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短編集的な

花蜜と銀狼

作者: 春紫苑


 コンコン。


 軽く弾くように扉を叩く音。聞いたのはいつぶりだろうか。

 リリアンは懐かしさに手を引かれるように、気付けば扉を押し開いていた。

 けれど――。


「あっ」


 もちろん、扉を開いた先にあったものは、リリアンの望むものであるはずがなかった。

 立っていたのは見知らぬ男。

 また扉を叩こうとしていたのか左手を握ったまま、驚いた顔が口を半開きにして、リリアンを見下ろしている。

 背が高く、筋肉質。淡い髪色に浅黒い肌をした若い男だった。

 逆光のためか、薄水色の瞳が妙にギラついて見え、その全く見覚えのない人物は、腰に剣を帯び(つか)に手をやっていたものだから、リリアンは咄嗟に扉を盾に身を隠す。

 しかし男は慌てるそぶりも見せず、落ち着いた声音で問いかける。


「こんにちは。ラッセル・ルピナスさんはご在宅でしょうか?」

「……どなたですか?」

「ウォセ・ルーパインと申します。昔ラッセルさんと一緒に仕事をしていた時期があり、挨拶に伺いました」


 男が剣を持ち、七年前を語るならば知人であることに嘘はないのだろう。


「……あなた()、傭兵?」


 おそるおそる顔を覗かせ、横目で剣をチラリと見つつ問うと。


「驚かせてしまってすみません。剣は置いてくればよかったんですが、宿が見つけられなくて……」

「……そうですね。この村の宿は半年前に潰れましたから……」

「そうなんですか? それは困ったな……」


 思案する表情の男を、リリアンは静かに観察した。

 身丈と職業のわりに、言動には威圧感がない。柔和な雰囲気の男だ。

 瞳が所在なげに動き、何か……おそらく目的の人物を探している。


「申し訳ありませんが、()はあいにく不在です」


 そう伝えると、予想はしていたという表情。申し訳なさげに苦笑を滲ませた男は。


「どうしてもお会いしたいんです。少し……待たせてもらっても構いませんか?」


    ◆


 魔物すら蔓延る大陸の南東に位置する小国。隣国との長い戦が終わり一〇年が過ぎた。

 敗戦国となり、賠償金のための重税に苦しめられていた国民たちに、さらなる不運が訪れたのは五年前。

 罹患した七割が死を迎えるという恐ろしい病が蔓延し、民は激減。それをなんとか乗り越えたと思った矢先、今度は続く悪天候に作物をやられ、さらに昨年、また新たな病が流行したのだ。


