【中級】短文の欠陥と長文の重要性
皆さんも文の長さに関する次のような忠告や指示を知っていると思います。
文は長すぎてはいけない。長さの上限は、句読点やその他の記号も含めて、せいぜい四十文字程度。文はそれよりも短くした方が良い。
もちろん、この種の忠告や指示は基本中の基本。いや。小説を書く以前の初学者向けのものです。小説を書くのなら、階段をもう一段昇ってみましょう。
まずは長文について。長文の基本構造は三つ、直列型、並列型、修飾型です。それぞれの例を示しましょう。
僕は走って、飛んで、回転して、屈伸して、寝転んで、立ち上がって、……をした。
商品棚には、羊羹と、煎餅と、ポテトチップと、グミと、……が並んでいた。
春の公園の片隅に座る赤いコートを着た女が立ち上がった際に落として隙間に挟まったイミテーションのイヤリングの下に落ちていた五円玉。
長文を避けよとの忠告の目的は、読解の困難さを回避することにあります。見て分かる通り、間違いなく、修飾型の長文は複数の短文に分割した方が理解しやすくなります。
一方、直列型と並列型は修飾型とは違います。直列型に至っては形式的にも本質的にも、「僕は走った。飛んだ。回転した。屈伸……」という短文の羅列と同じ。読解に困難さなどありません。つまり、直列型と並列型は四十文字を超えても問題ないのです。
例えば、地の文における表現法の節で引用した太宰治作「女生徒」。その冒頭には「かくれんぼのとき、……、もっとやりきれない。」という直列型の長文があります。その長さは何と二百三文字です。
もちろん限度はあります。いくら文の構造が単純であっても、二百三は一般的には長すぎます。一方、五十、六十、七十程度であれば問題視する必要はありません。ただしあくまでも、構造が単純な場合に限ります。
次は短文について。短文が読みやすく理解しやすいのは事実です。書きやすいのも事実です。情報量が少ないのですから。それは非常に大きな長所ではあるのですが、同時に短文には短所があります。正確に言えば、短文が寄り集まると短所が顕在化します。初学者向けの忠告にそのまま真面目に従うと、文章全体が似たような長さの短文ばかリで構成されるようになります。それが問題を引き起こすのです。
例えば田丸のマーチ。一般的に、小説のかなりの割合の文は「た。」で終わります。田丸の出現です。これは日本語の基本構造の一つですから、中々に避けがたいものです。もし、ここで文の長さが揃っていたら、田丸が韻を踏んでしまうのです。
韻を踏む。それは本来一定間隔で同種の音を繰り返すという言葉遊びです。しかし、韻を踏むのも四度まで。延々と踏まれ続けたら耳障り。限度を超えれば不愉快です。
文章全体が田丸の短文からなると、田丸がマーチのリズムに乗って行進を始めてしまいます。これは極めて不快です。そのため、田丸のマーチは阻止しなければなりません。
この問題は「ですます調」の文体でも同様に発生し得ます。終末のデスマーチやマスゲームも阻止しなければなりません。
前記の理屈を理解できたら、田丸のマーチの阻止には二つの手段があることが分かるはずです。つまり、文の長さを大きく変動させる。そもそも、田丸を出現させない。
ここでもう一度、「雪国」の冒頭部分を引用しましょう。各文の前にある数字は、句読点やその他の記号も含めた文字数です。
[21]国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
[10]夜の底が白くなった。
[12]信号所に汽車が止まった。
[29]向側の座席から娘が立って来て、島村の前のガラス窓を落した。
[11]雪の冷気が流れこんだ。
[36]娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ呼ぶように、「駅長さあん、駅長さあん」
どうでしょう。「雪国」の冒頭部分は田丸ばかり。その一方で、約十文字を基本に、その二倍、三倍と文長をダイナミックに変動させていることが分かるでしょう。さらには、四番目の文は直列型。六番目の文は田丸ではないものの、やはり直列型。
ここで敢えて次のように書き直してみましょう。
国境の長いトンネルを抜けた。雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。向側の座席から娘が立って来た。島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこんだ。娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ呼ぶように、「駅長さあん、駅長さあん」
これは典型的な田丸のマーチです。あまりにも目障り、耳障りではないでしょうか。ただし実は、この文章のままでも多少の改善は可能です。
国境の長いトンネルを抜けた。雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。
向側の座席から娘が立って来た。島村の前のガラス窓を落した。雪の冷気が流れこんだ。
娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ呼ぶように、「駅長さあん、駅長さあん」
