01 Boy meets Girl?
「……い、おいこら、甲斐駒。今しがた起こしたばかりだろう、ちっとは起きる努力をだな――」
意識を失っていた時間は数分、いや数十秒だろうか。とにかく、ほんの少しの間だった事を、奥田の喋る内容で理解した。
再開される説教も耳に入れず、すぐさま空を見上げる。
そこに先程見た、というか自分の身に降って来たあの光は、1つとして残っていなかった。空の色も、異変が起こる前の薄汚れた狼の毛のような灰色に戻っている。
「急に空なんか見上げてどうしたんだ、隕石でも降って来たのか?」
再び聞こえてきた笑い声に苛立ちつつも、そんなところです、と奥田に答える。
「そうかそうか。よし、寝ぼけてる甲斐駒は放っておいて、対数関数の極限について説明するぞー」
あれは何だったのだろうか。夢か? いや、それにしては明確過ぎる。だとすると、あれは何なんだ?
答えを探しても、平時では考えられない事に対して、簡単に出るような結論はない。
とりあえずは気のせいだったということで結論付け、面倒な思考は放棄してようやく授業に耳を傾け始める。
「まずは極限の定義から――」
カチッ
遅々として進まない時計の針は、ようやっと2時30分を超えた。
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午後4時30分。
時間が経てば経つほど、夢であったのだという感覚が大きくなり、下校時刻になる頃にはあの光景は夢であろう、ということで落ち着いた。
「陽和、今日は何食べるよ?」
そんな友人の問いかけに、ぶっきらぼうにコンビニの肉、と伝えた。平時であればラーメンなんかを食べに行くのだが、何だかやけに疲れていたのと雨に濡れたアスファルトの匂いを嗅ぎながら歩きたくないのとで、今日のところは遠出はご勘弁願いたい所存だ。
傘から覗いた千草の顔は、少し不満そうに見えた。どうやら近場にできた新しいラーメン屋の試食に行きたかったらしい。
……そういやこいつ午後の授業ほとんど保健室に籠もってたのに、ラーメン食べて大丈夫なのか?
どこまでもついてくるボッボッボッという、ナイロン製の傘を雨が打つ音と共に千草と俺は帰路についている。
「そういえばよ、今日の数学の時のお前、何か変だったって聞いたぞ? 身体怠いって言ってたし、何かあったのか?」
俺の行動に違和感を感じて、何か原因があるのかと聞いてくる千草。
「いや、隕石が落ちてきただけだ」
「お前なぁ……。俺も保健室で寝てたとき変な夢見てたけどよ、流石にもう眠くねぇぞ? ほら、空見てみろ。」
そう言って千草は傘を頭上からどけて、空に指を掲げて続ける。
「どこにも隕石なんてありゃしねぇ、降ってるのは雨粒くらいのもんだっ……て…………え……?」
急に失速した語尾が気になり、立ち止まった千草の方を向く。
目を見開いて固まっていた。立ち尽くしていた。あり得ないものが見える。目がそう、語っていた。
もしや、またも光点が降って来たのか。
はっとして彼の視線の先を見やるとそこには――
「人が……降ってる……?……!!」
数十メートル上空から、空気抵抗を受けた羽毛のようにゆっくりと。離れていても、それが人であると分かるシルエットをしたものが、降りてくる。
「……は……?なんで…………?」
千草が呟く。口には出していないが、俺も同じ気持ちだ。
依然として、少しずつ降りてくる誰か。
依然として、異常な光景に目を離せずいる俺達。
時間が引き延ばされ、永遠に続くかのように思われた奇妙な感覚がなくなったのは、操り人形を吊っている糸を唐突に刃物で切断したかのように、シルエットが重力に従って加速し始めたからだ。
「え、ちょっうそだろっっ!?」
だって今さっきまでゆっくりだったじゃないか。そう叫びたい気持ちを押さえ、すぐさま手の中の傘を捨てて、そのシルエットの下に手を伸ばしながら飛び込んだ。
ドバシャッ
ワンテンポ、遅かった。
重力によって加速したその影は、雨に濡れたアスファルトで身体を激しく打ち据えた。頭から落ちなかったのは不幸中の幸いだったろうか。あるいは、落ちる距離が短かった事で辛うじて頭が下にならなかったのか。
それでも、確実にどこか骨折しているだろう。ローブのようなものから覗く細い手足は、アスファルトに投げ出され血まみれになっていた。
