

 門番と、その前に立つ二人の人物。それを遠巻きに眺める馬丁や使用人たち。緊張を含んだざわめきが、冷たい空に溶けている。

 その中心にいる女の姿を認めた瞬間、足が自然と止まった。

 濃紺の軍装。その上に羽織った白いマント。雪のように明るい金髪が、頭の後ろで編み込まれている。法的にはメアリ・ボーツシャー、伯爵からはダールガム男爵夫人と呼ばれる彼女は、まるで自宅にいるかのように堂々と振る舞っていた。

 遠目にもわかる凛とした横顔に、胸がわずかに疼く。学院の食堂の片隅で、何度か盗み見た横顔と、戦場で血に濡れた肩を押さえながら指揮を執っていた姿が、頭の中で重なった。

 引き連れているのは短い黒髪の女騎士。切り揃えられたおかっぱ頭が、肩口で揺れている。メアリと同じ近衛の白外套を羽織り、腰には制式の剣。黒い瞳に怒りを宿し、門番を睨みつけていた。

「ダールガム男爵夫人ですな。ダールガムの防衛戦では随分助けられました」

 副官が小声で囁く。

「ああ。近衛司令になられたそうだ。大出世だな」

「は?」

 オークレイが歩を止める。そのくらいで驚いてもらっちゃ困るな。

「私は新設の王都衛士隊総長だそうだぞ」

「それは、どういう」

 会話の内容が、耳に届く距離になった。オークレイの問いかけを手で制して、足を止める。

「——司令は着任のご挨拶に伺ったのです。なぜお会いになれぬのですか」

 黒髪の女騎士が、抑えきれない怒気をにじませて言った。その声は、若く澄んでいるが、刃物のような硬さを含んでいる。

 門番の男は、恐縮したように肩をすくめた。

「だ、旦那様はお怪我をおして臨時政務卿の政務に励んでおられます。負傷も癒えぬ身ゆえ……」

「その臨時政務卿閣下は、なぜ我ら近衛を遠ざけるか!」

 女騎士が怒気を発する。門番は視線を泳がせ、言葉に詰まった。

 その横で、メアリは顔色ひとつ変えずに立っていた。視線は門番ではなく、鉄柵の向こうの屋敷そのものを見据えている。その横顔は、どこか冷えた彫像のようにも見えた。

「セリア・ヘスフィールド卿」

「司令。このような……」

「わたくしたちは取り調べではなく挨拶に伺ったのですわよ」

「グレイベリー卿の……いえ、近衛の名誉に関わることです——」

「わかっておりますわ。しかし」

 柔らかな声。だが、そこでふと令嬢が振り返り、空気がわずかに張り詰めた。

「今はその時ではありませんわ」

 一拍置き、微笑みを浮かべたまま、少しだけ言葉を低くする。

「淑女らしくなさらないと」

 叱責というほど強くはない。だが、決して冗談ではないことが、表情がうかがえずとも伝わる響きだった。

 女性騎士が唇をかみ、押し黙る。握りしめた拳が、手袋越しでもわかるほど強く震えている……主力の男性陣が北部で大地の肥やしとなっても、王都留守居の女近衛の中には、まともな騎士らしさを持ったのが残っていたようだ。

 芯がある騎士らしさを感じるが、あの黒髪の女騎士の剣呑な目は、決して扱いやすいものではなさそうだ。部下に欲しくはない……正義感の強い若い騎士、というやつだ。こんなのまで相手にするのか衛士隊は。

 すでにいくらかうんざりしながら、令嬢・騎士・門番——三者の間の微妙な綱引きを眺めていると、門番がこちらに気づき、慌てて姿勢を正した。

「サーリンガム男爵閣下!」

 門柱脇で押し黙っていた私兵たちも慌てて直立し、敬礼を送る。ざわめきが一瞬で収まり、視線が一斉にこちらを向いてしまった。致し方ない。

「そう畏まらんでくれ。もともとわが男爵家は君たちと同じ伯爵の家臣筋だよ」

 苦笑交じりに手を振り、門へと歩み寄る。近づくにつれ、メアリの顔立ちの細部がはっきりしてきた。

 学院時代、礼拝堂の柱の影からちらりと覗き見ていた横顔よりも、ほんの少し大人びている。戦場で見た時は、血と泥にまみれていたが、今目の前にいるのは、凛とした貴婦人だった。

