え? 殿下、私たち別れたはずですよね……?
王宮の一室にて。
「ミランダ。君との婚約は破棄させてもらう。代わりに僕はビアンカと婚約することにした」
婚約者であるジョヴァンニ王子は、私の妹であるビアンカの手を取って彼女に笑みを向けた。
ビアンカも彼を見つめ返して、はしゃぐような笑顔を浮かべている。
「そうですか。承知いたしました。では、どうぞお幸せに。しかしそれに差し当たって、こちらに一筆願えますか?」
私は鞄から紙とペンをさっと取り出した。
破棄の理由は私が婚約者として求める条件に満たなかったから、反対にこちらが承諾するための諸条件、そして彼から婚約破棄を申し出たと記載して、日付入りの署名を求めた。
思いがけない私の申し出に、ジョヴァンニは顔を歪めている。
「なっ……なんだよそれ。別にそこまでしなくたって」
「いいえ。毎回おっしゃるではありませんか。殿下は本気で婚約破棄すると。ですから、その証明としてこちらにサインをお願いいたします。それと、こちらにも書いておりますが、今までいただいたものはお返ししなくてよろしいですよね?」
私がそう言って彼にペンを差し出すと、彼は私のことを一瞬睨みつけるように見た。
「ふん、今度はそういうパターンできたのか。わかった。いいだろう。どうせいつものように明日には『ジョヴァンニ様、私を捨てないで下さい!』って泣きついてくるんだろうしね。今度はどんな風に泣くのかな」
彼は苛立っている表情から笑顔に戻し、私が渡した紙にサインをした。
「こんな紙に書かせたんだ。そうだなぁ、これは僕の親切で教えてあげるけど、向こう2年は君からヨリを戻したいと言っても、僕は応えるつもりはないからね。だから2年経過してから、撤回してくださいって縋るんだよ? 果たして我慢できるかな? 強がる君が明日以降どんな顔をしているのか楽しみだ」
彼は口角の両端をきゅっとあげて、2年間はどんなことをしようかな、などと言っている。
でも私にとっては最早、彼が何しようと全く興味が無かった。
「そうですか。今まで、どうもありがとうございました。それではごきげんよう」
私はくるりと彼らに向って背を向けると、涙をながす……のではなく、わざとらしく大きくため息を吐きながら、彼とビアンカを残してその部屋を去っていった。
それから次に寄ったのは、至急の要件があると無理やり会わせてもらった国王陛下の元だった。
「なんだミランダ。急に会いたいとは何か大事件でもあったのかね?」
「はい。畏れながら。ジョヴァンニ殿下は私と正式に婚約を解消すると告げたのです……! ですから、それを陛下にもお伝えに参りました」
私はジョヴァンニが妹のビアンカを気に入っていると言ったので、今回ばかりは身を引く覚悟をしている。
二人の事を祝福したいのと、気持ちにけりをつけるために、先ほどのジョヴァンニのサインを本物だと認めていただき、婚約解消の決定的な証拠として残したいと、しおらしく願い出た。
「ふぅむ。妹であればそちらと縁が切れることはないので、問題ないと言えば問題ないが……本当にいいのかね? またいつものあれでは?」
「いいえ。これだけ何度も婚約破棄をしたがると言う事は、やはり私は婚約者として不適格なんだと思います。妹は以前より殿下のことが気になっていたようですし、私も正直疲れ果てているのです……ですから妹に今後は託したく」
私は両手で顔を押さえながら、悲しげにそう言った。
「そうか残念だ。私が何度言ってもあいつは話を聞かぬ。きっとこの先、後悔するだろう。あいつもそなたを本当に失ったのだと、痛い目を見た方がいいと私は思う。むしろ、そなたはここまでよく頑張ってくれた」
陛下はため息をついた。だが、やむなしと判断したのだろう。
家臣を呼んで、先ほどのサインを正式なものだと認めるように手配をした。
それに対して───
陛下には申し訳ないけど、うまくやれた!
私は悲しい顔をしながらも、心の中では笑い声を上げていた。
その正式な書類を手にして馬車に乗り込み、私は御者にある目的に行くよう告げた。
そして椅子に座った途端、頭の中で回想していた。
友人のマリアが言った言葉。
『あんな人をずっと好きでいて、この先幸せだと思うの?』
実は、ジョヴァンニの婚約破棄宣言はこれに始まったことではない。
両家の取り決めで私は幼い頃からジョヴァンニと婚約をしており、美形の彼は楽しくて憧れのお兄様であり、私にとって初恋の人でもあった。
だが、私も成長して社交の場に出入りするようになる。
さまざまな人と知り合う中で、今まで素直に意見を聞いていたジョヴァンニとも、10代前半になれば考えが合わない事も出始めた。
思春期特有の生意気さも原因だったのだろうが、ある日、私とジョヴァンニは軽い口論をしてしまい、彼からそれなら婚約破棄だ! と言われてしまったのだ。
「婚約……破棄ですって?!」
初めてそう言われた時、私はショックで大泣きをして、ごめんなさいと、ごめんなさいと、すぐに彼に何度も謝った。
それまで私は、将来はジョヴァンニの妻だと言われて育てられてきたため、それ以外の未来が全くわからなかったのだ。
突然、真っ暗な穴倉に突き落とされたような衝撃だったのだ。私にとって。
しかし、これが良くなかったのだろう。
彼は私の反応を面白いと思ったのか、たびたび”婚約破棄ごっこ”をするようになったのだ。
さらに私は、洗脳されていると言えるほど彼のことが本気で好きだったので、本当に彼に捨てられてしまうのではないかという恐怖から、その度に彼に泣いて縋った。
ちなみに今回はこれで十回目である。
前回は昨年の話だ。
彼は私にいきなり婚約破棄を告げると、私が泣こうが縋ろうが、嫌なものは嫌だと復縁を願う私を突っぱねたのだ。
その時の私は、今回こそは本気なのかもしれないと、絶望の渦中であるといつものように友人を家に呼び出して、もうどうしたらいいかわからないと、ティーセットが用意された庭先で泣き崩れていた。
私の前にはマリアが座っている。というよりも、マリアしか来てくれなかったと言う方が正しかった。
彼女は眉を寄せて悲しそうな顔をするどころか、腕を組んで厳しい表情を私に向けている。
そして一通り私の話を聞いたあと、彼女はこう言った。
「あのね。毎回、毎回、あなたも言っていることは同じじゃない。いい加減にしなさいよ。まるで狼少年ではなく、狼少女みたいだわ」
うんざりしていると言う代わりに出た、続く彼女の大きなため息。
「この際だから正直に言うけど、みんなあなたと彼には呆れてるのよ。真面目にアドバイスして戻ったと思ったら、振られたって泣いて。どうせ今回も大騒ぎしたあと、結局モトサヤになるんでしょう」
だから、またかと思ってみんな来なかったの。真剣にアドバイスする甲斐がないから、と彼女は教えてくれた。
「だって! 私からしたら、彼から振られたら世界が終わってしまうようなものなのよ!? そんなこと言わないでよ!」
「そう。それなら、ずいぶんとつまらない世界だこと。しかも話を聞く限り、毎回理不尽なことであなたが振られるのでしょう? それでまた戻ったとしても、いよいよ結婚したらどうなるの? 今度は離婚ごっこでも始めるのかしら?」
鼻で笑うマリアからの鋭い言葉に、私は絶句した。
