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車とトイトレ

 子連れのお出かけに怯える時期というのは何度かある。


 生後半年が経ち泣き声が大きくなった頃、泣き止まずにおろおろする。

 二歳のイヤイヤ期、どうしても連れて行かざるをえないスーパーでの買い物で床に寝転がってじたばたされる。

 そして次がトイレトレーニング、通称トイトレの時期だ。


 幼稚園に通う場合は多くが入園前にトイトレを済ませておくように言われる。

 保育園の場合は日中のほとんどを保育園で過ごしていることもあり、トイトレも保育園と家庭の二人三脚で進めることが多いだろう。

 まさきもりくも保育園だったから、かよ子にとっては保育園様様だった。

 しかし一週間のうち五日は保育園であり、親のほうが慣れていないがゆえにお出かけ時に失敗することがある。


 かよ子は出かけるときは周囲の人の迷惑になることも考えて、オムツをはかせたかったのだが、りくはそれを嫌がった。

 確かに、パンツをはけと言っておきながら、出かけるときだけオムツをはけというのは都合のいい話である。

 そう考えて諦め、パンツを出せと掌を突き出すりくに仕方なくパンツを差し出し、意を決して出かけた。

 なるべくこまめにトイレに行かせたりと、飲み物をどれくらい飲んでいるか冷や冷やと気にしながら、用事は手短に済ませた。


 そんな中、かよ子とりくは友達の親子と車で出かけることになった。


「会うの久しぶりだよねえ。まさき君は旦那さんに任せて来ちゃってよかったの?」


「いいの、いいの。男同士でなんか企んでたから。あの二人は放っておいてもなんやかやと楽しそうに一緒に何かやってるのよねー」


「へえ。なんかいいね。いいパパじゃん」


「ははははは子どもが三人いるだけだよ」


 謙遜ではない。

 事実だ。


「リルちゃんも大きくなったねえ。りくと同い年の子がいるママ友って他にいないからさ。リルちゃん、仲良くしてねー」


「別に」


 同じ四歳とは思えないクールさにたじろぎ、下手に触れるのはやめようとかよ子は誓った。


「下の子のママ友って、できにくいよねー、わかるわ。上の子の時は一生懸命友達つくろうと頑張るんだけどさ、そこで力を使い果たしてるし、既に人間関係に満足してたり疲れてたりして、下の子の時に新しい友達つくろうとは思えないんだよね」


「そうなのよー。私の場合はもういっぱいいっぱいで、そんな余裕なかったってのも大きいけど」


 まさきを産んで一年休職し、どこも保育園がいっぱいで入れず待機しているうちにりくの妊娠が判明し、そのまま産休となり、結局三年間休みをとった。

 そこから職場復職すると、新人よりも仕事は出来なくなっているし、短い時間ながらも働いてくたくたな中保育園に迎えに行き、母がいなかった寂しさを埋めるようにぐずぐずと我が儘をさく裂する二人に翻弄されながら夕食の用意をし。

 毎日が一分一秒息つく暇もないくらいばたばたとしていて、今思い出すだけでも疲れてしまう。

 保育園の懇談会があっても、ヤンチャなまさきが普段迷惑をかけていないかが気になってそちらに出てしまうし、りくのクラスのママたちとはあまり接点がないままだった。


 まだ寝返りもできないうちにりくを保育園に預けることになり、後ろめたさと子どものためにも働かなければならないという現実との間で板挟みになり、何度も泣いた。

 そんなかよ子がりくとまさきを預けて最寄りの駅で電車を待っていたところ、りくと同じクラスのママたちの会話が聞こえてきたことがあった。


「やっと子どもを預けて自由になれたよね。お昼ご飯に何食べようって、毎日もう、そればっかり」


「だよねー。妊娠中はつわりでロクに食べられないし、その後も体重管理やら赤ちゃんのアレルギーの心配やらで好きな物を好きに食べることもできなかったしさ。産後は母乳に出るからって言われるし、その後は子連れの外食なんて疲れるだけだから行く気力もなかったし。やっと好きな物を好きに、ゆっくりと味わって食べられるんだもんね」


