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アリ ―まさき五歳、りく三歳―

「わ、いつの間にか蟻がうようよ沸いてるなあ。アレ仕掛けよ」


 階段を上がっていた陽一は、目の前の段にアリが闊歩しているのを見つけ、顔を顰めた。

 すぐに近くのホームセンターへ行って、置き型の殺虫剤を買って帰ると、階段の下でまさきとりくが何匹かのアリが連なって歩いていくのをじっと見つめていた。

 まだ隙間なく続くような行列ではない。だが確実に数は増えている。


「アリの行動は早いなあ。どこに向かってるんだか」


 先程は久しぶりに見た昆虫への戸惑いで慌てて引き返してしまい、アリの行方を確認していなかった。

 もしかしたら、ただの通り道になっていることだってありうる。

 玄関から階段を昇り二階のベランダへと、人間の文明を利用した壮大なワープをしているだけかもしれない。


 りくが上がって来られないようにベビーゲートを締めてから二階へと上がった。

 そっと行列を辿れば、それはテッィッシュボックスへと繋がっていた。


「はあ? ティッシュ? 中になんか食べかすでも落ちてんのかなあ」


 陽一が呟けば、ベランダで布団を干していたかよ子が冷めた視線を寄こした。


「何も言わずに出かけるのやめてくれる? まさきとりくが心配するから」


「ああ、ごめん」


 二人ともアリに夢中になっていたから、まさか探されていたとは思いもしなかった。


「報・連・相。社会人の基本でしょ? ホームセンターに行くならついでに買ってきてほしいものもあったのに。無駄、非効率」


「ごめんって。もう一回行ってこようか?」


「ついでにって言ったでしょ。また今度でいいわよ」


 かよ子は口を閉ざしたものの、「まったく、いまだに一人で生きてるつもりなんだから」といういつもの文句を顔に張り付けていた。

 だが、陽一が欲しかった答えもちゃんとくれた。


「それ、ティッシュに巣を作るつもりらしいわよ」


「ええ? アリが、ティッシュに? へええ~」


 素直に驚き、感嘆しているとまさきが二階へと上がって来ていた。


「おお、まさき。今からここにこの目立つ、いかにも触りたくなるようなオモチャみたいの置くけどな、絶対に触っちゃダメだからな。中には毒が入ってるんだ。絶対に食べたり、触った手を舐めたりしちゃダメだぞ」


 触るなと言っても触るだろうからその次に取りかねない行動についても抑止しておく。

 もう年長だ、これくらいのことは理解してくれるだろう。

 そう思って、陽一はパッケージから目立つ蛍光緑の小さな箱を取り出した。透明なプラスチックケースの中には、粒状の毒入り餌が入っていた。


「毒なのに何で置くの?」


 まさきは陽一の行動を興味津々で目で追いながらも、首を傾げた。


「アリさんに家の中のおやつやご飯を食べられないようにするためだよ」


「そっか。食べられちゃったらなくなっちゃうもんね。アリいっぱいいるもんね」


 頷いて、陽一が置いた蛍光緑のプラスチックケースの前にしゃがみこんだ。

 アリのすぐ側に置いたのに、アリは周囲をうろうろとしたものの、プラスチックケースの壁にこつんこつんと何度も当たり、結局迂回してしまった。

 アリにとっては魅惑的な匂いが香っているはずの小さな穴から中に入って行こうとしないのだ。


「なかなか罠にかからないなあ」


 アリが通っていく道にプラスチックケースの入り口が重なるように置いてみても、中には入れどうろうろして出て行ってしまい、餌に触れる様子がない。


「よし、ぼくも手伝うよ」


 見かねたのか、まさきは声高に宣言して階下へと降りて行った。


「ねえお父さん、終わったなら下から布団運んできてよ。アリ見てたって死ぬわけじゃないんだから」


 まさきが何をするのか見守ろうと思ったのだが、かよ子の声は無視できない。


「はいはーい」


 機嫌を損ねないうちにと身軽に階下へと降りれば、まさきは何やら台所でがさごそしていた。

 布団を二階のベランダに干し、ふう、と一息つけば、まさきが工作用にとっておいた菓子箱を蛍光緑のプラスチックケースの隣に置いたところだった。


「ん? なんだ、それ」


 ティッシュの代わりの巣箱かと思った。

 だが違った。

 中には個包装の解かれていない飴が一つとご飯粒がひとつまみ分置かれていた。


「お、おお。なるほどな。『お手伝い』な」


 単に蟻が沸くやつだ。

 何と言ってやめさせるかが難しい。

 その前に一つ気になった。


「なんで飴は袋から出さないんだ? それじゃアリが食べられないだろう?」


「もったいないじゃん。っていうかアリに食べられないための罠なんだから、食べられちゃダメじゃん」


 絶妙になんと返せばいいかわからない。

 ツッコミどころが微妙すぎる。

 苦心しながらも、結局はストレートに、だけど傷つけないよう細心の注意を払って言葉を練った。


「うーん。おいしいだけのやつをおいたら、ご飯があるぞってもっとたくさんのありがきちゃうだろ? これはダメだ、死んじゃうからもうここにはきちゃだめだ、って思うようなものにしないとだめなんだよ」


