お手伝い
「嘘……だろ?」
愕然とした声に、かよ子も言葉を失った。
思わず口元を覆い、悲鳴を噛み殺す。
「どうして……どうしてこんなことに」
まさきの手は真っ赤に染まっていた。
そしてそれはどろりと垂れ、台所のマットにぽとりと落ちた。
その一滴が、かよ子の固まった体の呪縛を解いた。
「拭いて! あああその前にその手を洗って! 手をそこらへんで拭かないで! ケチャップはシミになるんだからあぁぁ」
慌ててぞうきんでマットの上に落ちたトマトケチャップを拭き、さらにはおろおろするばかりのまさきの手をシンクの水道で洗わせた。
「なんでだよお、なんでなんだよお。かっこいいロボットを書こうと思ったのに、なんでこうなっちゃうんだよお」
かよ子が会心の出来! と胸をそらせたオムライスは、大量のトマトケチャップでぐっちょりと覆われている。
「もっと簡単なのにすればよかったね。最初からロボットは難しすぎたよ」
「にこちゃんマークとか、星とかハートとか、そんなんで喜ぶほど子供じゃないんだよ、俺は!」
「子どもでも大人でも最初からロボットはうまく描けないよ!」
ぎゃいぎゃいと言い合うかよ子の背後に人の気配がし、振り向くとりくが立っている。
「歯抜けた」
唐突!
「え、なんでいきなり!?」
りくが小さな指でつまんでいる、小さな乳歯に目を疑う。
だが思えば、りくはずっと静かにしていた。
ぼーっとテレビを見ているだけだと思ったのに。
歯が気になっていじっていたのだろう。
静かなときはロクなことがない。
別に乳歯は抜いてはいけないことはないのだが。
そこまで考えて、かよ子は再びはっとした。
「ティッシュ! ティーーッシュ!!」
慌てて近くにあったティッシュを丸めて固めて、りくの口をんがっと開けた。
そこには肉食獣が食事を終えた後のように血まみれの歯が並んでおり、真ん中近くに小さな隙間ができていた。
怖い。
怖いけどどこか間抜けなのは否めない。
「はい、これティッシュをぐっと噛んで! そしたら血止まるから」
「しょっぱい……」
「おがあざあああん! なんで?! こんなの、くわがたじゃないよ全然! なんでできないんだよおお」
「くわがっ……?!」
慌ててまさきの元に戻れば、かよ子の分のオムライスの上はまさきと同じく真っ赤のどろどろに覆われていた。
「だから、なんでまたそんな複雑なものを……」
「小学二年の俺が描くものといったらロボとくわがただろ!」
知らん!
と思わず叫びそうになって、かよ子はぐっと堪えた。
「お、おお。そうね。そうだけど、オムライスの上と紙の上は事情が違うからね。ほら、鉛筆で書くのと絵具で描くのはまた違うじゃない?」
まさきはむっすりと口をとがらせている。
「おかしゃん。もうい? ちしゅ、とてい?」
ティッシュを噛んでおけといったせいで急に赤ちゃんみたいな喋り方になったりくをかわいいと思いながら、「そっと口開けてみて」と促す。
そっとと言ったのに、んがっと一気に開いたりくの口の中からティッシュをそっと持ち上げれば、また新たな血がとろりと沸きあがった。
「あー、なかなか血が止まらないな。まだもうちょっと噛んでて」
「おかしゃん。こえ、もうまじゅい。ちがうのにしえ」
「そうよね、わかった。ティッシュ替えよう」
「おがあざあああん!! りくにおごられるううう」
「まさき?! まさか、りくのだけはやらないでっていったのに手を出したの?!」
「カブトムシなら角が一本だから! いけると思ったんだよおおお!」
甲殻類から離れろ!
ロボも昆虫も簡単なようでケチャップで再現するにはレベルが高い!
「ましゃき?! おでの、おでの、おむらいしゅ……」
りくの目にうるうると涙が浮かぶ。
りくには、「あっかんべーの顔」をリクエストされていたのだ。
「わかったわかった! また日曜日にオムライスにしてあげるから」
「明日じゃないの?!」
「あかんべえええ」
「そんなに毎日大量に玉子食べてたら体に悪いよ! バランスなの。明日はもっと野菜が一杯食べられるような何か」
「うええええええ」
「あかんべえええええ」
ああ。
カオスだ。
夏休みの宿題などでも『お子さんにお手伝いをさせてください』などと書かれていることが多いが、それが親にとってどれだけの苦労と労力を伴うことなのか。
いや、教師もそれは知っているはずだ。
それでも少しずつさせていかなければならないのがお手伝いだとかよ子もわかっている。
しかし。
このどうにもできないカオスの渦中にいるかよ子には、教育よりも今目の前のせっかくおいしくできたご飯をみんなでおいしいねと笑って食べたかったなという思いばかりだった。
「日曜日ね……。日曜日にもう一回やろう。ケチャップを細く出せるやつ買ってくるから」
「そんなのあるの?! だったら最初から買っておいてよおお」
それは君たちがもっと小さいころにあむあむとしゃぶってダメにしてしまったのだ。
「うん、わかった……とりあえず、たべよ? 冷めちゃうし。もうこんな時間だし。ね」
力のないかよ子に気付かず、まさきとりくは不満を隠しもしなかったが、その場はなんとか収まった。
子どもが本当の戦力になるのは、まだまだ、先のお話。
今は投資の時期なのである。
そう割り切れるのは、心が平静なときだけ。
かよ子はケチャップの味しかしないオムライスを口に運びながら、これからもまだしばらくはこれが続くのだとわずかに感じる卵の味を噛みしめた。




