私の意味
「私、ハイネ・シュミッタと申します。先ほどは、ありがとうございました」
赤髪の少女、もといハイネ・シュミッタは深々と頭を下げる。
まぁ、公爵令嬢に窮地を救ってくれた平民と考えれば、これをやり過ぎな態度とは言えない。とはいえ、私はミュートリア侯爵令嬢が言う通り没落の身、そこまで畏まる必要もないとは考えている。
「本当に、なんとお礼を申し上げたら……。なにか、お返しを――」
「いいのよ、別に。好きでやっただけだから」
「でも……」
「お返しが欲しくてやったわけじゃないわ。そこまで没落したつもりはないもの」
私はただ単に、嫌がるリリスの顔が見たかっただけだ。
そのリリスと言えば、少し離れたところでそっぽを向いている。顔を合わせるのも嫌らしい。
「さっきも聞いたと思うけど、改めて自己紹介するわ。私はミドラーシュ・エンディミオン。没落貴族だから、あまり畏まった態度はいらないわ。それであっちが……」
と、ふとここで私は言葉を止める。
ちょっとした悪戯心はうずいた。
「あなた、自己紹介くらいしたら?」
「……なんで」
「子供じゃないんだし、できるでしょう?」
「………………リリス・アクゼリュス」
ひどくぶっきらぼうに、そしてそっぽを向いたまま自己紹介をするリリスの姿は滑稽だった。
「えっと、その……いい名前、です、ね?」
そしてやはり彼女が必死に考えたらしい名前は不評そうだということがわかって、私は思わず笑わずにはいられなかった。
「やっぱり、あれは変な名前よね」
「そ、そんなことは……」
「遠慮することはないわ。別にあいつは貴族ってわけじゃないし」
悪魔の名前を笑ったからと言って相手を呪い殺すような短絡的なやつではないことは知っている。実際、彼女は太々しい態度はするものの怒っているわけではない。
ただ不満なだけだろう。
「それでその、先ほどの方たちはいったい……?」
「あぁ、あれね。まぁ大したことはない人間よ」
「そうなんですか? でも、殺人劇場がどうたらこうたらって……」
「それも気にする必要はない……というより、気にしちゃいけないわ。あいつらは、あぁいう生き物なのよ」
「???」
ハイネさんは首を傾げるが、私はその質問には答えられない。
「ミュートリア侯爵」という名前は、この国では影日向両方に名を馳せているのだ。無論、悪い意味で。一度かかわるとロクなことにはならない。
「今後は彼女たちに不用意に近づかないように、と警告しておくわ。そう何度も、彼女たちが急に散歩に行く気分になったりはしないだろうから」
「そう、ですね。……でも、私は平民ですから嫌でも目立つというか……」
「難儀なものね、この国の階級制度も……。ま、困ったら私に言いなさい。私もできる限り、あなたに協力するわ」
「え、いやそんな悪いですよ……!」
「いいのよ。これは私の趣味みたいなものだから」
そう。これは今大絶賛眉間にしわを寄せて不機嫌な顔をしているリリスに対する嫌がらせという、私の悪趣味である。
天敵、とリリスは言った。
その意味は掴みかねているけれど、天敵なら味方に引き込んでしまえばあと後が楽だろう、という打算がないわけでもない。
「さぁ、あまりぼやぼやしていると怒られるわ。寮に行きましょう」
「あ、そうでした! それではまた!」
「えぇ、またね」
慌ただしく走り去っていく赤髪の少女の背中を、私は眺めていた。
その後ろで、深いため息が吐かれていたのも私は聞き逃さなかった。
私はそんな彼女の姿を見かねて、近寄る。
「いい子じゃない。あなた、ああいう子が苦手なの?」
「苦手じゃない。嫌いなだけだ」
それはほぼ同じ意味なのではないだろうか。
「じゃ、後学のためにも一応聞いておくわ。あの子の何が嫌いなのよ」
「そうだな。ひとつひとつ挙げていくとキリがないから端的に教えよう。ほとんど全部だ」
「……はぁ?」
初対面の人間に対して、ほとんど全部の要素が嫌いになると思えるような人間というのは少ない。ましてやあのハイネ・シュミッタに、嫌いになる要素を探す方が難しい。平民がどうのこうの、という話ではないだろうし。
「先に忠告しておく。あいつとの付き合いはほどほどにした方がいい。でないと、傷つくのは君の方だ」
「その理由は?」
「遠くないうち、あれは君の全てを否定するだろう」
ハッキリと、鋭い目でリリスは言った。
私の全て。
私の全てとは、なんだろう。この世界、秩序、そして神を名乗る悪魔への復讐。私が今生きている意味と問われれば、私はそれを挙げるだろう。
それを否定する、か。
「……確かに、彼女はやりそうね」
「だろう?」
短い会話しかしていないが、彼女は「いい子」だ。平民とは言え、何一つ不自由なく生きて、愛情をたっぷり受けて生まれ育った。
それはいいこと、なのだけれど……。
「友情ごっこもいいが、ほどほどにすると助かる。私のためにも、君のためにも」
「……一応、考慮しましょう」
私はリリスの忠告を保留にした。何も確証があるわけじゃないし、リリスがハイネさんの全てを知っているわけではない。ただの印象で言っているだけかもしれないのだ。
「まぁ、それはそれとしてだ。さっきのミュートリアだったか。あの『殺人劇場』ってのはなんなんだ? あいつに教えないのはいいとして、私には教えてくれてもいいだろう?」
「【ミュートリアの殺人劇場】ね。別に面白くもない話よ」
グラスベル・ミュートリア侯爵の妻、ウインド・ミュートリア侯爵夫人に由来する、侯爵の、ひいては侯爵家につけられた異名である。
ミュートリア侯爵夫人は、元々帝立劇場の看板女優だった。それを若きミュートリア侯爵――当時は伯爵に見初められ伯爵夫人となる。そして地位と名声を手に入れた夫人だったが、それだけでは満足しなかったらしい。
彼女はその底知れぬ欲求を満たすために、他人を殺してでも富と名声を手に入れようと、夫と共に貴族社会を暗躍。
「結果、ミュートリア家は侯爵家となり、そして帝国宰相として皇帝に次ぐ権威と権力を手に入れ、富、名声、地位の全てを確保した。数多の死体を築き上げながらね」
「なるほどつまらない話だな。実に貴族らしい家じゃないか」
「そうね」
「だが、興味深い話でもあるじゃないか。確か、君の家が持っていた所領や財産は帝国宰相預かりとなっていたな?」
「……そうね」
家族を皆殺しにされ、私は公爵家を継がねばならなくなった。けれどまだ未成年の身。地位は勿論、公爵家が所有していた所領や財産を継ぐには若すぎると帝国政府――もとい、帝国宰相殿は思ったらしい。
結果、公爵家の財産はそのほとんど全てがミュートリア侯爵家によって管理されている。法的には私が成人するまでの後見人としての管理なのだけれど、【ミュートリアの殺人劇場】と渾名すミュートリア侯爵家でる。何がしたいかなんて、嫌でもわかるもの。
そしてだからこそ、あのアイスベル・ミュートリアが私に強気でいられたのだろう。
「正直、その財産については諦めているわ」
「潔いじゃないか」
「私の人生に必要というわけじゃないもの。それに……」
私は自分の手を見つめる。
私の手には、何もない。かつて多くの者を手にしていたこの手は、全てを失った。
「いつか必ず、取り返して――いや、全てを奪ってみせる。何もかも」
私の意味とは、そういうものだ。