幻の古代王国~邪馬台国はどこ?
『魏志・倭人伝』に親魏倭王"卑弥呼"が君臨をし倭國の邪馬台国の女王となっている。
弥生時代(2~3世紀)の日本列島各地は國王である為政者たちが約30の倭国(都道府県・地方分権)に分かれていた。
『三国志』は「邪馬壹国」『後漢書』は「邪馬臺国」
「邪馬台国」通称「邪馬臺国」の"臺"の字を"台"をもった説もある(耶馬台国とも)
無土器時代や縄文時代より文化は発達をし弥生時代の2~3世紀は"倭国"と推定される國・地域を最高統制者・女王が治めていたらしい。
『魏志倭人伝』には邪馬台国を別名"女王国"とも記す。
弥生時代は1世紀中頃から2世紀初頭?に近隣諸国で70~80年にわたり騒乱があった
(倭国大乱の時期は2世紀後半)
日本に数多ある國のひとつ『邪馬台国』は豪族たる國王(領主)が治めていた。
邪馬台国も騒乱の渦となり國王らが倭國統一を狙う攻防を繰り返す。国王君臨すれど収集つかず。
國が乱れ群雄割拠だった。
國が治まりをみせるのは卑弥呼という女を王に共立してからであった。弟が卑弥呼を補佐し国を治める連立政権から治安がよくなっていく。倭國の統治に成功とならば女王・卑弥呼は魏に使節を派遣し"親魏倭王の封号"を得る。
魏の国王に倭國君臨統治を認められるということは"倭國の真の統治者の称号"を得るに等しい。
248年頃"狗奴国"と邪馬台国の戦いの最中に高齢の卑弥呼は死去してしまう。
卑弥呼は175~248の人生。
(男の)國王が後継に立てられたが混乱を抑えることができず。
「壹與」(壱与)「臺與」(台与)が女王になることで収まった。
『邪馬台国』と『ヤマト王権』(大和朝廷)の関係ははっきりしない。
一般的な読みは「やまたいこく」だが読みについても諸説がある。
「魏志倭人伝」中の"邪馬台国"は論争の的であり統一性が見られない。
「魏書」『東夷伝』倭人の条(魏志倭人伝)の概要そのものが論点。
邪馬壹国までの海や陸地の道程と日程。
『魏志倭人伝』に魏の領土から邪馬壹国に至る道程が記されている。
倭人は帯方郡の南東の『大海中の島々』(日本列島)にそれぞれ国邑を作っている。
旧くは列島に百余国があり漢の時代に朝見する者が有った。交流がある国は30ヶ国ある。
朝鮮半島の帯方郡より倭国に至るのは船で朝鮮半島を経て7,000余里。倭国の北岸の"狗邪韓国"に着く。
海を1,000余里渡り対海国に着く。
瀚海と呼ばれる海を南に1,000余里渡ると一大国に至る。
また海を1,000余里渡ると末廬国に至る。
東南へ500里陸行すると伊都国に到着。
東南へ100里進むと奴国に至る。
東へ100里行くと不弥国に至る。
南へ水行20日で投馬国に至る。
南へ水行10日、陸行1月
女王の都のある邪馬壹国に至る。
帯方郡から女王国までは1万2,000余里ある。
女王国より東に海を1,000余里渡るとまた国があり、それらも倭と同じ人種である。
位置や道程の比定をめぐって論争が起きてきた。位置については畿内説と九州説がある。
道程は「連続説」と「放射説」がある。
邪馬壹国の政治
邪馬壹国には元々は男王が置かれていたが国家成立から70~80年を経たら漢の霊帝の光和年間に政情不安が起き戦乱の後、女子を共立し王とした。女王が卑弥呼である。
この戦乱は中国の史書に『倭国大乱』とある。
女王は鬼道にて人心を掌握した。既に高齢で夫は持たず弟が国の支配を補佐した。
卑弥呼は1,000人の侍女に囲われ宮室や楼観で起居し巡らされた城や柵など多数の兵士に守られていた。
王位に就いてからは厳格に神格化をし庶民に姿を見せなくなる。