「やはりこの辺りにも影響がありましたか」

「えぇ。この村でも多くの人が亡くなってしまって……」

「ここに着くまで巡った街や村は、あらかた似たようなものでした」

「そうですよね……どこも大変だと思います」


 通された居間には小さな机。そして椅子は二つきり。

 そのひとつに促され、座った男……ウォセは、周りを見まわした。

 壁一面の棚にずらりと並ぶガラス瓶。その下には小さな引き出しがひしめく棚、窓際には逆さに干された枝葉の束……。


「ごめんなさい、散らかって見えますよね」

「いや、申し訳ない。ラッセルさんの本業が薬師なのは知ってます。なるほど薬師さんの家はこんな風なのかと、つい興味が湧いてしまって――」


 会話の最中、目の前にことりと置かれたカップと小皿。

 お茶は見慣れた香りと色であったものの、皿のものは少々独特だった。


「……花?」


 花の形をした何か。


「この辺では伝統的なお菓子なんです。小麦・豆粉・花蜜・山羊の乳を練った生地で作ります」


 砂糖はめっきり入手しづらくなり、結構な高級品となっている。にもかかわらず菓子を提供するのだから、暮らしはそれなりに潤っているのだろう。

 どうぞと促され口に入れると、仄かな花の香が鼻腔を抜け、優しい甘味が口に広がった。


「甘いものなんて久しぶりだ。良い香りですね」

「裏の庭で栽培してる花の蜜を使っています。薬効は滋養強壮、体質改善程度の軽いものですが……」

「この菓子……薬なんですか?」

「中の花蜜が薬の材料になるんです。この地方ではこうして菓子にも使います」


 そう言いつつも恥ずかしそうに視線を逸らす娘。


「お客様に提供できるお菓子って、これくらいしかなくって……本来はきれいに着色して形を作るのですけど、今はものがないですから……形だけでも楽しめたらと」

「美味しいです。あなたが手ずからお作りになったんですか?」

「はい。お祭りでは、どの家庭でも作るんですよ」


 ラッセルが戻るまでの暇つぶしを兼ね、ウォセとリリアンは色々な話をした。

 特にリリアンはウォセの話を聞きたがり、父とどこで知り合ったのかとウォセに問うた。

「傭兵というのは、案外互いを知っているんですよ。雇い先次第で敵や味方になるから、生き残るためには必要な知識でね。ラッセルさんは有名でした。医師の真似事ができる傭兵は魔術師よりも貴重だ。だから同陣営に雇われたのが知り合った切っ掛けですが、俺は随分前から彼の名は知ってましたね。あっちが俺に興味を持ったのは……俺が陣営で一番若く無鉄砲だったかららしいです」


「……無鉄砲……だったのですか?」

「あー……若気の至りってやつですよ。その頃の俺は……考えなしに行動してしまう年頃でね」


 不意に視線を逸らし、どこか荒んだ雰囲気を纏った男。

 リリアンは聞かれたくない話題に触れてしまったのかもしれないと、慌てて話題を逸らす。


「そういえば、ここまではどうやって来られたんです? 一人旅には少々厳しい地形でしたでしょう?」


 岩原と砂地に囲まれた村だ。当然危険に満ちた道中となる。特に砂地は、砂中に潜む魔物に気づかず餌食となってしまう場合が多く、集団で移動するのが鉄則。


「あぁ、丁度ここに寄る商隊(キャラバン)があったので、護衛を兼ねて同道させてもらいました」

「商隊⁉︎」


 慌てて立ち上がり、大きなカゴに視線を向けるリリアン。

 しかしハッと我に返った様子で席に戻り。


「し、失礼しました……」


 再度お茶を手にするものの、落ち着かない様子。

 荒野の広がる辺境にポツンとある寂れた村だ。自給自足には厳しい土地柄であるだけに、商隊の運ぶ物資は生命線。

 傭兵家業が長いウォセは当然それを理解していたものだから。


「買い物があるならご案内しましょう。荷物持ちにでも使っていただければ、こちらとしても気兼ねなくお邪魔できるというもので」


    ◆


 村の入り口にある僅かな平地。

 普段は閑散とした場が、今は小さな市場と化していた。

 リリアンを伴い訪れたウォセに、気付いた行商人は気さくな様子で手を挙げ。


「知人宅ってルピナスさんとこだったのかい?」


 ウォセは小袋が山と積まれた大きなカゴを渡しながら。


「こっちも知り合いだなんて思わなかったんだ」

「そりゃそうか。お。今回は多いですね」

「ウォセさんが持ってくださったので、欲張ってたくさん持ってきてしまいました」


 リリアン自身もカゴを抱え、中にはぎっしり小さな袋が敷き詰められている。


「今回お売りできるお薬です。熱冷ましと咳止め、傷薬。これが体を温める薬湯で――」


 使用人にカゴの中身を指差し説明する様子をしばらく眺める。

 続いて買い物を始めたリリアンに気付かれぬよう、ウォセは行商人に話しかけた。


「あそこの薬は需要あるんだな」


 今回初めて知り合った行商人だが、傭兵を雑に扱うこともなく心地良い人物で年も近い。


「ここらにはラッセルさんくらいしかまともな薬師がいないからなぁ。腕は確かだし、ぼったくらないし、良い取引先なんだ」

「ふうん。そのわりに……」


 周りの村人たちの挙動が目についた。

 リリアンを避けるように身を引き、買い物を中断して立ち去る者までいる始末だ。

 中にはあからさまな侮蔑の視線を向ける者もおり、ウォセが睨んでいると気付くと悪態をついて背を向ける。

 行商人はそんな光景を見慣れている様子。困った風に眉を下げ。


「田舎だからなぁ……迷信深い連中が多いんだろうけど……」

「迷信?」

「いやぁ、医師や薬師どころか魔術師だって万能じゃない、治せない病や怪我はあるさ。とくに流行病みたいなもんは……さ」

「あぁ……そういうことか」


 終戦から二度、この国には死病が蔓延した。魔術師のいない田舎ならなおさら薬に縋る者は多かったろうし、その薬が効かなかったと怨む輩がいるだろうことは想像できる。

 しかし行商人は痛ましそうに表情を歪め。


「あの娘の場合は特になぁ……」

「ん?」

「幼い頃、余命いくばくもないって言われてたんだ。青白い顔してガリガリに痩せ細ってて、今日、明日にでも死んじまうんじゃないかって風体で……。なのに快癒したもんだから、ラッセルさんは腕利の薬師だって一時期かなり持てはやされてたんだよ。それで余計に反動があるんじゃないかなぁ」


