漢字表記と仮名表記
最初に述べておきますが、この節の内容は複雑です。本質的に難しいからではありません。極めて雑多で煩雑だからです。
まずは例を挙げましょう。
お歳暮を下さり、ありがとうございました。
お歳暮をくださり、ありがとうございました。
お歳暮を送って下さり、ありがとうございました。
お歳暮を送ってくださり、ありがとうございました。
違いは「くださり」と「おくってくださり」の表記の差のみです。どれが正しいのか。結論を言えば、正誤はありません。どれも正しく読めますし、正しく理解できます。つまり日本語としては、漢字表記も仮名表記も正しいのです。
戦前の文部省は、動詞は全て漢字表記でと指示していました。つまり、一番の「下さり」と三番の「送って下さり」を使えと。戦後の文部省や文部科学省は、使い分けをと指示しています。つまり、一番の「下さり」と四番の「送ってくださり」です。
戦後の文部省の指示には一理あります。「送って下さり」は、「送る」と「下さる」で形成される複合的な動詞句です。そして、「送る」が主たる意味を担う一方で、「下さる」は補助の役割を果たしているに過ぎません。この場合、主たる動詞を漢字で表記し、従たる動詞は仮名で表記した方が読みやすくなります。つまり、この表記の使い分けは可読性の向上を目的とするものです。要するに、字面に関する問題なのです。
ただし、字面の問題では済まない場合もあります。例えば「行ってくる」や「見てくる」。この「くる」の漢字表記は「来る」です。つまり、「行って来る」や「見て来る」が完全なる漢字表記です。
まずは仮名表記の方。「行ってくる」は「いずれはここへ戻ることを前提に、どこかへ移動する」という意味の語です。「見てくる」も同様。つまり、戻ることは単なる前提、これからどこかへ移動することが主です。
一方、漢字表記の方。「来る」も漢字表記なので、補助ではなく主たる意味を持つことになります。つまり、「行って来る」は「どこかへ移動し、次いでここへ戻る」という意味になります。「見て来る」は「どこかへ移動し、何かを見て、ここへ戻る」との意味になります。要するに、往と復を明確に同等に主張しているのです。例えば次の文。
「それでは行ってきます」
僕のその言葉に、長老は微かに首を傾げた。
「よいか。行って来るのだぞ」
僕はハッとした。
「はい。必ずやかの地に到達し、邪悪なるドラゴンを打ち倒し、必ずや帰ってきます」
この節を読んでいる皆さんは今、何を思っているのでしょう。私は今、この節を書きながら溜め息をついています。冒頭にも記したように、あまりにも雑多で煩雑です。なぜ、こんなことを解説しているのか。それは後に説明することにして、話題を変えましょう。
念のためにまず書いておきますが、このような場で現実の日本社会を論じるつもりはありません。以下は、事実関係の概略に過ぎません。
世の中には、いわゆるお上からの指示を、なんでもかんでも絶対服従の命令と受け取ってしまう人もいるようです。しかし、それは誤りです。お上からの指示には、何らかの強制力を伴う全員に対する命令、何らかの強制力を伴う一部の者に対する命令、強制力を伴わない全員に対する推奨、強制力を伴わない一部の者に対する推奨などがあります。
文部科学省による漢字と仮名の使い分けは、何らかの強制力を伴う一部の者に対する命令です。一部の者とは、文部科学省の関係者、小中高の教員、検定教科書の執筆者などです。それら以外の者にとっては、どうでも良いとまでは言いませんが、守らなくても構わないのです。
例えば「および、及び」という接続詞。文部省訓令は仮名表記を、内閣訓令は漢字表記をと指示しています。つまり、それらの指示は内規なのです。しかも、文部省訓令の方には「漢字表記も可」との但し書きが、内閣訓令の方には「原則として」との但し書きがあります。つまり、両者ともに差異の存在を認識しているのです。
さらには国語辞典。例えば小学館大辞泉では、例えば「手続き」の「き」は、基本的には付けるが省略しても良いと記されています。一方、内閣訓令では「手続」のように、「き」は付けないとされています。
話は官庁や辞典に留まりません。新聞社、テレビ局、出版社、その他の各社、各種業界団体。それぞれが独自に表記に関する内規や推奨事項の一覧を作成しています。そして、てんでばらばらとまでは行きませんが、やはりそれなりに差異があります。