一人の男子が飲食の世話や取次ぎをしていた。
卑弥呼に関する『魏志倭人伝』では卑弥呼は呪術を司る巫女。
邪馬壹国は原始的な呪術国家とする見方がある。
一方で、弟が政治を補佐したという記述から、巫女の卑弥呼が神事を司り、実際の統治は男子が行う二元政治とする見方もある。
邪馬壹国の人口は7万余戸。
長官は伊支馬
次官に弥馬升
その次に弥馬獲支
次に奴佳碑。
対海国
一大国
末廬国
伊都国
奴国
不彌国
投馬国
「魏志倭人伝」に詳しい記述がある。
斯馬国、百支国、伊邪国、
都支国、彌奴国、不呼国、
姐奴国、對蘇国、蘇奴国、
呼邑国、爲吾国、鬼奴国、
邪馬国、躬臣国、巴利国、
支惟国、華奴蘇奴国、
烏奴国、好古都国
鬼国、奴国。
邪馬壹国はこれらの統制権を所有し支配していた。
現存の日本列島全てを支配した訳はなく領域外の国々もあり敵対的関係であった。
特に男王卑弥弓呼が治める南の"狗奴国"とは不和で常に戦争状態にあった。
邪馬台国の北方の諸国には一大率という官が置かれ諸国を監視していた。
一大率の役所は伊都国にあり魏の刺史のような役目を果たしていた。
『伊都国』は外交の中心地で魏や韓の国々の使節や通訳はここに停泊し文書や贈物の点検を受け女王に送っていた。
租税や賦役の徴収が行われこれらを収める倉がつくられていた。
市場が各地に開かれ大倭官が監督していた。
女王は景初2年(239年)以降は帯方郡を通じ数度にわたり魏に使者を送り皇帝から"親魏倭王"に任じられた。
正始8年(248年)狗奴国との紛争に際し帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。
『魏志倭人伝』によれば朝鮮半島の国々と使者が行き来していた。
248年卑弥呼の死去は大きな墳墓がつくられ100人が殉葬された。
男王擁立で人々はこれに服さず。内乱となり1,000人が死んだ。
そのために卑弥呼の親族で13歳の少女だった壹與(臺與)が王に。
先に倭国に派遣された張政は檄文をもって壹與を諭して壹與もまた魏に使者を送っている。
魏・晋との外交
「魏志倭人伝」には帯方郡を通じた邪馬壹国と魏との交渉が記録されている。
景初2年(238年)または同3年(239年)の6月、女王は大夫の難升米と次使の都市牛利を帯方郡に派遣し天子に拝謁を願い出た。
帯方太守の劉夏は彼らを都に送り、使者は男の生口(奴隷)4人と女の生口6人、班布2匹2丈を献じた。
悦んだ魏の皇帝(景初2年だとすると明帝?景初3年だとすると曹芳?)は女王を親魏倭王とした。
金印紫綬。銅鏡100枚と下賜品を論功として与えた。
難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉とした。
8月23日帯方郡と楽浪郡を支配していた公孫淵が司馬懿により斬首される。
帯方郡と楽浪郡が魏に占領
正始元年(240年)帯方太守弓遵は建中校尉梯儁らに詔書と印綬を持たせて倭国へ派遣し倭王の位を仮授するとともに下賜品を与えた。
正始4年(244年)女王は再び魏に使者として大夫伊聲耆、掖邪狗らを送り生口と布を献上する。
皇帝(斉王)は掖邪狗らを率善中郎将とした。
正始6年(246年)皇帝(斉王)は帯方郡を通じ難升米に黄幢(黄色い旗さし)を下賜した。
正始8年(248年)女王は太守王頎に載斯烏越を使者として派遣し狗奴国との戦いについて報告をする。
太守は塞曹掾史張政らを倭国に派遣した。