 ――快癒……ね。


 目を細め、皮肉げな笑みを浮かべたウォセを横目に見ていた行商人は、ポンと彼の肩に手を掛ける。


「だからほら、大事にしてやってくれよ?」

「ん?」

「あの娘があんなにニコニコしてるの、滅多に見ないんだよ。あんたの来訪がよっぽど嬉しいんだろ」

「……まぁ、村人からこの扱いじゃな……」


 傭兵のウォセを歓迎し、貴重な菓子まで振る舞ったのは人恋しかったから。そう考えれば納得できる。しかし行商人は呆れ顔。


「うちとルピナスさんの取引は結構長いのに……俺があんたを知らなかったのが問題だって言ってんだけどね?」

「うん?」


 肩の腕が今度は首に回され、ぐいと引き寄せられたウォセ。なれなれしい態度に少々戸惑うが、行商人は気にせず話を続けた。


「戦争終わって一〇年だ。小競り合いも少なくなったし、傭兵家業は仕事も減ってきたろ?」

「一時期よりはな」

「確かに金も大切だけどな、年頃の娘には金より時間。もっと頻繁に通ってやんな」

「は?」

「留守番ばかりじゃ可哀想だろ? なにより……ラッセルさんを安心させてやんなよ」


 ちょうどそこで買い物を済ませたリリアンが戻り、抱えていた荷物をひょいと取り上げると、慌てる姿。


「あっ」

「荷物持ちは俺の仕事ですよ」

「あ……ありがとう、ございます……」


 娘のはにかむ様子を微笑み見ていた行商人。なにを思ったか商売品に腕を伸ばし――。


「今日は薬がたくさん仕入れられたし、こっちとしても助かりました。よかったらこれ、二人(・・)で食べてよ」


 ポンとカゴに置かれたのは、砂糖ほどではないにしろ、高価な果物。


「えっ、いいんですか⁉︎」


 慌てる娘に商人はにこやかな笑みを浮かべて。


「いいのいいの、あんま日持ちしないものだから、美味いうちに食べちゃって」


 丁寧に礼を言うリリアンに笑顔を向け、ウォセにはウインクをよこすから穏やかに微笑み……内心の困惑は見せなかった。


    ◆


 帰宅の道中も、村人からの視線は酷いもの。まるで汚物を見るような目を向ける村人たちに気づいていないはずはないのに、娘は気にするそぶりもない。

 言うか言うまいか悩み……結局我慢ができなかったウォセは「……この村を離れようとは思わないんですか?」と、声を掛けた。


「え?」

「こんな辺鄙な場所でなくても、薬には需要があります」

「そうですね」

「……ラッセルさんの薬にはこの村の連中だって世話になっているはずだ。なのになぜ、あんな態度を許しているんです?」


 関係ないウォセが気分を害すほどに、村人が娘を見る目は酷かった。その理不尽な対応に憤慨するが、当のリリアンは苦笑するばかり。


「本当は死んでいるはずの私が生きているのに、死ぬはずのなかった人たちが沢山死にました。やるせない気持ちがこちらに向くのは、仕方がないことです」


 本当は死んでいるはずの私。


 という言葉に、ウォセはつい動揺。


「何を言ってるんです、何も仕方なくないでしょう。病は人を選ばない。そもそもあなたが村人を病にしたわけじゃないでしょうに」


 つい反論したが、リリアンの反応はウォセの望むものではなかった。


「村人らからしたら……それと変わらないことだったんでしょう……」


 それだけ言い、後は沈黙。

 返すべき言葉が思い浮かばず、残りの道筋を二人は無言で歩いた。


    ◆


