ワーキングマザーの戦場
多くの人はワーキングマザーが一番大変なのは朝だと思うかもしれない。
確かにそれは合っている。
だが夕方こそが本当の戦場だとかよ子は思っている。
「おかあさぁん、お腹空いたあ~」
「そうだよねー、今作るから待っててね」
「お母さん! 聞いてよ、今日学校でね、」
「うんうん、何?」
聞いている。
聞いているが意識は半分だ。
残りの半分は、洗濯物を取り込み、雨戸を閉め、バックを片づけ、子供たちのお便りをざっと目で追って、明日必要なものはないかを確認している。
「そんでさあ、俺は何もしてないのにクウヤ君がさあ」
「おかあさん、今日のお夕飯なに? ぼくパンがいい」
兄弟揃ってパン好きだ。だが夕飯がパンなのはかよ子の腹が許さない。
「夕飯はお魚だよ。まさき、クウヤ君にそれをされる前にまさきは何をしたの?」
「え? えっとぉ……」
「自分がされたことばかりじゃなくて、したこともちゃんと言いなさい。りく、保育園のお着替え出して。コップと歯ブラシも台所に持って行ってね」
「俺がつまずいて、クウヤ君のこと蹴っちゃった。だけどわざとじゃないもん」
「わざとじゃなくても謝らないと。痛いことには変わりないでしょ? まさき、宿題学童でやってきたなら見せて」
「そうだけどさあ、クウヤ君は殴ってきたもん。俺のが痛いもん。わざとじゃないのに。ハイ宿題これ」
「それは痛かったよね。やり返すのもよくないとはお母さんも思う。だけど、もう一回聞くけどまさきは謝ったの? 赤鉛筆貸して、丸つけるから」
「……ううん。赤鉛筆は学校。忘れてきた」
「まずそこからだよね。間違えでも謝ろう。で、なんで赤鉛筆忘れてくるのよ?」
「筆箱ごと忘れた」
「……気をつけようね? 明日も忘れものしないように、今のうちに持っていくものの準備して」
まさきの学校での話を聞きながら、子供たちに夕方のタスクを順次指示出しし、それが済むと台所へ移動する。
冷蔵庫と野菜室を見て、とりあえず味噌汁を作り始める。
野菜がもうあまりなかったので、手早くワカメとお麩の味噌汁に決める。乾物はかよ子の力強い味方だ。
「あ、明日トイレットペーパーの芯が必要」
「何で?! 急に言われてもないよ」
「ごめん。これ先週のおたより」
まさきが台所にそっと持ってきたのは、一週間前の日付の学級便り。
まさきからの報連相などごく少ないかよ子にとっては、文字通り頼りにしている、頼りきっている学校からの唯一の情報源だ。
しかしそれをまさきが持ち帰って来なければ意味がないのであり、持ち帰ってきてもずっとランドセルの底に張り付いたまま家と学校とを行き来していたのではさらに意味がないのである。
「なんでもらったらすぐに出さないの!? っていうか何でランドセルの底でつぶされてたのが丸わかりなくらいにくっしゃくしゃなの」
「忘れてた。そんで慌てて帰りにランドセルに突っ込んだから」
渡されたくっしゃくしゃの学級便りを見れば、確かにそこには『来週トイレットペーパーの芯を使うので持って来てください』と書かれている。
せめて内容を覚えておいて伝えてほしいのだが、それはまさきにとってはより高度な望みだ。
「何のためにお便り袋があるのよ。ちゃんともらったプリントはお便り袋に入れて、お母さんに渡して?! 急に言われてもトイレットペーパーの芯を常備してるわけじゃないから!」
こういう時のためにとっておいても、気づけばりくがくるくると紙の流れに沿ってひも状に剥がしており、気づけば紙屑となり果てている。
「ごめーん」
「今用意できるものはしておきなさい!」
あまりに軽い反省の言葉に力をそがれながら、かよ子は再び台所に顔を向けた。
「おかあさあん、お腹空いたから今パン食べたい」
「すぐご飯作るから待ってて、りく」
こんな激しい戦場を、陽一は知らない。
ご飯を食べさせ、食器を片付け、お風呂に入れて、布団を敷いて、寝かせて。
嵐が過ぎ去った頃に陽一は帰宅する。
まさきはすんなり寝るが、かよ子が傍にいないとまだ眠れないりくに付き合って添い寝をしている時に、鍵を忘れてピンポーンと鳴らされた日にはちょっとした殺意すら芽生えてしまうほど、かよ子の神経はギリギリと追い詰められながら育児と家事をこなしているのだ。
「おかえりなさい……」
りくがやっと深い眠りに入り、忍びのように布団から抜け出た後は、陽一の世話が待っている。
「疲れたよー。やっと家だ」
陽一にとっては、家に帰ってからのこの時間が休息なのだろう。
だがかよ子の夜にその休息というたった二文字はない。
帰ってからのことを素早く済ませて行かなければ、子供たちの就寝時間がどんどん遅れ、その日の片づけをするのも遅れ、下手をすると次の日の準備も十分にできないまま寝オチすることになる。
そうなると翌朝に大きく響くので、計画的に時間通りに事を進めなければならないのだ。
朝は多少のことは「帰ってからやればいいや」と後回しにできるが、週末ならいざ知らず、週明けの夜なんかにそれをやってしまうと負債が溜まり続けて一週間を「こんなはずじゃなかった」「どこかで立て直したい!」と後悔するハメになる。
そうしてかよ子は陽一にご飯を出し、食べている間にまさきとりくのお便りを改めて確認し、書き物を済ませ、集金袋にぴったりのお金を入れ、そうしているうちに食べ終わった陽一の食器を洗う。
それからやっとお風呂、と思いきや、三人の男たちが脱ぎ散らかしたズボンがパンツを履いているみたいに綺麗にセットで裏返しになっているのを表に戻し、くるくると丸まった靴下を戻し、ズボンからハンカチを取り出す。
さらにはりくのズボンをゴミ箱の上で逆さにし、ひたすら砂が出なくなるのを待つ。
ざあー……という音が聞こえなくなるのを待つ。
そしてポケットを引っ張り出し、折り畳まれたズボンのすそをひっくり返し、あらゆる引っ掛かりから砂を落とし、洗濯機に突っ込む。
洗剤を投入し、予約ボタンを押したらやっと自分の風呂の番だ。
そして気づく。自分の脱いだ服を入れる前に洗濯機の蓋を閉めてしまったことを。
あぁぁとくずおれながら再び予約をやり直し、風呂に入り、出たときには一日分の疲れでもう一歩も動けないほどになっている。
そして化粧水もつけずに、髪も濡れたままに寝オチしてしまい、翌朝嘆くのだ。
かよ子の夜の戦いは、まだしばらく続く。