「確かに両家の取り決めだから、あなたには拒否権がないかもしれない。でもね、私はあなたの一友人として、他のみんなも、あなたを毎回試す彼に怒ってる。いっそのこと、自分には彼の婚約者として資質がないと思うから辞退するって、あなたから婚約破棄を素直に飲んだらいいんじゃない?」
そして先ほどの、あんな人をずっと好きでいて、この先幸せだと思うの? と彼女は私に問うたのだ。
私は彼女の問いに答えられず、その場ではむしろその時は彼女に怒りを感じて、唇をかみしめるだけだった。
すると、その険悪な空気を破るように、執事がマリアの婚約者であり、ジョヴァンニの従兄弟であるニコラ様を連れてきた。
「あ! ニコラ。来てくれたのね。それじゃあ、私はこのあと彼とお芝居を見に行くから。別にあの王子様とヨリを戻すのは勝手だけど、また振られて、助けて! って呼んでも私はもう来ないわよ。それじゃあね」
そう言ってマリアは、庭にやって来た彼女の婚約者であるニコラ様に腕を絡ませて、嬉しそうな笑顔をしながら去っていった。
ニコラ様はジョヴァンニより少し年下くらいだったか。
マリアは彼の包容力と、穏やかさと、思慮深い所に惚れていると言っていた。
その後。
結局、ジョヴァンニから音沙汰がなかったため、私は本当に今回こそ、もう終わったのかと諦めかけていた。
けれどもどういう訳か、私がどん底まで落ちるタイミングで彼から連絡が来るのだ。
「やっぱり撤回するね! 今からデートしよう」
彼からいつもの通知をもらい、ようやく元に戻れる! と、まるでオヤツがもらえる犬のように、私は彼の元へと走っていった。
ただ───
マリアの言った言葉が、私に刺さらなかったわけではなかった。
私とジョヴァンニがヨリを戻して3か月後。
マリアとニコラ様が結婚式を挙げる事になった。
その結婚式で私はジョバンニと一緒に出席していたのだが、教会から出てきた幸せそうな彼女たちの笑顔を見ていると……
自分もジョヴァンニと結婚して、あんな幸せそうな笑顔ができるのか?
なぜか急に、そんな疑問が沸々と湧いて出てきたのだ。
青空のもと、さまざまな色を含んだ祝福の花弁が空中に舞う中、私はじっとジョヴァンニの方を見つめた。
そんな私のことなどつゆ知らず、ジョヴァンニは二人とも幸せそうで良かった! お幸せに! と無邪気に彼らに向って笑っている。
その瞬間、ジョヴァンニは私に向って振り向き、何か言っていたに違いない。
でも私の耳は彼の声をとらえることが出来なかった。
私は彼の事を見つめながら、心の中に大嵐が押し寄せたかのように、感情の変化が起こるのを感じ取っていた。
そう、例えるなら……
真夏の太陽に晒されて熱くなっていた地面が、夕立の雨で濡れて一気に冷え込むように、ジョヴァンニへの気持ちがすっと冷めていったのだ。
なぜ、私は少し前まで彼に苦しんでいたというのに、彼は無傷で笑っていられるのだろう。
なんだか……彼が少し気持ちが悪い。
少し丸みを帯びた顔の輪郭も、笑うと細くなる目も、これまでは”子供のように可愛らしい”と思っていたが、その瞬間は”子供がそのまま大人になったような不気味さ”を感じさせるものだった。
しかも、チャーミングポイントだと思っていたはずの、昔から笑うとそうなる目尻に浮かんだ細かな線が、より一層彼の気味悪さを増幅させた。
けれども、そう思ってしまったのも一時的な気持ちなのかもしれない。
私はこの変化が一体何なのか、いまいちよくわからないまま、日々を淡々と過ごしていたところ───
冒頭の婚約破棄が起こったのである。
私の心は、濡れて冷たくなった大地どころか、まるで真冬で雪が吹雪く中、裸で外に放り出されたかのように、一瞬にして冷え固まった。
それに対して、頭の中は自分をまるで外から見ているかのように妙に冷静だった。
あるいは、こんな思いが湧き出る前は信じたくないという気持ちから、都合よく記憶喪失になっていただけなのかもしれない。
心が冷え固まった瞬間、彼が前回の婚約破棄ごっこをしているとき、まだ20代前半の若い未亡人と仲良くしているという噂を耳にしていたことも急に蘇ってきたのだ。
彼は王太子だから取り巻きが多いせいもあるかもしれないが、常に人に囲まれ、整った顔立ちということもあり、舞踏会では女性たちが踊りたいといつも順番を待っている。チャンスはいつもそばにあった。
彼はあくまでもそれも”浮気ごっこ”だと言い張っていたが、私が泣いているのをよそに、彼は本当は浮気をしていたのではなかろうか?
よく考えれば、彼の周りの友人たちもしょっちゅう、女の子のお尻を追いかけまわしている連中ばかりではないか。
どうして、彼がその影響を受けないと言い切れるのだろう。
『一人の女に一生を捧げるなんて、恐ろしい事だと思わないか? どうせ、縋って来るんだから夫婦になる前に楽しんでおけよ。夫婦になったら、遊びたくても面倒だぞ』
すでに既婚者である友人たちから、そう言われていてもおかしくはない。
あくまでも私の妄想ではあるが、そう囁かれて鼻の下を伸ばしているジョヴァンニを想像した瞬間、私には一気に彼が人類の敵と言われる、あの黒い害虫のようにしか思えなくなった。
害虫なら追い払うか、成敗しなければなるまい。
そう言う訳で、私は以前真剣にアドバイスしてくれた友人の一人が言っていた、婚約破棄された時の冷静な対処法をジョヴァンニに対して自然と行っていた。
はあ、と大きくため息を吐いていると、馬の嘶きが聞こえた。
どうやら目的地に到着したらしい。
「ありがとう。では、こちらで少々待っていてくださいね」
今までの事を思い出しながら、私は御者に道で待機しているように伝えると、目的地である建物内へと入った。
ここはこの国で最も大きな道具屋だ。
さまざまな道具も売ってくれるが、不要なものは買い取ってくれる、とても便利な店だ。
私はカウンターの前で、薬指に嵌めていた忌々しい指輪をすっと外すと、換金してもらう手続きを取った。
外した指輪は私が16歳になった時に、彼から婚約の証明として貰ったものだ。
石には竜の瞳と呼ばれる希少性の高いものを使用している。換金すればそれなりの額になるだろう。
私だって、いつまでも害虫から貰ったものを身につけてはいなくない。
さて、臨時収入を得てから、お腹も空いたし何か食べようかな。キリフェボーヌのタルトなんていいかもしれない。
その様に思っていると……
「あの、すみません。大変申し上げにくいのですが」
私の換金の担当者によると、あまりに高額すぎるため、こちらに用意している金貨が足りないと言ってきたのである。
予想はしていたが……ああ、なんてことだろう。
一応、ジョヴァンニはこの国の王子、しかも王太子である。
私に渡された婚約指輪は、それ相応のものであったのだ。
その価値、庶民が一生に得る年収のおよそ100倍、300億イェーン。
私は思い切り、ご冗談でしょう、ケタが間違っているんじゃなくて?! と叫んだ。
だが担当者によると、元々希少価値が高い上に、最近、こちらの需要が伸びているのでこの買取価格なのだと説明された。
とはいえ、彼がこれほどまでに価値が高いものをくれたものの、今までの事を考えると、私への純粋な愛の大きさの証明ではないことは確実だ。
自分はこの国の王太子なのだから、これを贈ることができた!