「これは、ボーツシャー公爵令嬢メアリ殿下。それとも、ダールガム男爵夫人ですかな」

「そのあたりは、王都でも皆さま悩んでおられますのよ、サーリンガム男爵」

 柔らかな声音で、裾をつまんで礼を返す。

「ダールガム防衛戦では、殿下の采配でなんとか生き残れました。十分にお礼もできなかったため、追いかけて上洛した次第です」

「あら。わたくしこそ、あなたがいなければ、領民も兵も……いえ、わたくし自身の命すらあの地で散らしていたでしょう。礼を言いたいのはこちらでしてよ」

「光栄の極み」

 メアリが少しだけ肩をすくめて笑う。その笑みに、伯爵私兵たちもわずかに頬を赤らめた。オークレイですら、少し表情が緩んでいる。

 その横で、黒髪のおかっぱ頭の女騎士は、じっとこちらをねめあげる。その目に潜むのは、明らかに敵愾心である。

「サーリンガム男爵」

 嫌だなぁ、と思いながら渋々そちらに向き直る。

「近衛兵だな。ええと」

「王国騎士セリア・ヘスフィールドと申します」

 ぴたりと踵を揃え、簡潔に礼をする。その所作はきびきびとしているが、体躯は小さく、軍服に着られているように見えた。

「王都における臨時政務卿閣下側の最高位武官は、貴殿になると聞き及んでおります」

「耳が早いようだ。しかし『側』というのはよくないな。我々はともに『王国側』だ」

 同胞じゃないか仲良くしようよ。

「わ、私は貴方がた門閥の派閥の話をっ……」

 セリア女史が食い下がる。陛下が亡くなられてすぐに政争とは中央の連中は嫌だねえ。よし、話をそらそう。

「わかっているさ。ああ、殿下。ご報告が遅れ申し訳ない。王都衛士隊総長を先ほど拝命いたしました。今後、同一の任地での勤務となります。先輩としてご指導賜りましたらありがたく」

「たかだか一週間程度の先輩ですわよ?」

「王都では一日が辺境の数日のごとく輝いて感じられました。殿下もそうでしょう」

「学院時代に、わたくしはいい思い出ばかりではありませんわ」

「あ……失礼」

 そうだった。彼女は学院在籍の最後の期間、針の筵に座り、挙げ句婚約破棄されて学院も追放されている。失言だった。

「だ、男爵! 近衛の捜査にご協力願いたい!」

「今日上洛して、ガタガタの警備隊とボコボコの領地連隊しか持たない私にできることならね。予算は先ほど約束されたが」

 軽口のつもりで言ったが、セリアの表情は少しも緩まなかった。むしろ、その黒い瞳の奥に、警戒めいた色が走る。

「陛下の御最期について、伯爵閣下から何かお聞き及びでしたか」

「ヘスフィールド卿!」

 メアリの鋭い声が飛ぶ。だがセリアは一歩も退かない。

「司令、男爵は伯爵一門です。であるなら、なおさら——」

「なおさら、ですわ」

 メアリはその言葉を引き取り、静かに微笑んだ。

「この場でそのようなお話を持ち出すべきではありませんの。ねえ、サーリンガム男爵?」

「え、ああ、はい」

 令嬢の眼差しは穏やかだが、その奥に何か測りかねる光がある。

 ほんの一瞬の逡巡のあと、ウィリアムはごくありふれた「地方の男爵」の顔を引っ張り出した。

「私はただの田舎貴族ですからな。王都の御事情も、王宮についても、近衛の方々のようにはわかりませぬ。伯爵も『近衛に話したこと以外は何もない』と」

 お手上げ、とばかりに肩を竦め、両手を広げて見せる。

「ただ、王都の治安がこの有様では、陛下の聖霊に申し訳が立ちますまい。遺された王都に治安を取り戻す。私の務めは、そこに尽きると理解しております」

 ただでさえやることが多いんだ。頼むから派閥争いに巻き込まないでほしい。本音を、ほんの少しだけ滲ませる。

 メアリは、満足そうとも、諦めたようともつかない表情で、ふっと目を細めた。

「ごもっともですわ。王都を守る盾であられる方が、政争に巻き込まれては本末転倒ですもの」

「ですが」

 セリアが食い下がろうとするのを、メアリは視線ひとつで制する。

「わたくしたち近衛の務めも、まず新たな陛下の護衛と、次いで彼と同じく王都の安寧です。真相究明は、決して忘れはしません。けれど、そのために今この場で声を荒げても、得るものは何もありませんことよ」