 帰り道のやり取りで、少し気まずくなってしまった二人だったが、当たり障りない話題から少しずつ話をし、しばらくすると和やかな雰囲気が戻ってきた。

 しかし待ち人は帰らず、時だけが過ぎてゆく。


「ラッセルさんが戻るのはいつ頃になりますか?」

「遅くなると思います。……だいたいいつも、そうなので……」


 そろそろ日暮れ。太陽が山に隠れつつあることを確認したウォセは窓辺を離れた。

 すると食卓には新たなお茶と、商人からもらった果物が並べられている。


 ――これを食うのは俺じゃないだろうに……。


 あの行商人は、ルピナス親子に果物を食べてほしいと考えていたはず。


「……お父さんが戻られたら怒られてしまいそうです」


 つい呟いたウォセの言葉に、リリアンは明るく笑う。


「怒ったりなんてしませんよ。せっかく訪ねてきてくださった友人なのだもの。もてなすのは当たり前ですし……」


 そこでふと、表情を消した。


「……父はもう、何も言いません……」


 独白のような呟きに、目を見張るウォセ。

 その瞳をしばらく静かに見返していたリリアンは、おもむろに口を開いた。


「実は、嘘をついてました。父は……昨年の流行り病で亡くなったんです」


 沈黙。

 視線を手元に落としたウォセ。

 机の上でゆるく組まれていた掌が、そのうち拳を握り、小さく震えて……。


「は……ははは、なんだ、死んでた。死んだのかあいつ……ハハハ! ザマアミロ‼︎」


 その変貌に、リリアンも驚いた表情。しばらく呆然とウォセを見つめていたが、ウォセはその視線に気付き、さらに失笑。


「なんて顔してんだ……っ。でもそうだな、そりゃ驚くよなぁ……フフ、でも俺、嘘は言ってないんだぜ?」


 言葉遣いまで変わっていた。

 ウォセはひとしきり笑い、ふと気づいて髪を掻き上げる。怒りに炙られ、底光りするような瞳が露わになり、娘は息を呑んだ。


「いや、嘘も混じってるか。俺があんたの父親を知ってんのは本当。一緒に仕事してたのも本当。でも懐かしくて尋ねたんじゃない、怨みを晴らすために来たんだ。なぁあんた、自分は死ぬはずだったって言ってたが……なんでまだ生きてんだと思う?」


 問いに沈黙で答えるリリアン。

 ウォセはなんとか笑いの波を抑え込み、ふうと大きく息を吐いた。


「……七年前、危険な遺跡にラッセルさんと二人で挑んだんだ。あの頃俺はあの人を慕ってたから……誘われた時は嬉しくてさ」


 無謀な戦い方をするウォセを、初めて諌めてくれたのがラッセルだった。

 我流の剣を褒め、正しい剣術や文字、生きるために必要な知識を与えてくれた。

 なにくれと気を回し、怒りながらも傷の治療をしてくれたから……天涯孤独のウォセは、自分に兄がいたならこんな風だったのではと夢想したものだ。


「博識で、腕っぷしもそれなりで、なにより薬師っていう食いっぱぐれない安全な職を持ってんのに、傭兵家業なんてものに自ら進んでなったって言う。その理由がさ……娘の病を治すためだって、俺に絵姿まで見せてくれたんだ」


 ラッセルは秘密の多い人物だった。

 本業が薬師であることは知られていたが、家庭についてや詳しい経歴を知る者は皆無に等しく、特別長い付き合いの者もいない。

 だからウォセは、彼に信頼されているのだと思っていたのだ。


「けどな……それ、全部あいつが俺を利用するための手口だったんだぜ。あんたの病は薬では治せねぇ。魔法でも無理らしい。だからそれ以外の方法をあの人は探して……見つけてた。けど、一人で得るには難しいものでさ……」


