耳元で「いっぱい出たね♡」と囁いてくれる笹蒲さん
何故自分だけこの様な仕打ちを受けねばならないのだろうか。と、ギプスでガチガチにされた右脚を見つめながら考えた。
「下田が入院中暇しない様に、先生課題をしこたまりと作ってやったぞ! 泣いて喜べ♪」
担任のありがた迷惑とやらに、悲しみと怒りの涙がこぼれそうになる。
このままリサイクルボックスか廃品回収に投げたい衝動を抑えつつ、課題のページを一枚めくるも、痛烈な吐き気を催し課題を進めることを断念せざるを得なかった。無念。
「下田君」
面会時間の終わり際、同じクラスの笹蒲さんが現れた。
まさか自分のためにお見舞いを──と思わず顔がニヤけそうになったが、間一髪の所で食い止める。
「お婆ちゃんのお見舞いに来てたんだけど、下田君入院してたのココだったんだ。廊下から下田君が見えたから思わず声かけちゃった。ゴメンね」
「いえいえ、滅相も御座いません」
嬉しすぎて言葉遣いがバグったが、笹蒲さんはそんな俺を見て笑ってくれた。
「あ、何か持ってくれば良かったね」
「そんなそんな! 来て貰えただけで……」
笹蒲さんは何と気遣いの出来る御仁であらせられるのだらうか。おくゆかし。
既に家族やら友人達から色々と貰っているので気持ちだけで十分だ。勿論貰えたなら最高だけど、ね。
「先生から課題がメッチャ出でさ~」
「えっ、そうなの!?」
ここぞとばかりに課題を話題作りに使わせて貰う。
笹蒲さんがそっとカバーのかかった本を手に取った。
それは友人の一人が置いていった奥ゆかしい本で、奥ゆかしいお姉さんが『いっぱい出たね♡』と囁いてくれる…………出しっ放しだったぁぁぁぁ!!!!
「あ、ちょ……」
俺のアホ!!
よりによって何でそんな危険物を出しっ放しにしたんだおい!!!!
「……」
笹蒲さんは止める前に本を開いてしまった。そして恥ずかしそうにすぐに閉じた。オワタ。
「さ、笹蒲さん……これは、その」
「下田君はこういうのが好きなの、かな?」
ジットリとした目つきで笹蒲さんが俺を見た。まるで養豚場のブタを見るような冷たい目だ。
「いや、その……友人が置いていったので、はい」
「ふ~ん……」
一切の言い訳を許さぬかの如く、視線は冷たいままだ。
「これは没収かな」
「えっ!?」
自分のバッグに奥ゆかしい本を入れてしまう笹蒲さん。な、何故……!? 俺のオアシスを返してくれ……!!
「下田君」
突然のおあずけに視線が定まらぬ俺に、笹蒲は顔をそっと近付けてきた。
「課題…………いっぱい出たね♡」
「──!!」
中腰に構えた笹蒲さんは、耳元の髪をかき上げながら、確かにそう呟いた。たまらず笹蒲さんの向いた。屈んでその奥ゆかしい胸元がチラリと見えた。オアシスはそこにあった……。
「じゃあね」
柔らかい手を振って、笹蒲さんは帰って行った。
その夜、俺は悶々とした。
本を取られた事ではない。笹蒲さんの事が頭から離れずにいた。
普段は大人しく控えめな笹蒲さんが、あんな大胆に『いっぱい出たね♡』だなんて……控えめに言ってヤバいだろ!!
「寝れそうに無いから病院でも徘徊しよう……」
「下田さんどこ行くんです!?」
巡回のナースに止められて、仕方なく布団をかぶって寝た。
「これから退院も出来そうですね」
程なくして、俺は退院の許可が下りた。
友人達に連絡すると『もう少し居てもいいんだぞ?』とからかわれた。
「こんにちは」
午後、笹蒲さんがやって来た。
まさか二度目があると思っていなかったので、完全に油断しており、凄いだらしない格好でテレビを見ていた所を目撃されてしまった……!
「ど、どうしたの!?」
「下田君のお友達から退院するって聞いたから……最後にって」
「う、嬉しいどす」
何地方の訛りかすらも不明な語尾が口から飛び出したが、それは素直な気持ちだ。間違いない。
「これ……」
笹蒲さんはバッグからカバーのかかった本を取り出して俺に差し出した。
まさか……没収されていた奥ゆかしき本!?
「あ、ありがとう……」
本を受け取る。中をめくって見たいけど、笹蒲さんの手前それははばかれた。
「また学校で皆に会えるね」
「うん。一ヶ月は長かったよ」
笹蒲さんはとても自然な笑みで俺を見てくれた。どうやらこの前のことは気にしていない様だ。
「あ、ごめん。ちょっとお婆ちゃんの所に忘れ物が……」
「あ、うん」
笹蒲さんが居なくなった。
その隙にする事は一つしかあるまい。
──ペラッ
「──!?」
奥ゆかしき本には、何故か手書きの文字がビッシリと書かれているではないか……!!
「笑顔は小悪魔的に……!? 膝の角度に注意……!?」
それは奥ゆかしき本に出て来るお姉さんの仕草一つ一つに対するメモで、まるで参考書の様に事細かに記されていた。
「あ、ごめん。お待たせ」
「笹蒲さん、これ……!」
思わず事の真相を問い掛けてしまった。もう恥とかそんな物は後回しだ。
「それ? ふふふ……だって下田君、そういうの好きなんでしょ? やーだ、もぅ♡」
笹蒲さんは人から借りた教科書にアンダーラインとか補足を書いてしまうタイプの人だった……!!
「じゃ、また学校でね」
「…………」
出入り口のアルコールスプレーを手をかける笹蒲さん。プシュッと音が鳴り、ポタポタと指の間から溢れたアルコールが垂れた。
「……いっぱい出たね♡」
わざわざ俺の耳元で。
オアシスはそこにあった。