おそらく、他の男性、特に国内の有名貴族や他国の王族に対して優越感を味わいたい、ただの見栄から贈ってきたのだろう。
なぜなら、彼はそれまでドレスもアクセサリーも他の貴族男性が女性へ贈るプレゼントと比べると大したものをくれなかったのだ。王太子なのに。
理由はひとつ。それらは婚約指輪と比べたらインパクトがないから。
そしてこの指輪をくれた時は、奮発した、高かった、お金が掛かったと、恩着せがましく連呼していた。
ロマンティックに受け取るはずの婚約指輪だというのに。
それはともかく。
私はお腹が空いている事に加えて、実は以前からやりたいこともあった。
そのためには多少の現金がいるので、担当者にこう伝えた。
「わかりました。ですけど、ある程度現金は必要ですので用意していただき、残りは指定の口座に送金していただくようにお願いできますか?」
そのように私が依頼すると、担当者はそれなら可能ですと言って、私に金貨が入った袋と送金のための証明書をくれた。
私はその場で踊りたくなる気持ちを抑えつつ、金貨の入った袋を手にした。
思った以上の臨時収入だ。これから本当にどうしようかと思いながら馬車に揺られていた。
このまま何か食べて家に帰るのも、正直言って癪だ。
帰ってきているのかはわからないが、ビアンカがいるのだから。
私と彼女はどういう訳か昔から仲が悪い。
それはもしかしたら、ビアンカがジョヴァンニを欲しがっていたのもあったのかもしれないが。
結局、何か食べる前に寄り道をしていくことにしようと、私は時折奉仕活動で訪れる孤児院を併設した、聖ニコラウス教会に立ち寄った。
古びているが手入れの行き届いた木の扉を開けると、しんと静まり返った石造りの空間が目の前に広がる。
アーチを描いた壁に、高い天井。神と聖人たちを描いたステンドグラス。
どうして人の手によって、このような神聖な空間が作ることができたのか。
人の手によらざるという言葉もあるが、まさしくこの空間も神からの啓示によって作られたのか。私はこの空気感を愛してやまない。
今は夕方のミサが始まる前であるせいか、若い男性が一人いるだけで誰の姿もなかった。
この後やってくる信者のためだろう。丁寧に木のベンチを乾拭きしている彼に向って私は声を掛けた。
「すみません、トーマス神父はどちらにいらっしゃいますか?」
私が彼に向って声を掛けると、彼は作業していた手を止め、こちらの方へ視線を向けた。
着古していると一目でわかる、くすんだ色のシャツに、茶色の草臥れたズボン。
肩まである長い髪、その毛の色自体はどこにでもいる灰色がかった金髪だが、艶めいている。
少し離れたところから見てもわかる、絹のように整った肌の滑らかさ。
さらに濃いまつ毛に縁どられた、驚くほど綺麗で澄んだグレーの瞳。大きすぎず、小さすぎないバランスの取れた鼻と唇。
見窄らしい服装が、却って彼の美しさを際立たせている。
それが彼に対する私の第一印象で、思わず私は息を呑んだ。
「あいにく神父なら、いま外出中です……あっ」
低く落ち着いた、品のある声。
彼がそう声を上げた瞬間、私が待っていたほっそりした体形のトーマス神父が中に入って来た。
「これはこれは、ミランダ嬢。どうなさいました? 奉仕活動の日程の確認ですか?」
彼はいつもの優しい笑顔をこちらに向けると、少々お待ちくださいと言ってどこかに行こうとした。
「いえ、ちがいます。実は今日は子供たちへのオヤツ代を持ってきました」
手に持っていた金貨の入った小袋を、私は軽く持ち上げて彼に見せた。
すると、神父はなぜか目を瞬かせた後、私を引っ張るようにして外へと連れ出した。
「あの、先ほど中にいた彼と話をしましたか?」
なぜそのようなことを聞くのだろう。
神父がそう問うてきたので、私は首をかしげつつも軽く一言、二言だけと返した。
「そうですか。実は……彼の身分は伯爵で、異国の王子なんだそうです」
「えっ? 王子? ……ですって?」
私は突然の神父の言葉に口をパチクリさせた。
どうりで彼は気高さというか、高貴さというか、優雅さと言うか、ともかくそう言ったものを隠し切れていないはずだ。
でも何故そのような身分の人が、教会のベンチを拭きあげているのだろうか。有り得なさすぎる。
「こちらにいらっしゃるのは、よほど特殊な事情があるのですね。よかったら教えていただけませんか?」
私は気になり神父にそう尋ねた。
神父によると、先ほど中にいた彼はレニエと言い、この国とは民間人同士の交流はあっても、王室同士はあまり関わりがないシャンベリー国の王子らしい。
二週間ほど前、別国での親善交流からの帰路で我が国を通過してる最中、彼は山で賊に襲われた。
機転を効かせた従者のおかげで、なんとか彼は逃げることが出来たものの、従者たちは全員殺され、荷物は王家のものだと証明するブレスレット以外、全て賊に盗られてしまったそうだ。
確かに襲われた場所があの山であれば、この土地に詳しいものであれば近道でも絶対に迂回するか、あるいは相当貧相な馬車で農民のフリをしながら移動をする。
何も知らない者たちが、四頭仕立ての立派な馬車を走らせていたら、それは狙ってくれと言っているようなものだ。
「こちらの国からは船がでていないため、国に帰る手段がないんだそうです。なんとか町まで逃げてきた彼に、国に帰るための費用を稼ぐため、こちらで住み込みで働かせてくれないかと請われたのです。ですから、あのように働いてもらっているのですが……」
神父が言おうとしていることはわかる。
教会は利益目的ではないため、ベンチを拭いたり、床掃除をする仕事は本来なら奉仕活動の一環で、賃金はでないのだ。
そのため、きっと彼は衣食住はどうにかなっても、得られるものは子供の駄賃と変わりないだろう。
それに、船賃とシャンベリー国への船が出ている隣国までの旅費を含めると、3、40万イェーンは確実にかかるはずだ。
救出依頼の手紙を本国に出すにしても、海を超えた異国宛の送料は今の彼にとっては高額なため、それを稼ぐにもそれなりの期間をここで過ごさなければならないはずだ。
また、もし彼が王子を名乗る詐欺師であれば、とうに人の良さそうな貴族や商人に狙いを定めて、自分は哀れな身なので気持ちばかり寄付をしてほしいと、お礼はぜひするからと金銭を要求していただろう。
あるいは自分を王子だと思い込んでいる狂人であるならば、道端で皆のものひれ伏せ! と大きく叫んでいたかもしれない。
けれども彼はそのようなことをせず、真面目に神のもとで働いて自分の力でどうにかしようとしている。
私は彼の王子としての高潔さに、心が締め付けられた。
「ミランダ嬢でしたら王家とつながりがありますでしょう。どうか、お取り次ぎいただけませんでしょうか」
困った顔をしながらトーマス神父は私にそう願ってきた。
やはり神父としても、彼が嘘をついているようには思えず、早く救済してあげたいとのことだった。
神父が私にそう願うのは当然か。
