【上級】ファンタジア
事前に述べておきますが、私はファンタジアの専門家ではありません。
会話文とスーパーリアリズムの節で述べた通り、頭の中に想像の世界もしくは仮想世界を生成する能力をファンタジアと呼びます。ここで言うファンタジアはあくまでも想像力であり、創造力ではありません。そして、ファンタジアの高低は作品の質や出来栄えに大きく影響します。
ファンタジアが無い人はアファンタジアと呼ばれます。ファンタジアが極端に低い人はハイポファンタジアと呼ばれます。逆にファンタジアが極端に高い人はハイパーファンタジアと呼ばれます。
ここで一つだけ強調しておきます。ファンタジアの高低は医学的な意味での障害とは全く別の話です。ファンタジアが無くても、もしくはファンタジアが低くても、それは障害ではありません。個性に分類される個々人の特性です。
また、ファンタジアは知性や感情や発想力とは全く別の特性です。実際、アファンタジアの研究を行なっている研究者の中にもアファンタジアの人がいます。つまり、ファンタジアの有無に関係なく、高度な知性を持っている人はいるのです。
アファンタジアの概念が公に提唱されたのは千八百年代後半です。しかし、障害ではないために研究は全く進まず、研究が進展し始めたのはつい最近のことです。
そのため、アファンタジアがどれだけ存在しているのか、その推定値も徐々に変わっています。しばらく前までは数パーセントと言われていましたが、最新の研究では五から十パーセントとされているようです。つまり、割合としては少数、ただし絶対数としては無視できない程度には存在していることになります。一方、ハイパーファンタジアは現在でも数パーセントとされているようです。
なお、あくまでもこの解説書の中だけの話ですが、アファンタジア、ハイポファンタジア、知識や経験の乏しさゆえに想像が難しい人、それら三つを合わせてアファンタジア的な人と呼ぶことにします。
次のようなことを行なってみてください。ただし、これはアファンタジアかどうかを判定するための専門的な試験ではありません。あくまでも、自分で自分の傾向を認識するための作業です。
目を閉じて、頭の中で好きな異性を想像してみましょう。身近な人でも、芸能人でも、二次元キャラでも構いません。そして、色々なポーズをとってもらいましょう。踊ってもらいましょう。あなたに抱き着いて「好きだよ。何々さん」と言ってもらいましょう。もちろん、あなたも頭の中で「僕も」、「私も」と答えましょう。
目を閉じて、どこかの景色を想像してみましょう。街中でも、山でも海でも、何ならあなたが今いる部屋の外でも構いません。そして、木々が揺れたり、人が通り過ぎたり、そのような光景を出来るだけ細部まで想像してみましょう。また、風の音や人の声や雑踏の雑音を聞いてみましょう。
その一。内なる声、つまり心の内で自分の声を出す、心の内で自分や他人の声を聞く。それが出来ない人や難しい人は以下の点に注意しましょう。
学校の国語の授業では、まず「声を出して文章を読め」と言われ、次いで「実際の声は出さずに心の中だけで声を出して読め」と言われ、その指示の意味が分からずに嫌な想いをすることもあったのではないかと推察します。その種の人が日本語のリズムを身に着けるのは中々に難しいのかも知れません。
その種の人が小説を書くのなら、例えば太宰治作「走れメロス」を目標にするのも良いでしょう。つまり、事態の推移を中心にゴリゴリとした切れの良い短文を書き連ねていくのです。ただし、潜在意識から沸き上がる文章をそのまま書き記すのではなく、敢えて時間を掛けて落ち着いて執筆しましょう。「走れメロス」を目標にするかどうかはともかく、まずは言葉のリズムなどは度外視しましょう。文章の見た目が良くなるように、いわゆる目が滑る文章にならないように注力しましょう。
その二。心の中に景色を思い浮かべる、つまり心象風景を作る。それが出来ない人や難しい人は以下の点に注意しましょう。
その種の人には人物描写や情景描写が難しくなるかも知れません。人物や景色を描写する際には、情報の欠落に注意しましょう。どのような事項をどの程度まで描写するのかをあらかじめ決めておき、人物、建物や部屋、風景の写真集などを手元に置き、それらを眺めながら簡潔に記述するのも一つの手です。
その三。アファンタジア的な人は、ある種の事柄について誤解をしやすくなることが知られています。
