虫取り
多くの小学生と園児にとって、夏と言えば虫であろう。
日比野家もその例に漏れず、夏休みに入ると毎日のように虫取りに行きたがる。
学童や保育園の帰り道で虫取り網がなくても、手と足があれば虫は捕まえられる。
トンボに蝶、そして蟻。
捕まらなくとも追いかけ、捕まえようとするただそれだけで多くの時間はあっという間に過ぎていくのだ。
早く家に帰りたいかよ子を振り回して。
田舎育ちで自分自身も子どもの頃に虫取りばかりして過ごしていたかよ子がそれを苦い目で見ているのは、振り回されているからだけではない。
否応なく生と死と子どもの教育のあり方を考えてしまうからだ。
子どもたちの生き物への触れ方は、基本的に雑だ。
どれだけ注意しても、捕まえることに必死になってしまってすぐに荒くなってしまう。
一体虫の命をなんだと思っているのだろうか。
そう思ってしまうが、それを教えるのが親の役割である。
だがかよ子はいつも頭を悩ませる。
「生き物はそっと触ろうね」
「小さい生き物にとっては、人間が触るのは丸太がぶつかってきたくらいに痛いんだよ」
「命はなくなってしまったら二度と元には戻らないんだよ。大切にしようね」
「虫取り網の淵に当たってるよ! 蝶が真っ二つだよ!!」
「いや、ちょ、捕まえたバッタをカゴに入れたいのはわかるけど、そんなぎゅっとしたら、あっ、待って、挟まっちゃう、蓋閉めるの早い! あっ……」
「カゴから逃がすときに放り投げるな!! いやカゴをぶんぶん振って落とそうとするな! ちゃんとそっと逃がせ!」
「ミミズは捕まえなくていい。お持ち帰りもしなくていい。なんの幼虫かわからん虫も拾ってくるな。やわらかい戦利品をお母さんに見せなくていい」
「トンボのそこ持つなーーーーーー!!」
これまで幾度となく、教えてきたつもりである。
そのつもりであるが、好奇心と欲と早く捕まえないと逃げちゃうという焦りの前に正論や道徳心が介在する余地はとても少ない。
どうしたらもっと丁寧に生き物を扱うのか。
こんな風に無残に命が失われていくのなら、うちの子に限ってはいっそ虫取りは禁止すべきではないのか。
だがそれも長い目で見た時に正しいと言えるのだろうかと悩んでしまう。
幼いうちに小さくとも命は命であることや、簡単に命が失われてしまうから大切にしなければならないということをこうして身をもって学ばせることも必要なのかもしれないと思うのだが。
しかしそこにこれほどの犠牲があっていいのかと罪悪感に胸が痛んで仕方がない。
かよ子はいつも悩んでいた。
社会人になって数年の時、公園で遊んでいた小学校高学年くらいの子がセミの羽をむしっては捨てているのを見て、思わず「何してるの? かわいそうだよ」と声をかけたことを思い出す。
少年は何を言っているのかわからないという顔をしていた。
その光景にぞっとした。
かよ子だって、忘れているだけで子どもの頃に似たようなことをしていたのかもしれない。
けれど、それをしなくなる境はいつなのだろう。
いつまで「子どもだから仕方ない」で済まされるのだろうか。
少なくともそれを見ていた大人は仕方ないで済ませてはいけないのではないだろうか。
そう思い、かよ子はいつも必死に言い聞かせているのだが、現実にはまさきにもりくにもまだわかってもらえているかわからない。
今はまだわかってくれていなくても、これからも日々言い聞かせていくしかないと、いつものような結論にしかならず、こうして虫取りの季節になると憂鬱になる。
捕まえた虫はなるべく傷つけないようにそっと観察してその場で放させるようにしているが、それでも無傷というわけにはいかない。
夏の思い出の一つである虫取り。情操教育にもなる。それ自体は悪いことではない。
ただ無頓着に見える子どもたちの代わりに一身に申し訳なさを胸に抱くかよ子にとっては、悩み深く、心から歓迎できない夏の風物詩なのである。