 遠い昔に滅んだ、狼種の叡智と言われていた。

 元々人口が圧倒的に少なかった狼種は、多種族から(つがい)を得て血を繋げる場合、とある試練を課した。


「奴らは番候補を交配できる形に作り変えるために、狼化の呪い(ライカンスロープ)を利用したらしい」


 しかしただ狼化しただけでは自我を失い暴れ、番をも襲う。だから伴侶と決めた相手を実力で捩じ伏せ、薬を飲ませるのだ。

 あらゆる呪いや病を退けるという、秘伝の薬。それが隠された遺跡に二人で挑み、狼化したうえで自我を取り戻し、はれて狼の姿を手に入れる。


「魂の番を見つけた奴は、生涯その一人しか番にしなかったんだと。ははっ、そんなだから滅びちまって……最後のひとつになった叡智が残されてたってわけだ」


 ラッセルは考えた。その薬があれば、娘を病から救えるのではないか。

 けれど薬を得るためには、娘を人(あら)ざる姿に変貌させなければならない。


「そこで……適当なやつを生贄にする方法を考えついたんだ」


 息を呑む娘に笑いかけ、ウォセは続けた。


「特別な体を得られる遺跡がある。そこに二人で挑まないかって、俺を誘ってさ……」


 ウォセを遺跡に連れて行き、数々の苦難を二人で乗り越えた。特別な体になんて興味はなかったが、頼られたことが嬉しかった。

 しかし――。

 遺跡の最奥。踏み込んだ魔法陣で月を見上げたウォセの体が、人非ざる姿に組み替えられていく痛みの中で――。


 ラッセルは薬だけを奪い、ウォセを遺跡に置き去りにした。


    ◆


「夜が明けて自我を取り戻した時は唖然としたね。ラッセルさんを殺しちまったのかもって焦ったし、まさか満月の夜が来るたび獣化するなんて思わなくてさ……意識が戻ると自分の周りが戦場さながらの惨状になってるなんざ……理由が分かるまではただの悪夢だぜ?」


 ウォセの話を、リリアンは静かに聞いていた。


「どうしてこうなっちまったのか、理解するまで五年かかった。んで、ラッセルが生きてると知るまで一年、居場所を突き止めるのに一年だ。お前をあいつの前で八つ裂きにしてやればさぞ悲しむだろうと思って来たのに、もう死んじまってたか……。残念だな、俺がこの手で殺してやりたかったのに……」


 独白のように呟いたウォセは、次の瞬間リリアンの首を掴んでいた。


「ところで今日は満月なんだ。満月の夜は……俺にとって恐怖の夜。月が昇ると俺は人でなくなる。これのせいで俺はこの七年……ずっと逃げ惑い生きてきたんだ。てめえの父親のせいで! 本人がいないならアンタに償ってもらおうか」


 リリアンの首を掴んだまま移動するウォセに、娘は抵抗しなかった。

 月明かりの差し込む窓辺に近づくにつれ、ウォセの体に変化が始まる。


「怪物になった俺に食いちぎられても文句言うなよ、お前の父親が全部悪いんだ」


 顔の骨格をギチギチと変貌させながら、にんまり笑い、告げたウォセ。

 しかしリリアンはうっすら笑みさえ浮かべて――。


「……分かりました。どうぞお好きになさってください」


 体の半分を狼に変貌させたウォセが、驚きに目を見張る姿を見つめたまま、リリアンは最後の言葉を口にする。


「父は、独りよがりな人でした。私が生きたいと言ったのは、少しでも長く父と一緒にいたかったからなのに……あの人は私を置いて旅に出てばかりで少しもそばにいてくれなかった。傭兵を辞めて落ち着いたと思ったら、今度は研究ばかりで全然構ってくれやしない。挙句に自分は病で簡単に死ぬんだもの……」


 不治の病すら退けた薬は、もうリリアンにどんな病も寄せ付けなかった。

 だから皆が流行病で苦しむ中も、彼女は全く罹患せず、健康なまま。

 リリアンを救った特別な薬を分けてくれと、村人らはラッセルに詰め寄った。

 けれど……たったひとつしかなかった奇跡の薬は使われてしまったあと。もう無いと伝えても、村人らは納得しなかった。

 

 結局……ラッセル自身が病に倒れて死に……やっと薬が無いことを受け入れた。受け入れざるを得なかったのだ。そして唯一無二の薬を使い、不病の体を得たリリアンを、村人は怨むようになった……。

 

