「西部」という影
「西部解放戦争、か。そんなものに覚えはないが?」
「名前は私が便宜上つけた仮のものですからね。殿下は私が何を言いたいのかお判りのはずです」
帝国にとって、「西部」は特別な意味を持つ。
それは色々あって手放さなければならなくなった植民地、属国を指す言葉だからだ。
「皇帝陛下のここ最近の施策を見ればそれは火を見るよりも明らかなこと。違いますか?」
「……具体的には?」
「軍制改革の断行に始まり、軍の近代化、重工業・軍需産業に対する補助の増額、そして軍人貴族や軍人家系が陛下に謁見する回数も増加しています。それに、先帝のことを思えば……」
「なるほど。確かに親父はそんな人間だな。爺様の失敗を自分の手で処理する。それが自分の責務だと思っている」
私は、先々帝のことをよく知らないし、皇帝陛下の人となりのこともよく知らない。けれど彼の今までの言動や施策が、西部旧植民地地域の回収にあること、その動機には先々帝にあるというのはわかる。
その動きに対して勘付いているのは、実の息子であるリダン殿下、そして陛下の内心に気づき、旧植民地領での権利を主張したい貴族たち。
特に貴族たちの動きは陛下以上にあからさまなのである。そしてその協力的な貴族に対して、陛下は軍の重要ポストを彼らに与えることで報いている。
「しかし西部地域の奪還は我が帝国の悲願だ。私には何も問題がないと考えるが、忠告とな?」
「殿下には既にお分かりのはずです。その戦争、十中八九負けると」
「負ける? 我が国があんな小国家群にか?」
「50年前にも負けたのです。今また同じことを繰り返しても不思議ではありません。陛下は、先帝と同じ歴史的愚策を演じることになるでしょう。あるいは、それ以上のものになるかもしれません」
そう、私は言い切った。さすがに殿下も私の言葉には口を挟んだ。
「ミドラーシュ・エンディミオン。私と君の仲だとは言え、陛下と帝国に対する不敬は許されない。それを公爵家の娘である君が理解していないわけではあるまい」
「存じております。しかし、言い過ぎたと思っていませんよ、殿下。でなければ、なぜ殿下は薄ら笑みを浮かべているのかを教えてくれますか?」
リダン殿下は口元を抑えてはいたが、私はその裏でどんな表情をしているのかわかる。それこそ「私と君の仲」だから。
私の予想通り、殿下はふっ、と短く声に出した後、
「ハッハッハッハッ。なるほどこれは失礼したな、ミドラ」
殿下は高笑いをした後、私のことを愛称の「ミドラ」と呼んだ。まだ殿下は私のことを「ミドラ」と呼ぶのだと、少し驚いた。私のことをその愛称で呼ぶ「人間」は、もういないものだと思っていた。
「確かに親父がそんな無謀な野望を抱いていることは承知している。だがこちらは公的な地位が皇太子とくらいしかない半端者だからな。それに皇族の権威のなさは君も知っているだろう?」
「えぇ。今それを噛み締めているところです」
殿下も、西部解放戦争について陛下や有力者に忠告をしてもそれが手遅れなのをよく知っている。一度動いた帝国貴族という名の巨大な歯車は、誰かが石のように意固地になって抵抗しても強大な力でいともたやすく砕かれてしまう。
もう、そういう段階に来ているのだ。
「これから話す内容については他言無用で頼むよ、ミドラ。これは、表で待っている男も知らない話だからな」
「そんな重要な話を私に漏らして大丈夫なのですか?」
「表にいる男ですら自力で勘付けなかったことを、貴族社会から弾かれた君が知りえている。私にとってはそれが君を信用するに値する根拠だよ」
「どうしてそこまで……」
「どうして、か。……ま、強いて言うなら『弟が世話になった』ということかな」
私には、そう言いながら視線を逸らす殿下の意図が読めなかった。彼は何を考えているのかわからない……というのは昔から変わらないが。
そんな私の不安をよそに、殿下はひとつ咳払いをした後に言った。
「早くて半年後、クライン共和国国境付近で帝国軍は大規模な軍事演習を行う。動員兵力は12万だ」
「……単なる威嚇にしては多いですね」
「あぁ。威嚇ではなく、共和国全土制圧を目的とした戦争――貴族連中は『特別軍事作戦』と呼んでいる――を行うことになっている」
「なんです、その特別軍事作戦って」
どう言い繕ってもただの侵略戦争なのに、妙に言葉を変えて特別軍事作戦とは。どこ向けのアピールなのか。一応、西部旧植民地地域の動向に注視している西方列強に対する言い訳とも考えられるけど……。
私が脳内で、その珍妙な言い換えの意味を探っていると、殿下は再び笑ったのち、妙に芝居がかった声でこんなことを言った。
「『相手は弱小な小国だ。戦争にすらならない。一突きすれば、勝手に瓦解する』」
「……なんです、それ」
「君もよく知る、この国の宰相殿が陛下に実際に言った言葉」
「ミュートリア閣下が……」
行政トップにまで妙な病気が蔓延している。その事実に、私も殿下も呆れる以外の感情を抱くことは不可能だった。
「そういうわけだ。半年後に備えて君も色々と為すべきを為したほうがいい」
「……私は既に没落した身です。何をするにしても……」
こうして殿下と面と向かって会話をすることくらいはできるが、私の実力はもう一般人と同じなのだ。
「もし何かあれば、私も協力するよ」
「…………」
そして、やはりここまで殿下が私を懇意にする意味が分からない。
私にはもう公爵家としての権威もなにもない。雑多な王侯貴族のように媚びる必要もない。弟の婚約者だったから? それがなんだというのだ。
ベゼル殿下が亡くなったのに、私だけ生きているという事実に恨みを抱くならまだしも、婚約がベゼル殿下の死をもって解消された今、懇意にする意味なんて……。
もう何度も繰り返した疑問。それを私は殿下に直接聞く勇気は持ち合わせていなかった。
「……お気遣い、感謝いたします」
だから私は、そんな言葉を口にすることしかできなかった。