女王に就いた壹与は、帰任する張政に掖邪狗ら20人を同行させ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5,000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。
『日本書紀』の「神功紀」に引用される『晋書』起居註に泰始2年(266年)に倭の女王の使者が朝貢したとの記述がある。
魏志の魏書三少帝紀によれば同じ年に東夷が朝貢して禅譲革命の準備がなされたという記事がある。
この女王は壹與で、魏に代って成立した晋の皇帝(武帝)に朝貢したと考えられている。
『魏志倭人伝』に当時の倭人の風俗も記述されている。
男子はみな顔や体に入墨を施す。人々は朱や丹を体に塗っている。
冠をつけず髪を結って髷をつくる。女子はざんばら髪で素っ気ない。
着物は幅広い布を結び合わせである。
兵器は矛、盾、木弓を用いる。
土地は温暖そのもの。
冬夏も生野菜を食べている。
人が死ぬと10日あまり哭泣をし喪につき肉を食さない。
他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める。
倭の者が船で海を渡る際には持衰が選ばれる。
持衰は人と接さず、虱を取らず、服は汚れ放題で肉は食べず。
船の帰りを待つ。船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。
船に災難があれば殺される。
特別なことをする時は骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う。
長命な土地柄らしくて80歳や90歳の者がいる。
100歳もいる。
女は慎み深く嫉妬しない。
盗みなく訴訟も少ない。
法を犯した場合、軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする。
宗族に尊卑の序列があり上のもののいいつけはよく守られる。
邪馬壹国のその後
3世紀半ばの壹與の朝貢を最後に義熙9年(413年)の倭王讃による朝貢(倭の五王)まで150年近く、中国の史書から倭国に関する記録はなくなる。
このため日本の歴史で4世紀は「空白の世紀」と呼ばれた。
『邪馬壹国』
と後の
『ヤマト王権』
関係は諸説あり
" 邪馬台国に関する論争"
邪馬台国があったとされる根拠は『魏志倭人伝』に残されているほか、これ以外の中国の史書にも記載がある。
史料によって漢字の表記方法にぶれがある上、その書物が記された時代の音読として「やまたいこく」が正確かどうかも統一的な理解はない。
日本国の正史である『古事記』や『日本書紀』から邪馬台国や卑弥呼の実像を明確にするには記述が不十分である。
その場所や大和朝廷との関係について長期的な論争が続いている。
この論争は江戸時代後期、新井白石が「古史通或問」において大和国(奈良)説を説き「外国之事調書」(筑後国山門郡)説を説いた。
国学者の本居宣長は辛辣で
「日本の皇室が中国に朝貢するなどありえない」
「馭戎概言」において大和国とは別の筑紫(九州)にあった豪族小国。
"卑弥呼は神功皇后の名を騙った熊襲の女酋長"と説いた。
これ以来、学界はもちろん在野研究者を巻き込んだ論争が続いている。
三角縁神獣鏡を卑弥呼が魏皇帝から賜った100枚の鏡であるとする説
既に見つかったものだけでも400枚以上になり枚数が超過している。
中国社会科学院考古学研究所長の王仲殊が言うには
「それらは漢鏡ではない」と発表した。
九州説から「三角縁神獣鏡は全て偽作でありナンセンス」と反論を受けた。
邪馬台国長官の伊支馬(いきま?)と垂仁天皇の名「いくめ」の近似性を指摘する説 -