「たった一人残されて……どうしろっていうの」


 不病の体が欲しかったわけではない。

 ただ愛する家族との時間を大切にしたかっただけなのに。

 けれど、世界にひとつしかなかった奇跡はリリアンに与えられてしまった。

 酷い犠牲を強いてまで、与えられてしまったのだ。

 救われるべき人が他にいたかもしれないのに……。

 リリアンは瞳を閉じ、ウォセに身を任せた。


    ◆


 しかし。

 どれだけ待っても、リリアンに死の瞬間は訪れなかった。


 不審に思って目を開くと、そこには驚愕した狼の顔が。


「なんでだ……なんでいつもみたいに、頭が痛くならないんだ? 月はとっくに昇ってる……何度も月を見たのに、獣化してやがるのに……意識がある」


 今日まで満月の度に激しい頭痛に襲われ獣化し、朝日を浴びるまで自我は戻らなかった。例外など一度もなかったのだ。


「なぜ今日は違う…なぜだ⁉︎」


 独白であろう呟きに、リリアンは首を掴まれたまま、静かに答えた。


「……おそらく、花蜜の薬効」

「花蜜?」

「あなたが食べた菓子に使っていたものです。呪いを弱める効果があるわ」


 全身を体毛が覆い、頭部もほぼ狼と化したウォセは驚きの表情で、瞳に知性を宿したまま、リリアンを見返した。


「傭兵を辞めてからの父は……ずっとこの花蜜の研究をしていました。私に使った薬の瓶……それにこの花蜜の香りが染み付いていたから、材料の一つはこれなんだろうって、そう言って」


 長い時間をかけ研究を続けていたものの、呪いなど受けていない者にとっては疲れを軽減する程度の効果しかなかった。


「どんな環境でも育つ雑草だから……この地では貴重な植物なんです。だけど茎や葉、もちろん蜜にも毒が含まれているから、普通は食べられない」

「俺に毒を盛ったってのか⁉︎」

「この地方では昔から食べられてきたわ。どういうわけか……あの花蜜は豆粉、山羊の乳と一緒に練ると毒性が分解されてしまう。食べ物に困る地域だったからこそ見つけ、編み出された手法なのだろうって、お父さんは言ってました」


 傭兵を辞めてからのラッセルは、この地でずっと呪いを弱める花蜜を研究し続けた。


「あぁ……そうなんだ」


 快癒した娘が一人寂しく待つ間、ずっと研究室に篭り、過ごしていた。


「たいした効果の望めない花蜜を、それでも研究し続けていたのは……あなたのためだったのね」


 驚きの表情で固まるウォセの腕に両手を添えて、リリアンは語った。


「お父さんは、ずっと後悔していたのだと思う。私を見る度、犠牲にしたあなたを思い出して……きっと、あなたへの償いの方法を探していたんだわ」


   ◆


 リリアンはウォセを父の研究室に案内した。

 今はリリアンの仕事場となるこの部屋には、居間に置いている以上の薬や素材が所狭しと並べられ、部屋の隅には雑に積まれた本や書類が置かれている。

 月明かりが差し込む窓辺には小さな机と、椅子が一つ。


「……病に倒れても……死の間際まで、父は研究を続けていました」

「……はっ、だから許せって? そんな気分になれると思うか?」


 娘の言葉を邪険に跳ね除けておきながら、男はまるで在りし日の痕跡を探すように視線を巡らせ、その場に立っている。

 まるで懐かしんでいるみたいだと、リリアンは感じていた。


「父の代わりに、私が研究を引き継ぎます。月夜の度に菓子を作ります。そうすればあなたは自我を保てる。今までよりはまともな生活ができますよね。そしていつか、呪いが解けるかもしれない」

「……でも俺は、君の父親を怨んでいるし、許すことなんて……」


 自我を保てたとしても、呪いはウォセの体を蝕んだまま。これが解けない限り本当の自由は得られないし、ラッセルに受けたしうちは、呪いが解けたところでなくならない。

 苦悩するウォセの手を取り、リリアンは言葉を続けた。


「私も同じよ。でも……怨みながらでも、一緒にいることはできる」


 本当の願いを理解してくれなかった父親。けれど命懸けでリリアンを愛してくれていた。犠牲を払ってでも救ってくれた。それもまた、愛の形ではあったのだ。


「もしよければここに……私と一緒にいてくれませんか? あなたの苦しみを分かち合います。そして私は、もうひとりぼっちじゃなくなるの……」


 一緒に父を思い出し、語ってくれる人と生きていける。

 娘の言葉に膝をつき、狼の体で一粒だけ滴を落としたウォセ。花蜜の甘い香りが漂う部屋で、月明かりに照らされた銀狼が、最後に小さく動いた。

三題噺 花・菓子・狼 で書きました。

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