ここの奉仕活動をしに来ている貴族の中で、王族とコネをもつボランティアは私ぐらいなのだから。
けれども、私にはそれは賛成できなかった。
頼むこともできないが、そうなれば私はレニエ王子がジョヴァンニに借りを作る手助けをしてしまうことになる。
ジョヴァンニならきっと、なんのコネもない王子を助けてやったのだから、それなりの見返りをよこせとも言い出しかねない。いや、絶対に言うに違いない。
そうなったら国を巻き込んでの大事になるし、却ってレニエ王子の迷惑になってしまう。
おまけに私は先ほどの件という問題を抱えている。
そのため、私は神父にこう伝えた。
「申し訳ありませんけど、それについては承ることができません。でもその代わり良い案があります」
私はトーマス神父と共に、ベンチを拭い終えて手を清めていたレニエ王子に声を掛けた。
「神父からお話を聞きました。とてもお困りのようですね。私で良ければ、あなたの国へ同行させてもらえませんか。ちょうどどこかに、見知らぬ土地へ旅しに行きたいと思っていたんです。もちろん、旅費については私が負担するので何の問題もありません」
私の提案に、王子は眉間にしわを寄せた。
だが、すぐに明るい笑顔を見せると、ああ、神よ! と膝を落として両手を天に向けて組んだ。
「ありがとう。ありがとうございます。善き人よ。どうかあなたの手に口づけさせてください」
そう言って、彼は私の手に口づけをした。
こんなにまさか感謝されるとは。
私はジョヴァンニから感謝されることが殆ど記憶になかったため、彼の行動に驚いた。
そして何より……レニエ王子の笑った顔。
美しい瞳をさらに輝かせて、なんて可愛らしいのだろう。まるで有名な画家が礼拝堂の天井一面に描いた天使のよう。
私はそう感じていた。
コホン。
突然トーマス神父が咳払いした。
「でも、ミランダ嬢。その、あの、よろしいのですか? あなた、ジョヴァンニ殿下と婚約中でいらっしゃるのでしょう。それがその……知り合ったばかりの男性と二人きりで旅行だなんて」
えっ? と漏らしたレニエ王子の顔色は、急に真顔に変化した。そして悲しそうな顔をした。
「それは……僕も良くないと思います。もし、僕に対して同情で同行してくださると言っても、それなら僕はお断りします。優しさはありがたいですし、変な意味もないのですが」
そう言って真剣な顔をしながら私を見つめた。
ああ、やはりこの人は真面目なのだ。
正しく王子の鑑。どこかの誰かさんとは大違い。
ますます輝いて見える。
なんて、なんて、素敵なのだろう。
どうしてこんな彼を放っておけるというの?
私は即座に、いいえ、それは誤解です! と叫んだ。
「私がジョヴァンニと婚約していたのは、とうの過去の事です。ですから、こうやって左手の薬指には何も嵌めておりません。私はただ、一人旅をしたくなっただけなんです」
いぶかしんでいる二人に向って、私は大丈夫。なんなら、ジョヴァンニの新しい婚約者は自分の妹だと告げると、二人は一層驚いた顔をした。
「そうそう。大事な証拠を忘れていました。ほら、ここにちゃんと彼が婚約を破棄すると署名しているでしょう?」
私は彼らに、証拠となる先ほどの用紙を見せた。
◆◆◆
夕方。
カフェに寄ってから自宅に戻ると、どうやら妹のほうが先に帰っていたようだ。
彼女は開口一番、あんな無礼に誓約書を書く事を迫ったうえ、国王陛下にまで念押しさせて、彼はカンカンだった、絶対許さないと言っていたと私に伝えてきた。
「謝るなら今すぐの方がいいと思うわよ? もう口も聞きたくないって言ってたわ」
ビアンカは腕を組みながら、くすくす笑っている。
しかし、今の私にとってはジョヴァンニなんぞ何の未練もない。それに別れたのだから、口を聞く義理もない。
むしろ、ジョヴァンニなんてどこが良かったのか、さっぱり忘れられるほど、内面が素敵でもっと顔立ちのよいレニエと知り合えたのだから。
「あらそう。別に私は構わなくてよ。それよりもあなたが彼の相手をこれからしてあげなさいな。未来の王妃様」
そう言って私が笑い返すと、妹はふんっと鼻息を荒くして、私の前から去っていった。
けれども私にはこんなことをしている暇はない。
「え? シャンベリー国へ留学?! なぜそんな急に。しかもあの国とは何の縁もないだろう。ジョヴァンニ王子との婚約は?!」
私が突然、シャンベリー国へ行くことを告げると、父も母も当然驚いて見せた。
「ええ。彼はついに私と本気の婚約破棄をなさったんです。でも、ご安心を。後任はビアンカが担当してくれますし、殿下もそれを望んでいるようです。お父様、お母様、それに私は今度こそ本物の傷物になったんです。ですから、それを風化させる時間として、シャンベリー国に向かわせて下さい」
私がジョヴァンニが破棄したという確たる証拠を見せると、彼らは顔を見合わせて気まずそうにした。
けれども、私が奇異な目で見られるのを風化させることには賛成のようだった。
シャンベリー国を選んだ理由も、全く未知の文化のところに行けば、刺激が多いだろうし辛さも忘れられるだろうから、と伝えると納得してくれた。
それから二週間後、私はレニエ王子と共に船へ乗り込んだ。
もちろん、彼は船内でもとても紳士的な人だった。
私は若干期待をしていたのだが……
彼は私の部屋に立ち入ろうとすることはなかったし、私を彼の部屋に呼ぶこともなかった。
けれども船内は特にやることもなく、時間だけは大量にあったので、私たちはしょっちゅう共同のリビングに行き、お互いの思い出話を語り合ったり、カードに興じたり、踊ったりして、毎日を過ごしていた。
それにしても、ジョヴァンニ以外の男性とこうやって過ごすのは初めてだった。
もし、こんな風に他の男性と親しくしているのを彼が見たら、仮に婚約破棄ごっこ中の期間だとしても、相手の男性を良くて宮廷追放、最悪死罪も辞さない勢いだったので、私はなるべく父や親戚以外の男性と話さないようにしていたのだ。
けれども楽しい時間というのはあっという間に過ぎていく。
あと一時間でシャンベリー国に着くという時。
私とレニエ王子は甲板にいた。
雲のない夜空には、宝石箱をひっくり返したような満点の星が輝いている。
「見てよ、ミランダ。あそこの山にいちだんと輝く場所があるだろう? あれが僕の城なんだ」
やっと故郷に帰れるという言葉が言わなくてもわかるほど、彼の声は喜びに弾んでいる。
「わあ、本物だわ!」
「本物って……本物だよ」
「だって、もしかしたらあなたが王子様というのはあなたの妄想で、本当はなんでもない可能性だってある訳じゃない?」
「何それ。酷いな。それじゃあ、城についたらすぐに父上と母上に会ってもらおう」
レニエはそう言って、私を胸元に抱き寄せて微笑んだ。
私たちはとっくに恋に落ちていた。
でも、私は別に彼が王子様でなくてもなんでもよかった。
