【初級】発言の主体の同定
その発言は誰によるものなのか。創作上の特段の意図が無い限り、それは明確に同定できるようになっていなければなりません。しかし手法を知らないと、あっという間に壁に突き当たることになります。三人以上による会話を上手く描写できないと。
発言の主体を読者に示唆する手法は、発言の中身による示唆と地の文による提示の二つに分類できます。この節では、発言の中身による示唆として四つの手法を、地の文による提示として二つの手法を解説します。
まずは、発言の中身による示唆から。
一つ目。発言の内容そのものによる示唆。この手法はまさに基本中の基本です。登場人物たちがそれぞれに独自の思想や見解を有しているのなら、当然発言の内容にも差異が生じるはずなのです。
これは余談ですが、複数の登場人物が大方の場面で同じような言動をとっている場合、物語の構成に冗長さが無いかを再検討しましょう。要するに、同じような人物を主要登場人物として何人も登場させる必要があるのでしょうか。
二つ目。言葉遣いの違いによる示唆。これも基本中の基本ではあるのですが近年、特に現代ドラマなどでは採用が難しくなってきています。年齢、性別、立場などによる言葉遣いの差が消失してきているからです。
例えば、一人称代名詞の収束。「わし」などと宣う御仁はもはや一部の高齢男性のみです。男性であれば年齢にかかわらず「僕」、「俺」、「私」が一般的でしょう。女性の場合は「私」一択でしょう。もちろん、「私」には「わたし」と「わたくし」の二つがあります。
一般的な一人称代名詞以外で差を生み出そうとする場合、代名詞自体が発言者に色を付けてしまうという点に注意を払う必要があります。
例えば、「我」や「吾輩」は尊大もしくは古風。「おら」や「おいら」は田舎者もしくは偏屈。「あたし」や「うち」は幼稚。「あたい」は幼稚かつ蓮っ葉。
他には、時折耳にする代名詞に「自分」があります。これは近世から使われ始めたものですが、旧日本軍が自身のことを「自分」と名乗るよう推奨したことによって世間一般に広まりました。そのため一般的には、権威主義色の濃い代名詞と見なされています。実際に現在、この代名詞の使用が見られるのは、上下関係が非常に強い部活動などにおいてでしょう。ちなみに、現代の自衛隊が推奨しているのは「自分」ではなく「私」です。
実際、どの一人称代名詞にも色があります。その色がどれぐらい濃く出るのか。それは状況次第であり、その状況における言い方次第です。 ですから、どの名乗りが良くて、どの名乗りが悪いなどと、一律に決め付けることは出来ません。ただし同時に、色がある以上、必ず特定の名乗りを使うなどと一律に決めてしまうと問題が生じる場合があります。
他に言葉遣いの差異として挙げられるのは文末表現でしょう。
「それは違うわよね」(女性的)
「それは違うわよ」(女性的)
「それは違うわ」(女性的)
「それは違うよね」(中性的)
「それは違うよ」(中性的)
「それは違う」(中性的)
「それは違うだろう」(男性的)
ただし近年、話し言葉のユニセックス化が進んでいます。そのため逆に、男性的な言葉遣いや女性的な言葉遣いは、その発言者に余計な色を付けてしまう場合があります。そのことに留意する必要があります。
三つ目。誰へ向けての発言なのかを明示、もしくは誰の発言ではないのかを明示。これは例文を示すのが手っ取り早いでしょう。
「逸美。私は山田君と鈴木を助けたい」
「朝美がそれを言うの? 朝美があの二人を見殺しにしたのに」
この手法は強力です。それぞれが誰による発言なのか、あまりにも明白でしょう。もちろん、一番目は朝美の発言、二番目は逸美の発言です。一番目では、逸美へ向けての発言であることを明示しています。二番目では、朝美へ向けての発言であることを明示すると同時に、朝美の発言ではないことも明示しています。
ただし、この手法を過度に使用してはいけません。連続して「逸美」、「逸美」と聞かされたら、耳障りになるだけです。
四つ目。発言の表記の違いによる示唆。これも例文を示すのが早いでしょう。
「私は、それは違うと思う」
「わたしも、それは違うと思う」
珍しくも、二人の意見が一致した。
「でも、違うと言っているだけでは、話は進まない」
「私は、そこまで違うのなら、話を進める必要は無いと思う」
やはり、二人の見解には隔たりがあった。
「こんな話はいっぱいある。いちいち面倒くさがっているわけにはいかない」
「一杯あるからこそ、一々が面倒臭い」
二人とも。喧嘩はやめなさい。
この例文は読者に余計な読解を要求しており、良い例ではありません。それでも読解してみれば、「私」と「わたし」を使い分けていることが分かります。それを元に考えれば、発言の順番が途中で入れ替わっていることにも気付くでしょう。