「……はい、司令」

 歯を食いしばりながらも、目を伏せるセリア。黒髪がふわりと揺れ、その横顔にまだ若さが残っていることを、ようやく実感する。

 自分が彼女と同じ年頃だったころ、何をしていたか。学院の講堂で居眠りをし、戦術論の授業中でも窓の外ばかり眺め、決闘場では妙に冷めた目で他人の試合を見ていた。

 そして、礼拝堂の柱の影から、王子と並んで神像に祈りを捧げるメアリの横顔を、ちらちらと盗み見ていた——そのたびに、不意に王子の視線とぶつかりそうになり、慌てて視線を逸らしたものだ。メアリには悪しき記憶の学園時代だろうが、少なくとも気楽で楽しい日々だった。

 思わず苦笑が漏れそうになる。慌てて咳払いで誤魔化した。

「サーリンガム男爵ウィリアム卿」

 メアリが改めて名を呼ぶ。

「王都でのご活躍、期待しておりますわ」

 その言葉は、礼儀として十分に整ったものだった。余計な感情を一切混ぜない、完璧な社交辞令。それでも、何とも言えない熱がわずかに灯る。名前を覚えてくれていたのだ。学院の頃にか、戦地でか、それとも王都の政敵の走狗としてかは定かではないが。

「微力を尽くします」

 大言壮語を吐くだけの自信は、ない。

「無理をなさらないことも、大切な指揮官の資質ですわ。あのダールガム防衛戦でのご判断は、その証左でしょう?」

「……その評価をいただけるなら、ありがたいことですな」

 どこまで本気で言っているのか。どこまでが計算なのか。

 目の前の令嬢は、もはや学院の中庭で取り巻きと高笑いし、断罪された「悪役令嬢」ではない。戦場で「戦妃」と呼ばれた将であり、現在は近衛司令、そして——継承権四位。玉座に手が届きうる人物だ。

 恐ろしく、美しい。このひとと並び立てるなどと、伯爵も無理を言う。

 メアリは一歩下がり、軽くスカートの裾を揺らした。

「それでは、今日はこれで失礼いたしますわ。臨時政務卿閣下にお目通り叶わなかったのは残念ですが……また日を改めて」

「王都の治安のため協力してまいりましょう。あぁ、門番殿は仕事を果たしただけだ。あまり苛めんでやってくれ、ヘスフィールド卿」

 門番は大げさに恐縮する、よせやい。

「い、いえ、とんでもございません。申し訳なく」

「とはいえ、もう少し柔らかい物言いができるようにしておいた方がいいな。こちらは本来王位継承権四位のお方と、そのお伴だぞ。へりくだっても損はしない」

 軽く釘を刺しつつ、わざと冗談めかした口調で言うと、周囲の空気が少しだけ和らいだ。

 メアリとセリアが踵を返し、ボーツシャー公爵家の紋章が描かれた箱型の四輪馬車へと歩き出す。白マントの上の長い金髪と短い黒髪が並んで揺れ、その後ろ姿を、ウィリアムはしばらく無言で見送った。

「……殿」

 オークレイが恐る恐る口を開く。

「なんだオークレイ。てっきり口を廊下にでも落としてきたかと思ったぞ」

「ダールガムの奥方が、新しい近衛司令である、と?」

「ああ。ともに王都を守る者として心強いな」

 嘘だ。ウィリアムは短く答え、馬丁から手綱を受け取り、鐙を踏んで鞍に飛び乗る。

「伯爵邸の警備よりはおおごとだが……うちの兵たちの言う通り、衛士隊といっても近衛の補助のようなものだ」

 大嘘だ。

「衛士隊総長と申されましたな。どんな手品でそんな出世を」

「まあまあまあ。衛士隊本部で話そう。せっかく上洛したのに兵を寒空で待たせていては、後で何を言われるかわからん」

 オークレイが唸った。あの近衛隊士とは違って聞き分けが良くて助かるね。

 肩の外套を整え、手綱を軽く引いた。


 王都の空はさらに低くなり、黒雲が重くのしかかっている——国王を失った王国は、静かに、新たな混乱への歩みを始めていた。

明日より21時に毎日更新します。よろしくお願いします。

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