もし彼が妄想癖のある変人であっても、才能がない詩人風情であっても、私は彼といられるのであれば支えていくつもりだった。一生困らないお金だって持っているのだから。
「ところで、ご両親に合わせてくれるのはいいけれど、私のことはなんて紹介してくれるの? 仲のいい女友達として?」
「僕の気持ちを知っていて、そう言ってる? そんな意地悪は言わないで欲しいな。それはもちろん、僕の恩人であり、最愛の人だと伝えるよ」
私は嬉しい、と一言だけ言って彼に飛び跳ねるように腕を巻きつけ、体を預けた。
◆◆◆
レニエの指さした王宮に着いたあと。
私たちは直ちに国王陛下と王妃の元に連れていかれ、レニエが戻ってきたことを大変驚かれた。
連絡が突然途絶えてしまったため、国王陛下も王妃も最悪の事を考えて神に必死に祈る日々が続いていたという。
帰還の報告は国王陛下の私室で行われたため、彼らは涙を流しながら息子の帰還を喜んだ。
ただし、レニエは戻ってこれたものの犠牲になった者たちもいる。
王宮は彼らのために7日間服喪した。
それから喪が明けた日の事。
私は国王陛下に謁見の間に呼ばれて、貴族たちに見つめられながら、この件に関してお礼がしたい、何か望むものはあるかと尋ねられた。
私が望むもの。それは……
視線を国王陛下の側に立つ、王子に相応しい格好をしたレニエの方へ向ける。
私はレニエとこれからもずっといたい。願いはそれだった。
言葉には出さなかったが、レニエはこちらへ近づくと私の手を取った。
「父上。どうか私たちの結婚を許していただけませんか?」
私も無言で彼に頷く。
「それはこちらとしても願ってもいないこと。もちろんだとも。ミランダ嬢、どうか我が息子をよろしく頼む。ただし……」
国王陛下は私たちを祝福しつつも、ある条件を述べた。
それは、私はこの国とは馴染みのない国からやってきたゆえ、今後その違いに戸惑うだろうから、一年間は花嫁教育でしっかり学んで欲しいとのことだった。
そのため、私はとある侯爵家で世話になる事になった。
侯爵夫人はこの国のマナーに精通しており、私に数々のことを丁寧に教えてくれた。
最初はまったく違う風習に戸惑ったりもしたが、夫人は決して私のことを馬鹿にせずに優しく見守ってくれた。
それにレニエの義理のお姉様たち。
彼女たちも、私にこの国の宮廷のルールを教えてくれる教師を買って出た。
とはいえ最初、私はどのような人物なのかと、正直身構えていた。
しかし、二人ともおっとりとした優しい女性たちで、こちらにやって来て何か困っていることはないかと常に心配し、やって来る時には必ず美味しい手土産を持って来てくれるので、私はたちまち彼女たちのことが好きになってしまった。
以前であれば、私が妃教育に四苦八苦している様子を、ジョヴァンニの姉はおかしい、センスがないといって陰で笑っていたというのに。あの時とは大違いだ。
それにも関わらず、私は当時、厳しいと思うのは神が私に課した試練であり、愛の力で乗り切れると本気で思っていた。
もし、あのまま彼女と義理の姉妹となっていたらと思うと本当にぞっとする。
また、レニエも少なくとも週一回は私のもとを尋ねてきてくれた。
彼は会う度に、季節の花を欠かさずに持って来てくれる。
侯爵夫人からは、そんなにミランダが好きだからとお花ばかり持って来たら、家がもう花だらけになってしまうじゃない、と笑われてしまう程に。
でも、私は愛情をまっすぐ注いでくれる彼がますます愛おしく思えた。
ジョヴァンニなんて、花といえばそこら辺に生えていた草を摘んで来てプレゼントだ、なんて本気なのか嫌がらせなのかわからない事をしていたのだから。
唯一綺麗だと思えたのは、黄色い花をつけたタンポポくらいだっただろうか。
私がそんな風にして彼女たちから学んでしている最中、夫人から差出人不明の手紙が届いていると知らされた。
一体、誰からだろうと読んでみると───
なんと送り主はジョヴァンニからで、謝れば婚約破棄を撤回してやるという、ふざけたものだった。
今更そんな事を言われても。謝る必要なんてないでしょう。私はとっくにあなたの事なんて、好きではなくなっているのに。
そのように思いながら、私は当然返事を出さなかった。
すると、何故かわからないが、手紙は定期的に届くようになった。
最初は威圧的だったのが次第にトーンを落としていき、最新の受け取った手紙にはこう書かれていた。
『お元気ですか。どうしてあなたは手紙を僕に返してくれないのですか。ひょっとして怒っているのでしょうか。もし、今度こそ返事をくれないなら、僕も連絡しません』
「あっそ」
私は彼がどんな反応をするのかだけは気にはなっていたため、返事は書かないが目だけは通していた。
でも連絡しないなら、それは結構。
だって明日はとうとうレニエとの結婚式なのだから。
それに万が一彼からまた手紙が来ても、これからは目すら通さないことに決めた。
私はレニエの妻となる。結婚しても一方的とはいえ、元婚約者と通じ合っているのは不健全というものだろう。
私だってレニエに誠実でありたい。
それから迎えた当日。
私は結婚式当日を迎えて、最高に幸せな気分に包まれていた。
レニエと私を載せた馬車は街の中を走り、国民達はみな歓声を上げながら、私たちを祝福してくれた。
そして厳粛な式を済ませたあとは、城で盛大に祝賀会が開催された。
私たちは各招待客たちに挨拶に回ったあと、私の両親の元へと向かった。
そこにはてっきり来ないと思っていたビアンカもおり、なぜかニコニコと明るく笑って立っている。
私は瞬時に警戒した。
実はジョヴァンニの邪魔が入る事を用心して、私はレニエとの結婚をぎりぎりまで両親にすら内緒にしていたのだ。
もちろん二人は突然、私がシャンベリー国の王子であるカンティーナ伯爵、つまりレニエとの結婚すると聞いて驚いていた。
けれども両親は、シャンベリー国もそれなりの規模を誇っている国ではあるので、まあ、結果良ければすべてよしだといった具合で喜んでいた。
そして問題はビアンカ方だ。なぜこんなに機嫌が良さそうなのだろう。
彼女だって女なのだから、ジョヴァンニが密かに私へ手紙を送っていることに気づかないとは思えない。
「お姉様、ご結婚おめでとう。素敵な旦那様ね。実はね、私も来年の今ぐらいの時期に結婚しようかという話が出ているのよ!」
「あらそう。良かったわね。心から祝福するわ。ジョヴァンニと仲良くやっているようで何よりよ」
そういう事か、と心の中で私はつぶやいた。
ビアンカの中では、婚約破棄によりヤケを起こした私はレニエと結婚。一方、自分はかつて私が愛していたジョヴァンニをとうとう勝ち取ったのだ、と勝利宣言しているのかとその瞬間は思っていた。
ところが。
「いいえ、相手はあの殿下ではないの。彼とはお姉様が国を発って3か月後くらいにお別れしたから」
「ええ?!」
予想外のことに、私は驚いた。
妹はあんなに嬉しそうな顔をしていたというのに。それなら結婚するというのは一体誰なのだ?