例えば、目を閉じて想像してみましょうと述べました。しかし、他者の内情を知らないアファンタジアは次のように考えます。何を言っているのだろう。そんな話はあり得ない。そんなことが出来るはずはないと。しかし、多くの人は程度の差はあっても、五感をもって体験したことは、特に目で見たり耳で聞いたりしたことは脳裏で再現できるのです。
例えば、一生懸命に情景描写をしたところで、どうせ真面目に読んでいる読者なんているはずがないと考える。そうではないのです。多くの読者は情景描写に独自の想像を加えて、脳裏で再現しています。物語への没入はそのような無意識の作業によって発生するのです。単純に文字情報を論理的に解釈するだけでは没入感は中々に生じないのです。
余談になりますが逆に、小説の対極、論理の権化である数学書などにも没入できるような人もいます。定理と証明、定理と証明。読み進めるたびに、そのような人の脳裏では様々なイメージが湧き上がります。ハイパーまで行かなくても、ファンタジアはそのような形でも現れます。
誤解が心配な人は、黙して語らず、もしくは近しい人に相談しながら、まずは作品を周囲の一部の人に読んでもらいましょう。
その四。逆にハイパーファンタジア的な人は以下の点に注意しましょう。
会話描写の典型的な失敗例の節で述べましたが、頭の中の情景をそのまま記述してはいけません。それは作者の認知であり、読者の認知は逆順です。あなたも読者側に回れば、それは分かるはずです。
いくら頭に思い浮かぶからと言って、人物描写や情景描写を細かくしすぎてはいけません。だらだら長々とした描写は退屈ですし、どれだけ緻密に描写したところで結局は写真一枚の表現力にさえ及ばないのです。そもそも読者にとっては、いくら細かく描写されても知識が無ければ想像すらできません。
例えば、道端のエニシダがどうのこうの。エニシダを知っている日本人がどれほどいるのでしょう。エニシダはイベリア半島原産の黄色い花をつける低木です。木全体が有毒で、枝は箒の材料となり、魔女の箒もエニシダ製とされています。
ちなみに、エニシダに恨みがある訳でも、特定の誰かを皮肉って書いている訳でもありません。昔に受けた英語の講義のテキストに、道端のエニシダがどうのこうのと散々書かれていたのを思い出しただけです。いくら植物名を連呼されたところで、知らないものは知らない。それで終わりという話です。
例えば、女性の髪形や化粧や衣類や持ち物を長々と詳細に描写してしまう。これは女性作者がやりがちな失敗です。そのようなことに興味の無い女性読者には伝わらないでしょうし、男性読者にとっては意味不明なだけです。
例えば、戦艦や武器や電車やゲームなどを長々と詳細に描写してしまう。これは男性作者がやりがちな失敗です。大きさや形や性能やその他もろもろを意味不明な用語で長々と描写されたところで、以下同様。
描写の粒度の節でも述べましたが、この問題に正解はありません。しかし当然、中庸という視点はあり得ます。人物描写や情景描写は適切かつ程々にし、あとは読者の想像に任せた方が良いでしょう。
その五。作者の立場に立つ全ての人は以下の点に注意しましょう。
創造力は見られるのに、想像力は見られない。つまり、面白そうな話が進行していることは分かるのだが、物語世界の姿が良く分からない。新聞記事並の簡潔な1H5Wと事態の推移に関する記述、それ以外は会話文ばかり。そんな作品になってしまう理由はおそらく次の五つです。以下は最もありそうな順に並べてあります。
一つ目。世界を描写する手法を知らない。二つ目。手法を知ってはいるけれど手抜きをしている。三つ目。描写の素材となる体験や知識が少ない。四つ目。他者から影響を受けて、描写は無い方が良いと思い込んでいる。五つ目。作者自身にアファンタジア的な傾向があり、描写は無意味だと思い込んでいる。
ここでは四つ目に関して注意を促しておきます。
インターネットが普及し、世の全ての人が意見を公にできる時代となりました。その結果として現在、矛盾する様々な言説が出回っています。
例えば、感想文投稿サイトなどでは次のような感想が散見されます。この作品は会話文が多いから読みやすい。この作品は地の文が多いから読みにくい。この種の感想を読み違えてはいけません。「地の文は平易簡潔であるべき」との主張と「地の文は無い方が良い」との主張が混在しています。
会話文とスーパーリアリズムの節で解説しましたが、地の文と会話文では臨場感が違います。そのためおそらく、アファンタジア的な読者は地の文の存在自体に倦怠感を覚え、それが後者のような感想となって現れるのでしょう。