また、一人の発言には漢字表記を多めに、もう一人の発言には仮名表記を多めにしていることも分かると思います。このように、違和感の無い範囲で表記を変えることによっても、誰が発言者なのかを示唆できます。ただし、かなり技巧的であるがゆえに、この手法はそれほど有力とは言えません。
それでは次に、地の文による提示を解説します。まずは例文から。
鈴木は自慢げに胸を張った。私はテーブルの上をトントンと軽く指で叩いた。
「数を撃てば当たるという訳ではない」
この発言は一体誰によるものなのでしょう。例文以前の文脈にも依存し得ますが、それを無視すれば、発言直前の地の文の主語が発言者であると考えるのが普通でしょう。つまり「私」です。このように、直前の地の文によって発言者を暗示できます。
次の例文。
鈴木は自慢げに胸を張った。私は言った。
「数を撃てば当たるという訳ではない」
これは明示です。ただし、「軽く叩いた」のような人物描写とは異なり、発言者の明示以外には何の情報も含まれていません。つまり、これは発言者を示すだけの目印、マーカーです。ただし、このマーカーの使い方はあまりよろしくありません。前記のような人物描写が可能なのですから。
例えば、英語を日本語と比較してみましょう。英語には、年齢、性別、立場などによる言葉遣いの差がほとんどありません。そのため、英語による会話の描写には日本語以上に困難が伴います。それを解消する手段として、英語ではマーカーが多用されます。
"By my calculations," Suzuki said, "if I go to about ten group dates, I'll have a girlfriend."
「俺の計算では」と鈴木は言った。「十回ぐらい合コンをすれば彼女が出来る」
英語による創作の現場では、マーカーはマーカーに過ぎないのだから最小限の記述であるべし、との指導がなされているようです。その点には確かに一理あります。以下はその指導に逆らった失敗例です。
「俺の計算では」と鈴木は笑みを浮かべ、コーヒーに手を伸ばして一口すすり、大きく息をはいて、両腕を広げて肩の凝りをほぐした。「十回ぐらい合コンをすれば彼女が出来る」
これでは地の文が長すぎます。発言がぶつ切りになってしまっています。ただし、最小限であれとの指示を極度に厳格に守る必要はありません。例えば。
「俺の計算では」と鈴木は笑みを浮かべた。「十回ぐらい合コンをすれば彼女が出来る」
「どういう計算?」と私も笑った。「まずは、その長髪を何とかしなよ」
この例では、マーカーとしての「言った」ではなく、「笑みを浮かべた」、「笑った」などの人物描写が挟み込まれています。単純さは少々失われていますが、特に違和感は無いでしょう。
ただし、鈴木の発言と私の発言の構造は似て非なるものです。この例を標準的な記法で書き直してみましょう。
「俺の計算では、十回ぐらい合コンをすれば彼女が出来る」
そう言って、鈴木は笑みを浮かべた。
「どういう計算?」
そう言い返して、私も笑った。
「まずは、その長髪を何とかしなよ」
つまり、鈴木の発言は本来一つの会話文で記述されるべきもの。そこに無理やりマーカーを挿入しているのです。一方、私の発言は元々二文からなっています。そこに地の文による人物描写を加えたと見なすことも出来るのです。このことを考え合わせると、次のような非標準的な記述も可能です。
「俺の計算では」と鈴木は笑みを浮かべた。「十回ぐらい合コンをすれば彼女が出来る」
「どういう計算?」私も笑った。「まずは、その長髪を何とかしなよ」
前述の例文とこの例文の違いは「と」の有無です。「と」を加える。これは情報の付加です。「と」を除く。これは情報の削除です。そのためこの種の記法では、一律に「と」を加えると不自然になる場合があります。逆に、一律に「と」を除くと支障が生じる場合があります。
「ちょっと」私は叫んだ。「忘れ物。財布無しで合コンかよ」
この場合、「ちょっと」は叫んだ内に入っているのでしょうか。文脈から推測すれば入っているのでしょうが、時系列順に直訳的に読めば入っていません。ですから、この場合は次のように書いた方が分かりやすくなるでしょう。
「ちょっと」と私は叫んだ。「忘れ物。財布無しで合コンかよ」
この節では、発言の主体の同定に関して、いくつかの手法を紹介しました。それらの中でも特に強力なのは次の二つです。誰へ向けての発言なのかを明示、もしくは誰の発言ではないのかを明示。マーカーの使用。ただし、それらは強力であるがゆえに使い過ぎてはいけません。過度に使用すると、字面の雑味になります。いずれ目障りになります。作品全体が煩雑になってしまいます。
一人称代名詞の使用に関しては、誤読をしないよう気を付けてください。この節ではあくまでも、会話文における名乗りを論じただけです。