「なぜ? どうして?」
私がそう問うと、ビアンカは一層幸せそうな穏やかな笑みを浮かべた。
「あのあと、殿下にやはりお姉様と違うと言われて、婚約はなかったことになったよ。どのみち、お姉様が旅立って行ったあとはしょっちゅう喧嘩ばかりしてたしね」
その事を思い出してか、ビアンカは嫌そうな顔をした。
「私も殿下があんな人だったなんて、がっかりしたわ。大人なのに。お姉様は従順だったから、あの人もわがままし放題だったみたいだけど、私はそうではないから」
まさかの姉妹で同一人物から婚約破棄。
そうなったら、うちはとうとう王家とのコネがなくなってしまうではないか。
私は途端に実家の状況が心配になった。
「……それで、あなたの結婚相手はだれなの?」
私がそう聞くと、ビアンカはそれはねと頬を赤く染めながら教えてくれた。
「第二王子であるシリウス様よ」
「ええっ?! シリウス様ですって?! あなた、小さい頃はあんなに彼を泣かしていたのに……」
私はまたしても驚いた声を上げた。
シリウス王子は国王陛下と後妻の子で、自らの希望で教育のため一人王都を離れて、遠方の方でジョヴァンニを支えるべく様々な事を学んでいると聞いていた。
年は妹と同い年だが、幼い頃、彼は妹よりも小さく大人しかったため、口が達者だった妹によく泣かされていたのだ。
それでビアンカは納得しているのか?
いや、シリウス様は妹の尻に敷かれそうなのが目に見えてるのに、嫌がっていないのか……
私が婉曲もせずそうに聞くと、彼女は両手を頬にあてると惚気た笑顔になった。
「それがね。久しぶりに会ったシリウス様はすっかり背も高くなっていたうえ、見た目も格好良くなっていたの。私が昔の話を出しても、全て冷静に反論してきてね。私ももちろん最初はムッときて、何この人って思ったけど」
でも……とビアンカは続ける。
「私がジョヴァンニ殿下と別れて泣いていると、びっくりしたみたいでどうしたのかと心配してくれたの。彼も殿下には思うところがかなりあったみたいで、二人で愚痴を言い合って。あの、それで、その時二人でお酒を飲んでウサを晴らそうと盛り上がっちゃって……まあ、そういうことよ」
シリウス様はジョヴァンニと異なり、噂でもよく聞いていたが生真面目な性格だ。
ゆえにビアンカとの件は事故みたいなものとはいえ、未婚の貴族女性に手を出してしまったのだから、きちんと責任を果たさなければと思ったようだ。
今ではすっかり精神的にも大人なシリウス様に、ビアンカは夢中といった様子だ。
しかも母親が異なるため、シリウス様もあの性格の悪い姉とは相性が悪く、ビアンカには彼女と極力関わらなくていいと守ってくれているらしい。
そんな彼女の様子を見て、はっはっはと、今の様子を見ている限り最初からビアンカにはシリウス殿と婚約させればよかったなぁ、と父は腰に手を当てながら笑った。
……私は口をぽかんと開けて、この展開はなんなんだろうと正直思っていた。
だが、ビアンカは急に真面目な顔をして、ジョヴァンニは自由になったゆえ気を付けた方がいいと私に警告した。
「お姉様、どうもジョヴァンニ殿下はお姉様が結婚すると聞いても、自分を懲らしめるためにワザと結婚したんだと思っているみたい。自分が迎えに行きさえすれば、もとに戻るはずだって言いふらしているわ」
「何それ!」
一体、どこまで彼は自分に都合よく考えられるのかと私は呆れた。
◆◆◆
そんな訳で、私たちの家族はジョヴァンニ個人とは関わりが薄くなったと思っていたのだが。
事件は起きた。
それは私とレニエが結婚して半年ほどたったある日のことだ。
その日、レニエは深刻な顔をした家臣から何かを告げられて、今日は丸一日会議室に籠ると国王陛下やお義兄様たちと共に去っていった。
一体、何が起きたのかとそわそわしながら待っていると、夜、会議室から出てきたレニエからこう伝えられた。
「あなたの元婚約者だけど……我が国に宣戦布告をしに来たようなんだ」
「ええっ!!」
私は何故そんな事をするのかと、大きな声を上げた。
「ご冗談でしょう?! どこか頭でも打ってしまったのかしら」
「僕も首を傾げたくなるよ。詳しいことはまだわからないけど、あなたを返せと騒いでいるみたいなんだ。彼らは今、コンスタンティンの港にいるらしい。おじたちも直ちに兵を向かわせると言っていた」
シャンベリー国は陸続きで両隣に別の国があるのだが、相続の関係で現在両国の国王は、彼のおじたちが担っている。
また、コンスタンティン港というのはシャンベリー国が有しているのだが、昔から大変栄えており現在三国で管理している。
つまりそこを攻撃しようとするなら、当然シャンベリー国だけではなく、両国からも敵だとみなされて攻撃対象となる訳だ。
私は王宮内の教会に行き、神に祈った。
ジョヴァンニは敵として捕らえられようが、戦死しようが、斬首刑、絞首刑、引き裂き刑、火刑、串刺し刑、市中引き回しの刑になろうがどうだっていいのです。
それよりも彼がこちらの国を攻撃して、故郷と本格的な戦争にならないようにしてください!