どうでしょう。不快感はかなり軽減されたのではないでしょうか。この文章に読み方の指示を追加してみましょう。
国境の長いトンネルを抜けた。[一休み]雪国であった。[一休み]夜の底が白くなった。[一休み]信号所に汽車が止まった。[大きく息継ぎ]
向側の座席から娘が立って来た。[一休み]島村の前のガラス窓を落した。[一休み]雪の冷気が流れこんだ。[大きく息継ぎ]
娘は窓いっぱいに乗り出して、遠くへ呼ぶように、「駅長さあん、駅長さあん」[大きく息継ぎ]
そもそも、句読点の丸は「そこでいったん読みを休め」との指示です。改行と段落分けは「読みをやめて息継ぎでもせよ」との指示です。きちんと段落分けを行なえば、田丸のマーチのリズムを崩せるのです。
同様に「走れメロス」の冒頭も分解してみましょう。
[ 9]メロスは激怒した。
[27]必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。
[13]メロスには政治がわからぬ。
[13]メロスは、村の牧人である。
[16]笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。
[23]けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。
[44]きょう未明メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里はなれた此のシラクスの市にやって来た。
ここでもやはり、田丸の頻出、文長をダイナミックに変動。そのパターンが見て取れます。また、最後の長文は直列型です。
ここまでの解説を要約すると、次のようになります。長文も短文も重要な文型です。長文には直列型や並列型の構造を採用しましょう。一律な短文化はやめましょう。短文と長文を適切に明確に織り交ぜ、文長をダイナミックに変動させましょう。
次は、田丸の出現自体を阻止する件です。当然ですが、田丸さんは過去の人です。と言うことは、過去形以外の文を織り交ぜることになります。例えば以下のように。
僕は走った。息が上がった。体が熱くなった。
僕は止まった。潮風が吹き抜けた。さざ波が足を洗った。
僕は走った。息が上がる。体が熱くなる。
僕は止まった。潮風が吹き抜ける。さざ波が足を洗う。
僕は走る。息が上がった。体が熱くなった。
僕は止まる。潮風が吹き抜けた。さざ波が足を洗った。
僕は走った。息が上がり、体が熱くなった。
僕は止まった。潮風が吹き抜け、さざ波が足を洗った。
もはや、解説はほとんど必要ないでしょう。ただし、一つだけ述べておきます。
これら四例の中で、一番目は田丸のマーチです。しかし、それほど違和感は無いはずです。理由は二つ。まず、改行と段落分けがマーチのリズムを崩しています。そして各行ともに、「繰り返しは三度」の構造になっています。この構造に関しては、地の文とリズム感の節を参照してください。
一律な短文化には別の弊害もあります。
第一章第一節の冒頭で次のように述べました。
「未刊作品群を読み漁っていると時折、目を引く作品に出合うことがあります。面白そうな物語、雰囲気の良い文章。でも、いかにも惜しい。これでは小説としては不十分。そんな作品です」
そして作者のプロフィ-ル欄に目を通すと、どうやら中学生か高校生。しかも小説の執筆は初めての模様。世の中は広いものです。抒情性の高い文章や、格調の高さを意識していることをうかがわせる文章。そのような文才を持つ若い人たちが次から次に現れる。
では、何が惜しいのか。何が問題であると言うのか。
私の記憶に残っている限りでは、それらの作品はすべて短編です。もし、その文体で中編小説や長編小説を書けと言われたら、それらの人たちは若さの勢いに任せて書いてしまうのでしょう。そして頭を抱えるのです。
いくら文才があってもやはり初心者。初学者向けの指導の通りにひたすら書いても上手く行きません。小説全体にわたってほぼ一律に短文ばかり。それはあまりにも単調なのです。それを中編や長編で行なうと、読者としては読むのが苦痛になってくるのです。
たとえて言えば、スーパーのお菓子売り場に行ってみると、商品棚の端から端までずらりと一口羊羹。羊羹は美味い。それは事実です。しかし、どこまでも一口羊羹では飽きるではありませんか。煎餅、ポテトチップ、キャンディー、苺のショートケーキ、モンブラン、バームクーヘン、トライフル。そのような物も食べてみたいではありませんか。
文長のダイナミックな変動は、そのような単調さを回避するための有力な手法の一つです。一律な短文化は文長を揃えてしまう。四十文字の制限を念頭に置かない長文化は文長をばらばらにする。その特性を上手く組み合わせましょう。
一般的には、文の基本構造は、単文、重文、複文などと分類されます。単文は主語と述語からなる文。重文は複数の単文が連なったような文。複文は単文の内部に別の単文が埋め込まれたような文です。
一方、本文では「長文の基本構造は三つ、直列型、並列型、修飾型」と述べました。それらは正規の専門用語ではありません。なぜ文は長くなるのか。ズラズラと並べるから。ゴテゴテと飾るから。それを直感的に表現しているだけです。