大和朝廷の史書である『記紀』に卑弥呼の遣使のことなど具体的に書かれていない。
田道間守の常世への旅の伝説を、遣使にあてる説もある。
九州説には畿内説の纏向遺跡のような有力な具体的候補地はない。
福岡県の大宰府天満宮
大分県の宇佐神宮
宮崎県西都原古墳群
九州各地にそれぞれ近辺を都とする諸説が乱立している。
帯方郡から女王國までの12,000里のうち、福岡県内に比定される伊都国で既に10,500里使い残り1,500里で『邪馬台国』は九州を出ない。
『邪馬台国』と対立した狗奴国を熊本(球磨)の勢力と比定すれば狗奴国の官「狗古知卑狗」が「菊池彦」の音訳と考えられる。
『魏志倭人伝』中で邪馬台国の埋葬方法を記述した『有棺無槨』を甕棺と見なす見解を見たら北九州地方に甕棺が多数出土している。
九州にあった『邪馬台国』はその後に畿内勢力に征服されたという説。
逆に東遷して畿内を制圧したとの両説がある。
一部の九州説では、倭の五王の遣使なども九州勢力が独自に行ったもので、畿内王権のあずかり知らないことであるとするものがある。
九州説の弱点
奴国2万余戸
投馬国5万余戸
邪馬台国7万余戸
更に狗奴国といった規模の集落が九州内に記述通りの順番に収まるとは考えにくい。
中国地方や近畿地方に九州をはるかに上回る古墳や集落が存在している。
古墳築造の開始時期を、4世紀以降とする旧説に拠っているが、年輪年代学、放射性炭素年代測定などの結果からは3世紀に遡ることがほぼ明らかになっている。
魏から女王たちに贈られた品々や位が、西の大月氏国に匹敵する最恵国への待遇であり、小領主へ贈られたものとは考えにくい。
3世紀の紀年鏡をいかに考えるべきかという点。薮田嘉一郎や森浩一は古墳時代は4世紀から始まるとする当時の一般論を尊重する。
三角縁神獣鏡は古墳ばかりから出土。
邪馬台国の時代である弥生時代の墳墓からは1枚も出土しない。
三角縁神獣鏡は邪馬台国の時代のものではない。
後のヤマト王権が邪馬台国との関係を顕示するために偽作したものとする見解を表明した。
その後の九州論者はほとんどこのような説明に追随している。
しかし、このような説には以下のような点が問題として挙げられる。
現在の知見からは邪馬台国時代にすでに古墳築造が始まっていると見るべきであり、偽作と考えるべき前提が成り立たない。
紀年鏡には三角縁神獣鏡以外のものも含まれる。
魏の年号である
「青龍3年」
呉の年号である
「赤烏元年」
「赤烏7年」
紀年鏡も見つかっており、単に邪馬台国にちなんだ偽作というのでは説明がつかないなどの疑問があり、学界では受け入れるところとなっていない。
また三角縁神獣鏡を、呉の鏡または呉の工人の作であり、呉の地が西晋に征服された280年以降のものとする説もあるが、様式論からはかならずしも呉の作であるといいきれるものでない。少なくとも銘文にある徐州を呉の領域であるなどとはいえない。これらを280年以降の製造と考えると、紀年鏡に記される年号が何ゆえに三国時代の235年から244年に集中しているのか、整合的な理解が難しい。これらから学界の大多数を説得できていない。
九州説論者の見解で「卑弥呼の鏡」は後漢鏡であるとする。
弥生時代の北九州遺跡から集中して出土する後漢鏡は中国での文字資料を伴う発掘状況により、主として1世紀に編年される。
卑弥呼の時代には届かないのも難点のひとつである。
2世紀のものは量も少ない上、畿内でもかなり出土しており、北九州の優位性は伺えない。
一般的に弥生時代の遺跡では、2世紀にはいると北九州の優位性は失われるため、多くの考古学者が九州説に与し得ない理由の一つとなっている。