そう願うしかなかった。
その結果。
神は私の願いを聞き入れてくれた。
というよりも、戦争にすらならない、一体彼らは何がしたかったのかという状態で終わったのだ。
「コンスタンティンの砦が壊されては大変だと、文字通り三国総出で彼らの船を取り囲んだんだ。そしてうちの方から威嚇射撃をしたところ、相手は反撃することなく怯えるようにして逃げ帰っていったらしい」
レニエは寝台で横たわりながら、二人だけの甘い時間を過ごしてまどろんでいた私を片腕で抱き、頬に口づけをしながら教えてくれた。
「うちとしても、無駄に遠方の国とは戦争をしたくない。張り合っているわけでも、領土を取り合っているわけでもないというのに。だから今、密使を通じてなぜこのような事をしたのか確認しに行っているところだけどね」
レニエはさらに、でも本気であなたを盗り来ていたつもりなら僕は容赦するつもりはない、といって私に覆いかぶり、頬に手を添えて真剣な顔つきをしながら、綺麗な瞳を向けた。
何度そうされても本当に彼のこういう部分に、私の心は鷲掴みにされる。
どうして、こんな大好きな人がいるというのに、あんなどうしようもない人の所に戻りたいと思えよう。
「仮にもし、あの人が私のことを無理やり奪いに来たら、私はその場で首を掻っ切って死んだ方がマシよ」
私はうっとりと彼の目を見つめながら、すべすべした彼の胸に手をそっと置いてそう返した。
「そんな怖ろしいことは言わないでくれ。あなたがいなくなったら、僕だってその場で心臓が止まってしまうと思う」
「じゃあ、絶対に私を離さないでね」
微笑んでいるレニエの首に私は腕を回して、再び彼の愛を感じようと口づけを喜んで受け入れた。
それからしばらく。
密使からの連絡によると、今回の件についてはやはりジョヴァンニによる暴走だったそうだ。
彼はあちらの国王陛下が病で倒れたのをいい事に、当初は軍隊を動かして、シャンベリー国に脅しに近い交渉をかけようと考えていた。
しかし、軍だってそう簡単に動くはずがない。
ならばとジョヴァンニは私財を投じて、兵士を雇い脅そうと思ったらしい。
遠方の国の場合、それなりに文化は発展していても、軍事、特に海軍が弱い場合もあり、立派な船で行くだけでも驚いて交渉に応じてくれる事もあるのだ。
良い例で言えば、東の海に浮かぶ島国のジーパング国だろうか。
そして肝心の理由はなんとこうだった。
ジョヴァンニの頭の中では、私と彼の関係は継続中。
しかし、私はその継続期間中にも関わらずレニエと結婚してしまった。
あれほどまでに自分を恋い慕っていた私が、別の男と結婚するはずがない。
ここまでは確かにビアンカが警告した通りだ。
けれども、問題はこの続きだ。
自分はこれまで何度もこちらに手紙を寄越しているというのに、全く返事がないというのはいかがなものか。
ひょっとしたら、これまでの分の仕返しのためにそうしているのか。
いや、もしかしたら……自分に気持ちを残したまま当てつけで結婚したものの、レニエのほうが本気になっており、私をこの国に監禁しているのかもしれない。
あるいは、嫌がる私をレニエが無理やり攫い、結婚してしまったのか?!
だから返事を出したくても出せなかったのでは?!
……そうだ、それが一番しっくりくる。
よし。それならば、さすがに助けに行かなければ! なぜなら、自分は私の真の婚約者なのだから。
きっとこの勇気ある行動に、周囲も当然だと賛同してくれるだろう。
と、とんでもない方向に想像力を働かしたようなのだ。
「何それ! 前からおかしいと思っていたけど……完全に狂ってる」
明るい日差しのもと。
穏やかな風が吹いている王宮のバルコニーで、私はレニエからその話を聞いていた。
「ああ。しかも、威嚇射撃で逃げたのだって、本人はきちんとした兵士だと思って雇ったらしいんだけど、実際は兵士などではなくて二流、三流の海賊だったそうなんだ」
一流の海賊と呼ばれる海賊たちは元海軍所属であることが多く、異国のルールもそれなりに知っていたり理解していたりするのだが、彼らはそうではなかった。
言葉もカタコトだったうえ、こちらにとっては非礼な言葉で入港しようとしていた。
『このクサレ外道の下級民族ドモ。とっとと港を開けヤガレ!』
このような調子で。
また、あちらとしては、一応レニエとの対話を望んでいたそうなのだが、宣戦布告だとシャンベリー国は受け取ったらしい。
もちろん、シャンベリー国は非礼な行為があったからといって、喧嘩を売られたと即みなすような短気で野蛮な国ではない。
港に近づくなと警告を出していたにも関わらず、彼らはそれが理解できなかったため、結局無視する形となったのだ。
さらに彼らは、旗を振って入港許可を願うサインを出しているつもりだったそうなのだが。
こちら側からするとそれは"今から略奪行為をする"という合図だったのと、船も海賊船であるので彼らを先鋒とした宣戦布告だと判断したそうだ。
「あの人、変な男友達と付き合っていたから、怪しい所から碌でもない入れ知恵をされて、そのうえ高いお金を取られて海賊を兵士と騙されてたんでしょうね。多分」
「うん、当たり。さすが元婚約者だ。彼のことがよくわかってる。実はその碌でもない連中と、賭けをしていたらしいんだ。以前はあなたが必ず縋ってきていたから、2年以内にまたヨリを戻したがるだろうって。でも、なかなかその兆候が見られないから、賭けに負けるかもしれないと焦っていた。かなりの大金や、勝手に王家の領地を賭けていたようだしね」
「なんて恐ろしい。もしかしたら、前もそんなことをしていたのかしら……」
レニエは何とも言えない表情でため息をついた。
さらに彼によれば、幸いなことに国王陛下はその後病気からなんとか回復したそうだ。
そして陛下はこちらには平謝りしつつ、ジョヴァンニにはこの恥晒しの馬鹿者が! と大激怒していると。
「けれども、そんな状況であるのに、未だあちらの王太子は納得していないそうなんだ。なんで自分は助けに行ったつもりなのに、攻撃されなければいけないのかと。しかも、もし本気で別れるつもりだったなら、あなたに今まであげたもの、婚約指輪から髪留めのピンまで全て返して欲しいと言ってるって」
「……」
私は絶句した。どこまで自分本位なのだろう。
しかも、あげたものを全部返せとは。
ダサい。最強にダサい。
ダサいついでに思い出したが、彼とお忍びで街中をデートする時はいつも割り勘だった。
それ自体は、女性のプライドを守るためという意見も聞くが、彼の場合は一イェーン単位で細かくきっちりしたものだった。
例え彼の方が、食べたり、飲んだり、消費したものが私の倍多くても。
また会計する時は彼が財布を出すのだが、店から出て人目につかない裏路地に入ると、私は彼から請求された。これが一般的なマナーであるとして。
そして、それがごく普通だと思っていたが、マリアに当たり前のように話をすると、かなり驚かれたことに私は逆に驚いたのだ。
『何よそれ……しかもニコラなんて、女性に財布を出させないのが当たり前といっているのに。それが表は自分で出して裏で回収するって』
彼女はショックのあまり、目を瞬かせ顔を青ざめさせ、ああ、神よ。この世にこんな恐ろしいことがあってよろしいのでしょうか? と言いながら両手で口を覆うほどだった。
「あと、色々と腹は立つけど最後にこれを聞いて、僕は絶対に彼を許してはいけないと思った」
「まだあるの?」
私はもはや、うんざりした気持ちになっていた。
「うん。もし仮にあなたの奪還が成功したならば、僕と結婚した仕置きとして、無人島に置き去りにしてしばらく放置するだったつもりだったみたいなんだ」
……まさかの無人島!