 エサだと思って持ち帰ったら毒で一族郎党皆殺しというシステムとはさすがに言えない。

 昆虫を愛する男子にはショッキングに違いない。

 この薬剤の箱に書かれた説明とはまったく違うのだが、この辺りがギリギリだろう。

 しかしまさきは、しばらく「うーん」と考えていたものの、「わかった!」と再び階下へと降りて行った。

 ついていくと、台所にいたかよ子と何やら話している。


「ねえお母さん、これたかいにく?」


 かよ子の目が、「またなんか余計なこと言ったわね?」と陽一を睨む。

 すいませんでした、と目線で謝りつつ、陽一はかよ子の代わりに答えるため悩んだ。


 お祝いでもないのに高い肉なんて買い置きしてはいないだろう。しかし安いと言ったらまさきがどうするつもりなのかがわからない。

 安いならアリをおびき出す餌に使ってもいいかと聞いてきそうだ。

 だから、戸惑いながらも「お、おお」と頷いてしまった。


 すると予想外にもまさきは、かよ子に「じゃあこれ少しちょうだい!」とねだった。

 何故だ。

 何故だまさきよ。

 何故高い肉を欲するのだ。


 かあさんのあの怖い目を見て見ろ。

 あの目を見てもう一度、言ってみろ!


 胸中でまさきに語り掛ける陽一に、まさきはにこりと笑って言った。


「これでアリさんもイチコロだね!」


「いや、なんで肉なんだ? しかもなんで高いのなんかアリに」


「お母さんが言ってるじゃん。高い肉は死ぬほどうまいって」


 なるほど。


 大喜利か! と内心でツッコみながら、陽一はまさきに作った笑顔を向けた。


「アリさんはその肉は食べないと思うからやめとこうなー。それにお母さん、そう言って結局いつも死んでないだろ?」


「そう言えばそうだけど。じゃあなんで死ぬっていうの?」


「それは、たとえってやつだよ」


「たとえって何?」


 無間地獄に陥りそうだった。


「あ、まさき、二階のアリ、どうなってるかな。見に行ってみるか」


 無理矢理に関心をアリにうつさせれば、まさきはすぐに、そうだった! と思い出して階段へと向かっていった。


「もうエサ、食べてるかな」


 階段を上っていくまさきの後ろ姿を追いかけようとして、陽一は廊下で足を止めた。


 そこには人差し指でぷちぷちとアリをつぶしていく、りくの姿があった。


「わ、わああ! 何やってんだ、りく!」


 言ってもやめないりくの手を思わずぱっと掴む。


「アリさん殺しちゃダメだろ? アリさんだって生きてるんだから。生き物の命は大切にしないといけないんだぞ」


 言ってから気が付いた。

 そのアリを、巣ごと大量虐殺しようとしていたのは自分だと。


 りくの足元には無数のアリの亡骸が転がっていた。

 近くには、進撃せずに指だけで捻り潰す巨人を見たかのように逃げ惑うアリの姿がいくつか見えた。


 二階にはアリの姿は見えなくなっていた。

 その後もしばらく、家の中でアリを見ることはなくなった。


 それは、アリが頑なに触れなかったあの殺虫剤をいつの間にか巣へと運んでいったからなのか。

 それとも、りくの地道な駆逐が効いたからなのか。

 陽一にはわからなかった。




 その後。

 りくの行っていたショッキングな光景を見てしまったことをかよ子に話すと、ふん、と冷めた目が返ってきた。


「そんなの、いつものことよ。毎日毎日、むやみにアリを潰すなって言ってるわよ。でもやめないのよ。うちの子たちだけじゃない、子供ってけっこうそういうところあるのよ。子供にアリの命の尊さを教えることほど難しいことはないわ」


 保育園に向かう途中にアリの行列を見れば蹴散らす。

 保育園の先生とかよ子が話している間、大人しく待っているかと思えばプチプチとアリを潰している。

 近くにお友達がいれば、一緒にやっているというのだ。


 これまでかよ子は何度もそんな場面に立ち会っては言葉を尽くしてきたという。それでもまだ、成果が表れていない。

 今回のかよ子の冷めた目の理由は、「ほら、子供のことなんて全然見てないからそんなことも知らないのよ」であろう。


 大人にもわかっていない理不尽で身勝手な命の大切さを子供に教えるのなんて、無理なのかもしれないと陽一は思った。

 それでも。

 かよ子も、陽一も、説くことをやめてはいけないのだ。

 それが、大人の責任だから。


 今は理解できなくとも、何度も言い聞かせた言葉は心に残るはず。

 いつか、自分なりに考えるようになってくれればいいと思いながら、かよ子も陽一も、言葉を探し、与え続けるのだ。

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