82話 優しい記憶
「……おなかいっぱい」
俺の腹部にコアラのように抱っこされている彼女は、満足そうな笑みを浮かべてそう言った。
「マジで全部食べやがった……」
テーブルの上には、米粒一つもない綺麗なお皿が二つ並んでいる。
自分の分のオムライスを食べたのち、俺の分のオムライスまで彼女は綺麗に平らげてしまったのだ。
「お前って、結構食べるほうなんだな」
華奢な体つきで、あまり食事を好まないようなイメージの彼女。けれど先ほどの豪快な食べっぷりを見るに、そのイメージはどうやら俺の勘違いだったようだ。
「いつもは、こんなにたべない」
彼女は、鼻先が触れ合うほど顔を近づけて、呟く。
「しんたろ、つくったから」
「……っ」
淡く染まる頬。
白く新雪のような睫毛。
大きく赤い瞳。
今ここに在るのが奇跡なんじゃないかと思うほど彼女は儚げで、そして美しかった。
「……そうか、ありがとな」
俺の言葉を聞いて、彼女は少し頬を綻ばせ、首筋に額をこすりつけてくる。
「……」
……なぜか俺は、今は亡き母親のことを思い出していた。
体が弱かった俺の母親。
肌は『小雪』という名前の通り雪のように白くて、紫外線に弱いのかいつも日傘をさしていた。
俺がまだ幼いころ母さんが熱を出した時、今と同じように俺はオムライスを作った。
少しでも母親の助けになるようにと、子供ながらに思ったのだろう。
けれど、小学生に上がる前の幼稚園児が上手くオムライスを作れるはずもなく、調味料は間違えるわ真っ黒焦げになるわで料理とも呼べないようなダークマターを生み出してしまった。
『かあさん……ごめん……じょうずにできなかった……』
『あら、美味しそうなオムライスね』
『……! これ、オムライスってわかるの!?』
『あたりまえじゃない、こんなに美味しそうなオムライス父さんだって作れないわよ? 三ツ星レストランだって目じゃないわね! さ、スプーンかして、お母さん寝たきりですごくおなかすいてるの』
『で、でも! ぜったいおいしくないよ!』
母は俺の制止も聞かず、スプーンをもって黒焦げになった何かを口に入れる。
『んぅ~! おいしい~っ! シンタローはお父さんに似て料理の天才ね!』
『ほ……ほんと!?』
俺は小さな手をオムライス? に伸ばして、カチカチになった黒い塊を口に入れる。
『にっ! にがぁぁぁ!!』
舌が固まりに触れた瞬間、体の全細胞が『この物体を体に入れるな』と信号を発した。
あの味は今でもよく覚えている。
口の中に炭を入れたような、本当にそんな味だった。
『かあさんのうそつき! ぜんぜんおいしくないじゃん!』
『嘘なんかついてないわ。本当に、このオムライスは世界一美味しいもの』
そう言いながら、母さんはボリボリと音をさせながら黒い塊を綺麗に完食した。
『な……なんでたべれたの…?』
純粋な疑問を、母親にぶつける。
世界一やさしい笑顔で。母さんはこう言った。
『母さんの大好きな、シンタローがつくったから』
俺が思い出すのは、いつもその顔だ。
「しんたろ……? どうした、の?」
「……なんでもない」
鈴のような声で、我に返る。
「……なんでも、なくない。だっていまのしんたろ、すごくやさしいかおしてる……」
「そ、そうか?」
「なにか、かんがえごと?」
小首をかしげるルーラー。
そんな彼女に、俺はありのままの感情を伝える。
「ルーラーみたいなかわいい女の子に、手料理を美味しいって食べてもらえたんだぜ? 嬉しいに決まってるだろ」
「っ!」
ぽんっ! と湯気をだして、彼女の真っ白な頬は一気に真っ赤に染まる。
「し、しんたろ! ちーと! ぐりっち! らのべしゅじんこう!」
抱っこをせがみまくる先ほどとは打って、変わってじたばたと抱っこ紐から逃げ出そうとするルーラー。
「ちょ! 暴れんなって!」
ガタガタと揺れる椅子。
「うぉっ!?」
案の定、俺たちは体勢を崩す。
ガタン! と音をたてて、椅子が後ろに倒れた。
「い……つつ……大丈夫か、る……」
そこまで言いかけて、俺は息を飲む。
頬に当たる柔らかな感触。
視界の端にあるに大きな赤い瞳。
「……っ!」
ルーラーの桜色のくちびるが、俺の頬に当たっていた。
「こ、これは事故だよな……っ!」
「事故じゃないわよこのクソロリコン」
背後から聞こえたアジア最強スナイパーの声。
コッキングの音。
俺は死を悟った。