あの男はどこまで私をバカにすれば気が済むのだろう。いくら私が世間知らずで、彼に惚れ込んでいた年下の女だったからとはいえ。
「なんでも攫われる方も原因があり、きっと攫った方に隙を見せて惹きつけたのだろうだって。女性なら貞淑であるべきだと。無人島でしっかり反省して、自分が注いだ愛情を思い出せ! ということらしい」
「うっそ」
「本当に、どうして自分が愛してる人をそんな目に合わせたくなるのか、僕には全く理解できないよ。まあ、惹きつけたられたというのは嘘ではないけれどね。それに僕はあなたが一途なのは知ってる。少なくとも僕に対しては」
そう言って微笑み、私の手に指を絡ませて優しく握るレニエに、私は頬を赤らめた。
その心を表すかのような温かで大きな手。
彼のこういう素直に愛情を示してくれるところは、本当に可愛くて仕方がない。
……って、惚気ている場合ではない。
ジョヴァンニは攻撃されると、自分こそが被害者だと振る舞う部分がある。
もしかしたら、今回は脅しに失敗したものの、レニエが私を攫っていったのだと言いふらして、彼を悪者として仕立て上げて、故国の同盟国を味方につけてくるかもしれない。
そうなる前にレニエを守らなければ。
私の心も、レニエ同様、もう容赦しないものと決め込んだ。
「もう、あの人の好き勝手なんてさせないわ」
私は万が一の時のためにしたためておいた、ジョヴァンニの婚約破棄に関する誓約書を机から引っ張り出して来て、レニエに手渡した。
まさかこれが役に立つ日が来るとは。
「以前も見せたことがあるけど、これにはあちらの国王陛下が認める印も入ってる。国際裁判所に提出して、私たちはなんの落ち度もないことを全世界に証明しましょう!」
その後、私の誓約書は確かに正式なものであるとし、なおかつジョヴァンニは自ら婚約破棄を認めているではないか、ということが国際裁判所によって認められた。
そして、私の希望もシャンベリー国の意向もあり、故国に損害賠償を請求しない代わりに、ジョヴァンニの退位を求めた。
故国の国王陛下もよほど腹に据えかねていたのか、この時をまるで待っていた! とでも言うように即実行に移った。
代わりとして、第二王子であるシリウス殿下が新しい王太子として認められ、ジョヴァンニは現在の地位を剥奪のうえ、僻地の城に生涯幽閉を命じられることとなったのたが……
もちろん、ジョヴァンニはこれにすんなり応じるわけがなく、幽閉先に送られる時は兵士相手に暴れ回ろうとしたり、暴言を吐いたり相当酷かったようだ。
幽閉先の城では私に対して悪口雑言を書いた手紙を何度か出そうとしていたようなのだが、宛先を見た使用人がひっそりと処分して、こちらに届くことがないようにしていると。
さらに、落ちぶれたことをプライドが許さず、過去の栄光も忘れられなかったのだろう。
その土地の貴族や商人相手に、華やかな宮廷生活時代の自慢を繰り返し、でもそんな自分がここにいるのは、元婚約者に騙されてしまったのだ、自分は裏切られてしまっただけなのだ、自分は真剣に愛していたのに! と同情を集めようとしていたらしい。
けれども貴族たちや商人だって、そこまで愚かではないのだ。
むしろ、田舎の方が他所から来たものに対して敏感である。地元の強固なネットワークにより、一度情報が入ればあっという間に噂が広がる。
そのため、婚約破棄ごっこを繰り返して愛想を尽かされた元王太子だと到着早々に実は知られていた。でも、影で笑われていることを彼は知らない。
最近では酒に溺れて、集会中の野良猫を相手に話しかけている日々が続いているみたいだと、ビアンカからの手紙にはそのように記されていた。
また、婚約破棄の理由についてビアンカのことは誓約書に書いていなかったため、彼女との婚約は口約束だったうえに短期間で終わったので、それについてもホラ話だと思われているようだ。
一方、彼とつるんでいた禄でもない人間たちはというと───
彼が権力を失った途端に勢いを無くしたり、まるでジョヴァンニとは最初から知り合いではないというような振る舞いをしたり、今度はシリウス様に取り入ろうとしていて、呆れられているという。
中でも問題だったのは、諸外国からの取り次ぎ係だ。
実はレニエが故国を移動しようとしていた際、交流先の国が彼らに安全な道を教えて欲しいと、事前に依頼をかけていた。
しかし、担当だったジョヴァンニの悪友がちゃんと仕事をしておらず、承認するのが遅れ、結局連絡がきちんと届かず彼はあんな目に遭ったそうだ。
このままでは国として信頼を失ってしまう。
危機感を覚えたシリウス様は、現在ジョヴァンニの息が掛かっていた者たちを完璧に排除して、立て直すところから着手しているらしい。
本当にまったく。
つくづく、あんな人と結婚しなくて良かったと思う。
本物の愛、レニエに出会えて良かったと思いながら、私は筆を手に取った。
私は今、子供が生まれたと連絡をくれたマリアに、出産祝いの品を準備して、あの時は真剣に怒ってくれてありがとう、と感謝の言葉を添えた手紙を作成している。
現在の幸せは、彼女が真の友情で気づかせてくれたおかげなのだから。
まあ、ジョヴァンニがもしニコラ様のように落ち着きや思慮深さを持ち合わせていたら、きっと彼女から怒られることもなかったし、レニエと出会うこともなかったけれど。
それにしてもレニエと初めて教会で出会った当時、実は彼はまだ17歳だった。
見た目も中身も大人びていたため、それを知った時にとても驚いたのも今ではいい思い出だ。てっきり年上だと思っていたが、実際は私より一つ下だった。
19歳になった今も落ち着いているのは変わらずで、本人は自分には若さがないなんて言っているが謙遜だろう。
そして、新たな王太子となられたシリウス様もまた、18歳になるかならないくらいだが、勤勉でとてもしっかりしており、先ほどの仕事の件もそうだが王太子に相応しい聡明さ、判断力があると評判も上々だそうだ。
……。
……。
はぁ。
彼らはジョヴァンニの年よりも、半分以上年下だというのに。
あぁ。
かたや現在四十前半であるジョヴァンニは、なぜあのように子供っぽかったのだろう。
「年上だからって、私も幻想を抱きすぎていたのね。私も二十歳を迎えたことだし、ちゃんと大人らしい振る舞いをするように気をつけないと」
私はそうひとりごちた。
脇役のマリアとニコラの物語(短編)
「どうして彼女達は、人のものばかり欲しがるのかしら?」
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