「飲み会に行けないのは、旦那が行くのは当たり前なのになんで私はダメなの? って腹が立つけどね!」


「まあそれもおいおい、行けるようになるよね。いや、絶対いこう。いこうね!」


 同意の嵐だった。

 わかる。激しくわかる。と話に入りたいくらいだった。

 しかしそれをしなかったのは、かよ子の中にはまだ幼いりくを保育園に預けているという後ろめたさを整理しきれていなかったからだ。


 りくは四月にちょうど六か月になったばかりだが、他の子は多くが十月以降に生まれた子で、ほとんどが一歳になっていた。

 この頃の一年というのはとても大きい。

 実際りくは、入園したときにはできなかった寝返りが一か月でできるようになり、その後の四か月で歩くまでになったのだ。

 そのすべてをかよ子は傍で見届けることができなかった。

 あらゆる『初めて』は保育園で見守られ、その報告を受けるだけだった。


 虚しささえ感じた。

 せっかく子どもを授かったのに、無事に生まれたのに、自分は何をしているのだろうとよく思った。

 勿論、食べて行くためには働かなければならない。

 それはわかっているが、自分が親なのに、何故子どもの成長を見届けられないのだろうかともどかしく思った。


 ないものねだりだとわかってはいても、割り切れないのが親心なのだろう。


 そんな葛藤をリルの母である沙菜にはよく話したものだった。

 互いにママであるからママ友だと自認しているが、かよ子にとってはずっと付き合っていきたい友人だった。

 短気なかよ子とは正反対の性格だったが、それゆえ沙菜には学ばされることも多い。


「トイレ行きたい」


 唐突にリルの声が聞こえ、かよ子は慌てて助手席を覗いた。

 リルは前方を見つめたまま、唇を引き結んでいる。

 沙菜は運転している最中であり、近くにトイレを借りられそうなお店も公園もない。


「あ~。ごめん、さっきトイレに行っておけばよかったね」


 沙菜はそう呟きながらも、リルを時折ちらりとみやり「まだ我慢できる?」と声をかけていた。


「オムツあるよ! リルちゃんにはかせようか」


 後ろからそう声をかけるが、間に合わなかった。

 助手席から、ぐすぐすと啜り上げる声が聞こえて、運転中の沙菜は左手を伸ばし、リルの頭をポンポンと撫でた。


「ごめんね、リル。今日のはお母さんが悪かった。車に乗る前にちゃんとトイレに連れていってあげなかったもんね。さっき、ちゃんとトイレに行きたいって言ってくれたね。教えてくれてありがとうね。間に合わなくてごめんね」


 沙菜のその言葉に、かよ子は言葉がでなくなった。

 驚いた。

 かよ子の中には、そんな言葉はなかったから。


 あ~、車が汚れた。チャイルドシートのカバー外して洗うの大変なんだよなあ。着替えは持って来てたかな。


 かよ子だったら、きっとそんなことしか考えられなかった。

 そして一も二もなく、りくを叱っていただろう。

 だが沙菜が言うことはもっともだ。

 まだりくたちはうまくおしっこを我慢することも自分で予兆することもできないのだから、大人が助けてやらねばならない。


 トイトレなんて面倒。

 あちこち汚されて大変。

 早くこの時期を切り抜けたい。


 そんなことばかり考えていた。


「沙菜、すごいね」


 正直にそう言えば、沙菜はなんということもなさそうに「そう? 本当のことでしょ」と返した。


 かよ子はいつもりくを責めてばかり、怒ってばかりだったなと気が付いた。

 できなくて当たり前のところからスタートしているのに。


 かよ子は隣で一人小さく歌をうたいながら大人しく乗っていたりくを振り向き、「ごめんね」と声をかけた。

 りくはかよ子を見たものの、歌うのをやめないまま、また窓の外を眺め始めた。


 育児とは気づきと反省の連続である。

 いくら保育園に預けている時間が長くても、親は自分。

 最近手慣れてきたつもりでいたかよ子は、久しぶりにそのことに気付かされた一日だった。

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