二人目
まさきが初めてかよ子を呼んだのは一歳半も過ぎる頃だったか。
「おかぁ」
舌ったらずにそう呼んだ。
パパと呼ぶ方が早かったが、かよ子はママと呼ばれるよりもお母さんと呼ばれたい一心で、自らを「ママだよ」と言うことはなかった。
早く自分を呼んでほしくて、何度もママと言ってしまおうかと誘惑にかられはしたが。
りくの出産のためにかよ子が入院したとき、まさきはまだ二歳にもなっていなくて、かよ子がしばらく帰らないことを理解できなかった。
だからまさきは、陽一とまさきしかいない家の中を探し回っていた。
「おかぁ。おかぁ?」
とてとてとすべての部屋を見て周り、かよ子がよくいる台所にじっと立って、何度も周りを見回した。
けれどかよ子はいない。
トイレも何度もドアを開けて、便座の蓋を開けて中まで確認した。
顔まで突っ込みそうになっていたまさきを慌てて陽一が回収すると、今度は風呂場を覗き、気づけばバスタブに膝を抱えて座り込んでいた。
陽一が風呂場のドアを開けると、「おかぁ。なーい」とぽつんと呟く。
「明日、病院に会いに行こうな。弟にも会えるぞ」
「とーと」
「そう、弟だ。名前は何がいいかなあ」
「とーと、いくー! おかぁいくー」
「うん。行こうな。今日じゃないぞ? 明日だ」
陽一は靴下を履き始めたまさきの背に慌てて声をかけた。
眉を寄せたまさきが振り向く。
「おかぁ。」
非難が込められたその目に、陽一は、うっと言葉を詰まらせる。
しかし今はもう夜だ。面会時間は終わっている。
「明日な! 約束するから。な、ほら約束」
陽一が小指を差し出すと、まさきはぷいっと横を向いてしまった。
そして自らテレビをつけ、ソファに膝を抱えて座った。
かよ子のいない寂しさを陽一が埋めることはできない。
かよ子が陽一の代わりにはなれないように。
まさきは、どちらも欠けずにいてほしいのだ。
拗ねずにそれを理解していた陽一は、まさきの隣に座って一緒にテレビを見た。
それから気が付いた。
「いや、今はテレビの時間じゃないな! お風呂入って寝ないと! しまった、お母さんに怒られるぞ」
我に返った陽一はバタバタと風呂の支度をし、眉を寄せるまさきをなんとかその気にさせて風呂にいれ、しまった布団を敷いていなかった、パジャマはどこだっけと駆け回った。
やっとまさきを布団に寝かせ、陽一も隣にごろりと横になって、腹の底から息を吐き出した。
「はあ~。これがかよ子の言ってた戦争か」
大変なのは朝もだけど、夜もなのよ。
そう言っていたかよ子の言葉を思い出し、気づけば陽一はまさきよりも先に寝ていた。
真っ暗な中ではっと気が付いて目を覚ますと、隣に寝ていたはずのまさきがいなかった。
寝相が悪いまさきのことだ。また部屋の隅っこにでも転がっているのだろうとスマホの明かりで照らすが、どこにも見当たらない。
「まさき?」
まさか、かよ子に会いに一人で外に出て行ったのでは。
にわかにパニックになった陽一は、電気をつけ玄関へと向かった。
しかし鍵はきちんと閉まっている。
冷静になれば、まさきの手が届くはずもない。
ほっとしながらも、ではどこにいったのかとリビングに戻れば、どこからかスースーと寝息が聞こえた。
ソファの上にもいない。
床に転がってもいない。
どこだ? と必死に耳を澄ませ、ぱっと駆け出した。
まさきは台所にいた。
寒くなったのか、足元に敷かれていた長いマットをぐるぐると体に巻き付けている。
くるりと体を丸めるようにして眠っているのは、いつも陽一が仕事から帰ってきて見る姿だった。
いつもはかよ子の腕の中で、こうして丸まって眠っているのだ。
陽一は起こさないようにそっとまさきを回収しようとして、苦労した。