旅程記事について、通常の連続読みでは九州内に収まりきらないので、放射線式の読み方に従うにしても、次のような難点がある。
放射線式読み方が正当化されるには、「到」「至」の使い分けがされているときは、そのように読むべきである当時の中国語の決まりがなければならない。
魏志倭人伝の内容をほぼ引き写している梁書では、そのような使い分けはされておらず、使い分けに特別な意味があったとは思えない。
仮に放射線式の読み方を受け入れると、邪馬台国は伊都国の南水行十日陸行一月の行程にある。
これを九州を大回りして水行し南下する意味に捉えたとしても、邪馬台国の位置は中南部九州内陸に求めることとなり、後の熊襲の地に邪馬台国があることになる。
そしてさらにその南に狗奴国が存在することになる。したがって比較的支持者の多い北九州内には到底収めることはできない。
九州説の根拠とされていたが、今は重要視されていないものは以下のものである。
近畿地方から東海地方にかけて広まっていた、銅鐸による祭祀を行っていた銅鐸文明を「魏志倭人伝」に記載された道具。
『日本書紀』にも著される矛(剣)、鏡、勾玉の、いわゆる三種の神器を祭祀に用いる「銅矛文明」が滅ぼしたとされる説。
発掘される遺跡の増加に伴い「銅鐸文化圏」の地域で銅矛や銅剣が、吉野ヶ里遺跡のような「銅矛文化圏」内で銅鐸や銅鐸の鋳型が出土するといったことが増えたことから、今では否定的に見られている。
「倭人伝」の記載は祭祀について触れられたものではない。
6世紀以前は3種でなく多種多様な祭器が土地それぞれで使用されていたことも九州説では重要視されない理由として挙げられる。
他には吉備、出雲、四国、尾張、千葉県、甲信越、岩手県など。
日本各地を邪馬台国の候補地とする説。
畿内と九州の二ケ所に都があった説。
他に琉球説、ジャワ説などもある。
『魏志』の記述を元に候補地を探す諸説に対し、そもそも記述に作為があるため、それをもとに邪馬台国の位置を探るのはナンセンスである」という指摘もある。
それぞれの説の比定地は、「邪馬台国比定地一覧」にまとめられている。
^郡とは景初2年(238年)の8月23日に公孫淵が殺されて以降に魏が占拠した朝鮮西海岸の帯方郡とは限らない。
楽浪郡あるいは、景初2年当時、魏の勢力下の朝鮮東海岸の楽浪東部都尉があった玄菟郡故府の可能性もある。
^ 卑弥呼の「鬼道」は幾つかの解釈がある。
卑弥呼はシャーマンであり男子の政治を卑弥呼が霊媒者として助ける形態とする説(井上光貞『日本の歴史』〈1〉 中公文庫 2005年等)。
『魏志』張魯伝、『蜀志』劉焉伝に五斗米道の張魯と「鬼道」についての記述があり、卑弥呼の鬼道も道教と関係があるとする説(重松明久『邪馬台国の研究』 白陵社 1969年等)。慎重さを求める意見もある(佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下 吉川弘文館 2000年)。
卑弥呼の鬼道は後漢時代の初期道教と関係があるとする説(黒岩重吾『鬼道の女王 卑弥呼』 文藝春秋 1999年等)
道教説を否定し、鬼道は道教ではなく「邪術」であるとする説(謝銘仁『邪馬台国 中国人はこう読む』 徳間書店 1990年)。
「鬼道」についてシャーマニズム的な呪術という解釈以外に、当時の中国の文献では儒教にそぐわない体制を「鬼道」と表現している用法。
呪術ではなく、単に儒教的価値観にそぐわない政治体制であることを意味するという解釈がある。^推古天皇と聖徳太子の関係が例として挙げられる。
