おにいちゃん
二人目ができたら、一人目を優先させた方がいいとよく聞く。
多少赤ん坊が泣いているのを放っておいても記憶には残らないが、一人目の子は自分が大事にされていないと感じ、それを引きずってしまうのだとも聞いた。
そうすると我儘になるし、下の子をかわいいと思えなくなると。
反対に、自分が優先されている、大事にされているとわかると心に余裕ができ、下の子にも優しくできるのだと経験者たちからも聞いていた。
とは言え、かよ子はまだ自分で何もできない、泣くことしかできない赤ん坊を放っておくのは気が咎めた。
まさきの時はかかりきりで面倒を見ていたのに、りくのことは放置では公平ではない気がする。
しかしこれからの二人育児に完璧な公平などない。
互いに性格も違えば求めるものも違う。
兄だから、弟だからを理由に我慢させたくはないと思っているが、二歳の歳の差は事実で、赤ん坊と二歳児に全く同じに接することが公平なわけでもない。
かよ子自身がどうだったかと振り返ってみれば、兄ばかり褒められすごいなと劣等感を感じていたし、妹ばかりかわいがられズルイなと思っていた。かよ子は真ん中だった。
三人兄弟と二人兄弟ではまた違うだろうが、かよ子は兄の気持ちも弟の気持ちも少しわかる気がしたから、どう接するべきか悩んでいた。
ただひたすらに泣くりくのオムツを替え、出の悪い母乳をなんとか絞り出し、食いちぎられんばかりの痛みに馬油を塗り涙を堪え、ミルクを足す。その傍らでずっと悩んでいた。試行錯誤の連続だった。
まさきに絵本を読み、散歩に連れ出し、ご飯をあげて、気づけば夜で、夕飯がまだできていない。これでいいのかといつも悩んでいた。
りくが生まれてから保育園が決まって復職するまでの半年間はそのように過ごしていた。
聞きかじった情報を元にあれこれと試行錯誤してみるものの、日比野家にとっては有用なものも、あまり効果がないものも、様々にあった。
今日うまくいっても明日うまくいくとも限らないのが育児だと思い知ることも多かった。
◇
まさきに絵本を読んでいるときだった。
寝ていたりくが起きて泣き出し、かよ子は一度まさきに「泣いてるからオムツ替えてきていい?」と訊ねた。
まさきは口をむすりと尖らせ、ふるふると首を振った。
「わかった」
そう答えてまさきの頭を撫で、絵本の続きを読み始めたかよ子の手を、まさきは握った。
なるべくまさきを優先しているつもりでも、やはり寂しいのだろう。
これまで昼間は二人だけの世界だったのに、自分のペースでは物事が動かなくなり、行きたいときに散歩にも行けず、公園ではかよ子はずっとベビーカーの傍にいて一緒に遊んでやれなくなった。
かよ子は泣き続けるりくに心で蓋をして、最後まで絵本を読んだ。
「じゃあ、りくのオムツを替えてくるね」
再びそう声をかけると、まさきは絵本をかよ子の手から抜き取り、一人で読み始めた。
「ありがとう」
まさきの頭を撫で、りくの元へ向かう。
オムツをトイレに捨てに行き戻ってくると、まさきが隣の部屋から抱っこ紐をずるずると引っ張ってくるところだった。
抱っこしてほしいのか。最近重くて腰が辛いんだよな。とかよ子が内心で冷や汗をかいていると、まさきはかよ子の前をとてとてと通り過ぎて行った。
向かったのは、りくの寝ているベビーベッド。
まさきは抱っこ紐を自らの腰に不器用に巻き付けていた。
「いく、おにぃちゃんがだっこ、してあげんね。はいはい、いま抱っこすうかあねー。泣かないんだよ」
そう言って重い頭でこくこくと頷いて見せながら、まさきは抱っこ紐のベルトをかちゃかちゃと嵌め始めた。
それを見たとき、かよ子は自分は間違っていなかったのだと悟った。
ずっと必死で、何が正しいかもわからないまま、闇雲にここまで走り続けてきた。
まさきがどう感じているか。りくにもまさきにしたのと同じように愛情をかけてあげられているか。
どちらも大人になってまで寂しい思いを胸に残してしまうようなことがないようにと、言葉で答えを返してくれるわけではない我が子をじっと見ながら、ひたすらにやれることをやってきた。
そんなかよ子の姿を、まさきも見ていてくれたのだと思った。
ちゃんと、家族の一員としてりくを大事に思ってくれている。
それがわかっただけでも、かよ子はここまで頑張ってきてよかったと心から思った。
「まさき、ありがとうね」
そう声をかければ、まさきは照れたように抱っこ紐を外した。
「いまね、いく、泣いてるかあね、泣かないんだよって言ったんだよ」
「ありがとう」
何度もそう言って、まさきをぎゅっと抱きしめた。
まさきは恥ずかしそうにしながらも、ぐりぐりとかよ子の胸に顔を埋めた。
◇
「へー! そんなことも知らないの? 無限は無限なんだよ。一兆マンよりでかいんだからな!」
一兆マンてなんだよ。
新しいヒーローかよ。パンツ一丁で出てきそうでやだよ。
かよ子がキャベツを刻みながらまさきの言葉に内心でつっこんでいると、りくの声が返った。
「知るわけないじゃん。ぼくまだ保育園だし」
ごもっとも。
いつもかよ子がそう言って庇っている言葉を、自ら返すようになったようだ。
「俺なんて二年生だし。かけ算だってできるし!」
本当に保育園児を相手に張り合ってどうすると言いたい。
だが親が口を出すと余計にこじれる。
りくの力を信じ、かよ子はぐっと我慢して口を閉じた。
「ぼくもできるよ。いんいちがいち。いんにがに」
「そーーんなの、一の段なんてチョウ楽勝じゃん。誰だってできるし!」
「ににんがし、にさんがろく、」
「二の段は二ずつ増えるだけだから簡単だし。覚えてなくても数えればできるし」
他の段も基本的には同じだけどね。
「さざんがきゅう、さんしじゅうに、さんごじゅうご、さぶろくじゅうはち」
まじか。
りく、まじか。
本当に覚えたのか?! 天才か!