読者の立場に立つのなら、好きに読めば良いのです。ファンタジアの高低に関係なく、全ての読者は興味のない箇所を自由に読み飛ばせます。そのように容易に対処法が見付かるからこそ、アファンタジアは障害ではないのです。ですから、作者の立場に立つのなら、アファンタジア的な少数意見に安直に耳を貸してはいけません。
小説はアファンタジア的である方が好ましいと考える作者は、少数のアファンタジア的な読者しか獲得できません。仮に小説投稿サイトで高い評価を受けたとしても、そのまま書籍化してみると一般には全く受けない。当然そうなってしまいます。
もちろん、アファンタジア的な読者への配慮など必要ないと述べている訳ではありません。配慮の有力な手段としては、頻繁に挿絵を加えることなどが考えられます。ファンタジアの高い読者は挿絵を嫌うかも知れませんが、全く同様に挿絵も無視しようと思えば無視できます。いずれにせよ、それは小説の執筆とは全く別の話です。
情報の過多は問題だが、情報の欠落は致命的である。小説は仮想世界をきちんと内包しなければならない。そのことを良く理解しましょう。
次のような意見を目にしました。「私にはファンタジアがある。しかし、読書中にイメージが浮かび上がったことはない。それが一般的なのではないか」と。その件、確かに私にも思い当たる節はあるにはあります。
個々人の実体験はまさに実際に経験したことなのですから、他者が否定するような事柄ではありません。しかしおそらく、その解釈には見落とし、もしくは誤りがあります。
例えば、次のかなり強烈な例文。
瑞々しいレモン、塩を吹いた梅干し、かぶりついた。
ファンタジアを有しているのなら、この例文を読めば何らかの印象のようなもの、もしくはイメージ、もしくは映像が脳裏に浮かぶのではないでしょうか。私の場合は、レモンや梅干しの外形が浮かびます。その上、唾液まで出てしまいます。皆さんにも同様に何かが浮かぶのであれば、本来読書中にイメージが浮かび上がらないはずはないのです。ここで本来と書きました。つまり、本来的ではないことも起こり得ます。
ファンタジアを有しているにもかかわらず読書中にイメージが浮かび上がらない主要な原因はおそらく二つ、脳の疲労、速読の習慣です。
まずは脳の疲労の件から。以下は私の体験です。おそらく同種の経験をしたことのある人はいると思います。
新しい本を手に取り読み始める。ストーリーに引き込まれる。随所でイメージが湧き上がる。しばらく読み進めると、文章は読めるし、内容は理解できる。しかし、イメージが湧かなくなる。とことん読み進めると、内容を把握できなくなる。文章を読めなくなる。最悪の場合は文字がゲシュタルト崩壊してしまう。
読書中、脳は二つの働き方をしています。第一は文章を論理的に解釈する。これは読者が意識的に行なっている作業です。第二は文章の内容から何らかのイメージを生成する。これは無意識に行なっている作業です。
読書を続け、脳が疲れてくると、第二の作業が徐々に行なわれなくなっていきます。無意識の作業を行なう余裕など無くなってしまうのです。さらに脳が疲れてしまうと、第一の作業でさえ行なえなくなります。
つまり読書中、最初から最後まで何のイメージも湧かなかったとしたら、脳が慢性的に疲れている可能性があります。
次は速読の習慣の件。速読の対義語は熟読でしょう。熟読の中の何らかの要素を犠牲にすることによって速読は可能になります。
特に物語性の強い小説に対して速読を行なう際には、事態の推移つまりストーリー展開と、登場人物の言動に意識を集中させるのが一般的でしょう。すると、それ以外の要素を除外しがちになります。例えば、文章表現の深さや余韻、情景や人物の描写、物語の背景、陰のストーリー。つまり、読書中にイメージが湧かないのではなく、イメージが湧かないような読書法を採っているのです。
この点に関しては、抒情性の強い小説の愛好家や、ガチガチの推理小説マニアの見解を聞いてみるのも良いでしょう。それらの読者にとっては、速読などはもってのほかです。例えば、列車の車窓から眺めた景色を書き連ねた旅日記。読者は、あんな風景、そんな風景を思い浮かべながら読み続けていることでしょう。例えば、難解なミステリー。読者は目を皿のようにしながらヒントを探し求め、事件現場の詳細を思い浮かべながら読み続けていることでしょう。
速読と熟読。どちらを採る読者が多いのか。おそらく熟読です。なぜなら小中高で、熟読するよう徹底的に指導されるからです。速読の必要が生じるのは、例えば大学に入ってからです。大学で専門的な勉強や研究を行なうと、指定の期間内に大量の文献を読みこなす必要が生じます。その際、否応なく速読を身に着けることになります。