^ 先に詳細が記されている奴国と同一とする説がある
^ 大きな行政単位の州の巡察長官。
^ この景初2年6月には帯方郡は遼東の公孫淵支配下で遣使は困難であるとして、『梁書』と『日本書紀』引用に従い、翌年の景初3年の誤りであろうとする説がある。
卑弥呼の遣使2人で朝貢物が奴婢10人布2匹2丈とかつての奴国の貢物奴婢160人と比べても粗末なものであったのに、魏が邪馬壹国を厚遇しているのは、公孫氏政権からいち早く魏に乗り換えた事の功績が認められたという観点。公孫氏政権滅亡直前の景初2年の遣使が正確であるという説(古田武彦『『邪馬台国』はなかった』 角川文庫 1977年)
魏志は倭人伝の前の東夷伝前半で、魏の母丘険の軍隊が沿海州から朝鮮半島の日本海側の玄菟郡故府方面に遠征を語る。
その記事の延長線上に倭人伝が書かれているため、朝鮮の西側の帯方郡と逆の東海岸に遣使した可能性がある。
この場合に遣使困難とは言えない。
^ 『三国志』魏志東夷伝序文
^ 日本書紀の卷第九の神功皇后の記述に、魏志倭人伝の引用。『神功皇后=卑弥呼』と同一人物と見なしている。
だが神功皇后=卑弥呼説は那珂道世に否定された。
市村其三郎は『卑弥呼は神功皇后である』(新人物往来社1972年)
^ 現存する版本は全て宋 (王朝)以後のものである。
^ 『三国志』は「臺獄」や死体積み塚を「臺」としている例がある。これを否定する説もある。
^ 古代中国語音の研究が進んだことにより、邪馬臺は「jamatö」に近い発音となる。
^ 東遷説は邪馬台国が機内に移動しヤマト王権になったとする。
^ 久米雅雄は「二王朝並立論」。
「自郡至女王国萬二千餘里」の女王国
「南至投馬国水行二十日」を経て「南至邪馬台国水行十日」すなわち「海路三十日」の邪馬台国とは別の「相異なる二国」であり筑紫女王国が「倭国大乱」を通じて畿内に都した新王都が邪馬台国であるとする(「新邪馬台国論―女王の鬼道と征服戦争―」
『歴史における政治と民衆』1986年
「親魏倭王印とその歴史的背景」
『日本印章史の研究』雄山閣)2004年
^ 石野 博信『大和・纒向遺跡』
邪馬台国の候補地・纒向遺跡 (「遺跡を学ぶ」)
田原本町教育委員会『唐古・鍵遺跡の考古学』
^ 毎日新聞連載「深読み日本史 邪馬台国」邪馬台国論争・畿内説と九州説の邪馬台国時代の列島事情
九州説では調査の精度に疑問を呈し、銘入りの鏡を後世の偽作と見ている。
^ 九州説は、書紀の編纂をした大和朝廷が参照した中国の史書(魏書、後漢書など)にある古代国家の記述を書紀に組み入れたにすぎないとする。
^『邪馬台国』が北九州を勢力下においたら絹や鉄の記述があるのは不思議ではない。
^ 当時の畿内住民が南方系の習俗を持っていたかどうかは不明。
^ これに対し北九州の国々の行程を表記するにあたって60度ほど南にずれているからもともと正確ではない
倭国が会稽東冶の東海上に南に伸びて存在するという誤った地理観に影響されたものである混一疆理歴代国都之図の影響下にある地図には、日本を右回りに傾かせて描かれたものがある
"方角の正しい"地図は、現代において九州説が創作された時代以降のものしか確認されていない。
方角の正しい地図の創作が九州説創作の切っ掛けとなったという説もなされている。
混一疆理歴代国都之図は、15世紀に原図を作った朝鮮人が「行基図」を誤って右回りにはめ込んだ。
古くからの地理観とはいえないと主張する。
他に15世紀以前に日本を右回りに回転させたと証明できる地図が存在するわけでもない。
『隋書』では正しい地理観に基づいて行程を記述しているので、根拠とはしがたいという反論がある。