「俺だって三の段までは覚えてるし!!」
まさき劣勢! 『までは』ってなんだ! もうおさらいに入ってる時期だぞ!
「ろくろくさんじゅうろく、ろくしちしじゅうに」
「はーい間違えたー、違いますー、りくは適当ですー! 六×七は十二じゃありませーん、二十二でーす」
鬼の首を取ったようなまさきに溜まりかねて、ついにかよ子も口を挟んだ。
「りくもっかい言ってごらん?」
「ろくしち、しじゅうに!」
「はーいまちがえでーす!」
「まさき。六×七は四十二です。りくが正解。二十二じゃ三十六より少なくなっちゃってるじゃん」
「え? あ」
なんてことだ。
いつも九九を聞いているりくの方が先に正しく覚えてしまった。
何故必死に覚えようとしている当人が間違える。
二歳の差がこんなところで埋まってしまうとは。むしろ飛び越えられてしまうとは。
まさきもこんなしっぺ返しをくらうとは思ってもいなかったのだろう。
「まさき。年下だからって馬鹿にしないこと。保育園の子には保育園の子なりの、小学生には小学生なりのやることがあるんだから」
かよ子の声が聞こえていたのかどうか。
「じゃ、じゃありく! くくはいくつだ!」
「はちじゅういち」
「まじか!!」
まじか。
「いやいや、くくはちじゅういちは覚えやすいとこだからな。難しいのいくぞ。しちろく?」
「しじゅうに。さっきのろくしちの反対じゃん」
「はちし?!」
「はちさんが二十四だから、八足して、えーと……さんじゅうに!」
まじか。
理屈までわかってる。
ただ耳で覚えてるわけじゃないのか!
かよ子は驚愕した。
天才だ!
だが今は思い切りショックを受け、必死に問題を出し続けるまさきの心のケアの方が重要だ。
これはやる気をなくしても仕方がない案件だ。
「まさき。人には得意不得意というものがあってね」
「いやちょっと、おかーさんは黙っててよ! りく、くくは?!」
「さっきも言ったじゃん。はちじゅういち」
まさきの中でMAX難しいのが九×九なのだろう。二度も敗れてもはや呆然としている。
「まさき。あのね、まさきはまさきなりに覚えていけばいいの。少しくらい時間がかかってもいいんだよ。りくや、クラスの他の子と比べることなんてない。一生懸命覚えようとしてるまさきのこと、お母さんちゃんと見てるよ。焦らず一つずつ覚えていこう! ね!」
「七の段と八の段のスタンプもらってないの、俺だけ……」
「大丈夫! 九九は一生使うから! そのうち覚えるよ」
「え? 一生使うの? じゃあ早く覚えないとダメじゃん」
こんなときだけ正論ぽく返してくるまさきに言葉を詰まらせる。
「いや、うん、そうね、九九は大事だけど、繰り返し練習すれば覚えるものだから。ね。まさきは縄跳びも上手だし、もう逆上がりだってできるしさ」
「それはそれじゃない? 算数に体育関係ないじゃん」
ごもっとも。
「じゃあわかった。今日からお母さんとかけ算の特訓しよう!」
「うん……、わかった。おれ、頑張る!」
親子の熱い絆を交わしたところに、りくがぼそぼそと言う声が聞こえる。
「ごいちがごー、ごーにーじゅー、ごさんじゅうしー、ごしにーじゅー」
まさきがいつもかけていたかけ算を覚えるための歌だ。
それで覚えたのかと納得するが、今のまさきには刺激が強い。
「り、りく、ごめん、もうやめてあげて……」
「りくーー!! じゃあ、はっぱ?」
「それ一番簡単じゃん。ピンゴローのアニメで言ってたし。発破ロクジュウ死! だよ」
アニメの技名で覚えてるのもあるのか!
我が子ながら恐れ入る。
だけど頼む、今はまさきをそっとしておいてあげてほしい。
「そんなん俺だって知ってるしーーーー!!」
お兄ちゃんって大変だな。
かよ子は思い知った。
けれどこんなりくの成長も、まさきがたくさん我慢して一緒に優しく見守ってくれたからなのだ。
まさきの優しさがかよ子に勇気をくれたからなのだ。
りくとまさきが無事に生まれてくれて、こうして育ってくれてよかったと、かよ子は心から思った。