つまり、あちらこちらに独自の主張。それでも、正しく読めて正しく理解できる。そうであれば、そこにあるのは差異であり、正誤ではありません。表記には許容し得る揺れがあり、その中でそれぞれの内規等はそれぞれに一つの体系を成しているのです。
ここからは、この解説書の趣旨に沿って話を進めます。つまり、大人を想定読者とする長編小説を書く件です。
小説を書こうとする人、その中でも特に生真面目な人はほぼ間違いなく、いずれ泥沼に陥ります。土壺にはまります。正しい日本語で書きたいと。
もちろん、日本語には文法があり、正誤の問題もあります。それと同時に、日本語は任意性の高い言語でもあります。正誤と差異の区別が付かないままに、正しさを追究し続けてはいけません。
小説を書こうとする初心者には次のように推奨します。
小説を書く以上、正しい日本語を知っていなければなりません。ただし、それは努力目標であり、最初から完璧である必要はありません。いや。そもそも、本物の国語学者でもない限り、完璧な文章など書けません。正しさの追究がこの節の前半部分の水準に達したら、追究はそこでやめて小説の執筆に専念すべきです。
さらに、現実的な推奨をします。
初めて小説を書こうとする人の中には、自身があまりにも文章を書けないことに愕然とする人もいるはずです。原因は訓練不足です。学校の国語の授業は読むことに傾いており、書く機会が少なすぎるのです。
頭を掻きむしっている人は、まずは凝らずに、教科書風の平易で素直な文章を念頭に置きましょう。あくまでも「風」で構いません。率直に言って、既刊小説の大半は文部科学省の指示になど従っていません。もちろん、完全に無視している訳でもないのですが。それでも、教科書風の文章は書き方のモデルに十二分になり得ます。
ちなみに、長々と文章が書かれている教科書は国語以外にもう一つあります。社会です。小説用の文体ではありませんが、それでも、論理的ですっきりとした文章を書く際の参考にはなるでしょう。
次に、単語の表記法や使用法に関しては、手持ちの国語辞典に従いましょう。出所の明らかな立派な辞典であれば、どれでも構いません。その辞典の指示が他の辞典や文部科学省のものと異なっていたとしても、気にする必要はありません。それは正誤の問題ではなく差異ですから。
ちなみに、地の文の自由度の節で、片っ端から仮名表記、片っ端から漢字表記の件に触れました。その種の極端な書き方も決して誤りではありません。ただし、すでに述べた通り、標準から外れすぎると読者を得られなくなります。
この解説書の各所で、「迷ったり分からなくなったりしたら教科書を参考に」と推奨しています。この推奨には言外の意も含まれています。つまり、迷っていないのなら、そのまま書けば良い。分かっているのなら、好きに書けば良いのです。
実践を通して以上のことを理解できたら、次の段階として、正誤の問題に触れない範囲で独自の規則を設けても良いでしょう。私は例えば次のような規則を設けています。
例文というよりはまさにこの短文「私は行った」は、通常どのように読まれるのでしょう。おそらく、まずは「私はいった」です。そして、その小説の読者はふと気付きます。前後の文脈から推測すると、これは「私はおこなった」だと。
読者にそのような些末な読解を要求すると、没入感が無意味に削がれてしまいます。ここで国語辞典の出番です。例えば大辞泉には、「おこなう」は「行う」と書くのが基本だが、「行なう」と書いても良いと記されています。これを念頭に置けば、「私は行った」と「私は行なった」の表記分けを単純明快に「行なえる」ようになります。
なお、独自規則を設けるに当たり、機械的で一律な規則は作らない方が賢明です。自然言語は例外満載なのですから。
例えば、二つの動詞からなる複合的な動詞句では、第一の動詞は漢字で、第二の動詞は仮名で書く。そんな規則を作ってしまうと、「食べ歩く」は「食べあるく」になってしまいます。「呼び戻す」は「呼びもどす」になってしまいます。すでに述べた通り、これは正誤の問題ではありませんが、無意味な仮名表記でしょう。「歩く」も「戻す」も補助的に使われている訳ではありませんし。
さらに言えば、「別の場所からここに移動する」という意味の語。大辞泉によれば「遣って来る」です。ただし、「遣」を「や」と発音するのは常用漢字音訓表にない読み。音訓表を尊重すれば、「やって来る」と表記することになります。しかし、ここに架空の独自規則を適用すると「遣ってくる」になってしまいます。これでも読めないことはありませんが、さすがにこれは見慣れないと言わざるを得ません。