巻きついたマットからまさきを剥がすには、まさきをころころと転がすしかない。
しかし固い床の上でそんなことをするのはかわいそうだ。
なんとかすぽっと抜けないかと何度か試み、やっと腕に抱えて寝室へと戻った。
陽一はかよ子がしていたように、まさきの丸まった体を包み込むようにして横になった。
まさきが陽一の胸元をきゅっと掴んでくるのがわかった。
陽一はしばらく、まさきの丸い形のよい後頭部を撫で続けた。
◇
翌日、陽一はまさきを連れてかよ子の面会に向かった。
赤ん坊は黄疸が出ているとのことでガラスの向こうでしか会えなかったが、かよ子には会うことができた。
「まさき。ちゃんとご飯食べた? いっぱい寝た?」
笑み崩れて歩み寄ってきたかよ子に、しかしまさきは近寄ろうとしなかった。
面会室が珍しいからなのか、絵本を引っ張り出したり、水道の蛇口に手を伸ばしたり、ちょこまかと落ち着きがない。
想像していた感動の再会と違ったのだろう。
かよ子はショックを隠さない顔で寂しげにそれらを見つめていたが、しばらくするとやっとまさきが椅子に座っていたかよ子の膝によじ登って来た。
産後のかよ子には、正直辛い。痛い。
しかしこれ以上距離ができてしまう方がもっと辛い。
かよ子は底力で耐え、まさきを膝に抱え上げた。
「一週間したら帰るからね。おかあさん、ちゃんと帰るから。だからご飯しっかり食べて、たくさん寝て、たくさん遊んで待っててね」
そう言うと、まさきはぷいっと横を向いてしまった。
「これ、もしかして怒ってるのかな?」
ショックに眉を下げて陽一に問うが、陽一もそんなことはわからない。
二人、なんとも言えずまさきを見守っていると、まさきはかよ子の腹にそっと手を伸ばした。
服を掴み、そこに何もないことを確認すると、ぺらりとめくって中に顔を突っ込む。
「ああ、大きかったお腹がないからびっくりした?」
やや皮がたるんだお腹を、ぽにょんぽにょんともてあそぶまさきに、かよ子は笑った。
「そこにまさきの弟がいたんだよ。さっき見てきたでしょ? まさきと同じ、かわいい赤ちゃんだよ」
かよ子の腹に飽きたのか、まさきは膝から降りて再びあちこちを探検し始めた。
そのうち授乳の時間になってしまった。
入院中も母は忙しい。
授乳に、オムツを替えて、その合間に診察や沐浴教室、ご飯、清拭、検温など休む暇もないほどだ。
「まさき、またおかあさんに会いに来てね」
そう声をかけたが、まさきは言葉を発さなかった。
仕方なくぎゅっと抱きしめてエレベーターの前で別れた。
陽一とまさきが手を繋いで病院を出たとき、まさきがくるりと建物を振り返った。
「かあ。かあ。」
「ははは、カラスか。カラスも鳴くから帰ろうなー。今日のご飯は何にするか。コンビニか、スーパーマルセンの弁当か、ほっくほく弁当か。まさきは何がいい?」
「ぱん」
「パンかー! パンじゃパパはお腹いっぱいにはならないなー! せめてハンバーガーにしような! よし決定!」
そうして二人は家へと帰っていった。
まさきは何度も病院を振り返り、「かぁ」と呟いた。
その話を退院後に陽一から聞いたとき、かよ子は泣いた。
「やっぱり私に会いたかったのね。そっけなかったのも、まさきなりに複雑だったのかも。なんで家にいないのかって、怒ってたのかも。だけどやっぱり私が恋しかったのよ」
「え? いや、カラスがいたから鳴きまねしてただけだろ?」
永遠に男と女の溝は埋まらないと思うのは、こういう時かもしれない。
かよ子はその思い出を自分の胸に温かく仕舞うことに決めた。
いつかまさきが大きくなったら聞かせることを楽しみにして。