^ ただし九州説の側も「全てが偽作」であることの論証を明確にしているとは言い難い。
オリジナルのものが伝来した可能性自体を排除できてない。
畿内説は多くの鏡の年号が235年から244年の範囲内に納まる。
にも関わらず『邪馬台国』と畿内は無関係であるとするのは逆に無理と再反論している。
^ 佐賀県唐津市に比定される末盧國から伊都國まで500里の距離の3倍。
^ 三宅米吉は、12,000里は里程のわかっている不弥国までの距離であるとし、山田孝雄は、これは一部不明のところのある現実の距離をあわせたものではない。
単に狗邪韓国までの7,000里と倭地の周旋5,000里を合算したものに過ぎないとする。
九州王朝説を唱えた古田武彦は、「正確を期するため同じ行程を距離と掛かる日数とで二重に標記している」とする読み方を提唱している。
^ 畿内説では狗奴国を毛野または桑名や加納などの東海地方の勢力と考えるにしても、官名に対し特別な解釈を与えないようである。
畿内説の内藤湖南は、かれが邪馬台国の時代に近いと考える景行天皇の時代に、朝廷と熊襲が激しく衝突した。
狗奴国を熊襲、「狗古知卑狗」を菊池彦に当てている。
そうすると方角が正しいことになるが、彼は、狗奴国に関する記述は旅程記事とは別系統に属するから、問題はないという。
『魏略』には「拘右智卑狗」とあるが、古代の日本語は語中に母音が来ることはないから、これは誤字と見てよい。
吉備説・出雲説・東四国説では狗奴国を河内の勢力と見ている。
^ 当時の北九州以外の一般的埋葬方法は良く分かっていない。
^ 後者の東遷説は神武東征をその事実の反映と見る立場が多いが、『隋書』の記述がすでに現存する記紀神話とは相当異なっている可能性がある。
神話を根拠とすることは受け入れがたいとする意見もある。
^ 江戸時代後期の国学者による「偽僣説」(九州勢力が朝廷を僭称説)
本居宣長『馭戎概言』
鶴峯戊申『襲国偽僣考』、近藤芳樹『征韓起源』など。)
現代では古田武彦などによる九州王朝説がある(日本列島を代表する王朝は一貫して九州にあり、白村江の戦い以降、衰亡したとする説。一部を除いて学術論文説ではなく学会では議論の対象とされていない)
^ 九州説では呉に圧力をかけるための厚遇であったとする。
古田武彦は、公孫氏政権からいちはやく魏に乗り換えた功績に対する厚遇であるとする。
^『邪馬台国』まで12,000里という距離は魏が金印を贈った国として知られる大月氏のそれと等しい。
『邪馬台国』を大月氏に匹敵する国である位置づける意図があったとする(岡田英弘の説)
卑弥呼=倭迹迹日百襲姫命
大物主神の妻となった姫ぎみ。
妻になれども其の夫の神は常に昼は見えず夜のみ来す。
倭迹迹姫命が語りて曰く
「君にて常に昼は見えず、夜のみ来す。分明に其の尊顔を視ること得ず。願わくば暫留まりたまへ。明旦に、仰ぎて美麗しき威儀を勤たてまつらむと欲ふ」
主人の大神は対へて曰はく
「言理灼然なり、吾明旦に汝が櫛笥に入りて居らむ。願はくば吾が形にな驚きましそ」
倭迹迹姫命は心で密かに怪しんだ。
明くる朝を待って櫛笥を見れば、まことに美麗な小蛇がいた。
その長さ太さは衣紐それに驚いて叫んだ。
真の身を見せた大神は恥じた。人の形とて、其の妻に謂りて曰はく
「汝、忍びずして吾に羞せつ」
恥のため大空をかけ、御諸山に登り消えてしまう。
倭迹迹姫命は高みを仰ぎ見、悔いてしまう。
箸に陰を憧き薨りましぬ。
大市に葬りまつる。
故に、時人、其の墓を号けて、『箸墓』と謂ふ。
卑弥呼は倭迹迹姫命なのだろうか