すぐさま駆け寄り、安否を確認する。
「おい、おい! 聞こえるか? おい!!……くっそ、駄目だ聞こえてない!千草今すぐ救急車だ、一一九番に電話てくれ!!」
「……あ、ああ! その娘大丈夫なのか!?」
「わからない! でも見過ごす訳にはいかないだろ、とにかく今は救急車だ!!」
言いつつ、慎ましく膨らんだ胸に手を当てる。
案の定、動いていなかった。
もしかすると身体を打ったショックで心肺が停止しているのかもしれない。素人ながらにそう考え、保健の授業で習った心臓マッサージを試みたものの、話半分で聞いていたせいでただ心臓の上あたりを押すだけに終わってしまった。
「くっそ、ちゃんと授業聞いとけよ、昔の俺!!」
過去の自分に恨み言を言いつつ、必死に授業を思い出す。
「千草、かけ終わったか!? お前、確か何があるか分からないからって心肺蘇生法一通りマスターしてたよな! 人工呼吸の方ならちゃんと聞いてた、お前は心臓マッサージの方を頼む!」
「分かった!」
千草と交代した俺は、すっぽりと顔を覆う深緑のフードを引き剥がした。
――最初に頭に浮かんだのは、美しい、という形容詞だった。腰までも匹敵する長いこげ茶の髪は、血がついているにも関わらず清楚さを醸し出し、青白くなっている肌は、平時でも透き通った白であったことを感じさせる。髪留めのモチーフは確か、ヒガンバナだっただろうか。頬を伝う雨までもが、彼女の美しさを助長させていた。
ひび割れ一つない唇は人工呼吸どころか、直視する事も躊躇させる。
この子の声が聴きたい――
この子の瞳の色が知りたい――
「心臓、動き出したぞ!」
そんな場違いな感情は、懸命に心臓マッサージを続けていた千草からの声で霧散した。頭を振って先の感情の残滓を払い、もう一度少女を見ると、未だに息をしていない。あわてて顎を上にあげ、気道を確保してやる。
弱々しくはあるが、ようやく生命活動を再開した。
ゴホゴホッ、と咳を数回繰り返す。急に入ってきた酸素に驚いた身体が反射的にそうさせたようだ。
「聞こえるか? 聞こえるなら右手を握ってくれ!」
広がった手を一方的に握りながらそう声をかけてみるが、反応がない。尚も声をかけ続けるが、やはり声が聞こえている様子は無かった。
「どうしてだ!?止まってた心臓は動いてる。息もしてる!じゃあなんで目を覚まさない!!?」
「……多分出血多量だ。酸素があっても、酸素を運ぶ血液が足りてないんだと思う。心臓が動き出してまた出血が止まらなくなってる……」
足元を見れば血溜まりができていた。心臓を動かすことばかりを、考え過ぎていたのか。そんな事も頭をよぎる。
ふと、少女の手を握っていた左手に違和感を覚えた。ぴくり、と、ほんの僅かに、しかし確実に少女の指が動いた。
「千草、この子はまだ必死になって生きようともがいてる!俺達にも何かまだできる事があるんじゃないかっ!?」
すがるように千草を見る。
頼みの綱の千草は、しかし明確に首を振った。
「……そう、か……。」
「……ああ。」
助けられない。死に向かう少女を止められない。俺にはどうしようもない。
涙を止めようとするが堪えきれず、頬を伝う涙は横たわる少女に溢れ雨に混ざって形を無くす。
二人共言葉を発することなく、ただ雨が地面や傘を打つ音だけが周囲を覆う。
――そこにハープを思わせる、清純な弱々しい声が混ざり込んだ。
「誰か、居るの……?」
うっすらとだけ開いた目が泳ぎ、やがて俺達を見つけて止まる。少し黄色がかった緑色の瞳は、俺の顔をよく写していた。
「……どう、して貴方達が……悲しむ、の……?」
耳が聴こえていなくても分かるほど俺は顔に出るのか、彼女はそう言った。
「わたしは……ここに、来る前から、傷を、負っていたの。そんなわたし、を、あなた達、は……必死に救おと、してくれたんでしょう……?」
「喋らなくて良い!!……喋らなくていいから、ゆっくり、休め……な……?」
はぁはぁ、と息も絶え絶えに喋る痛々しい彼女を見ていられず、咄嗟に叫んでしまう。
それでも、聴力が仕事をしていない彼女はこう続けた。
「だから、悲しまなくていい。顔上げて、目開けて?」
「……ああ、分かった」
言って涙を涙で拭いて、なんとか彼女と眼を合わせる。当事者の彼女がそう言うのだ、努力しない訳には行かない。彼女は、この死を受け入れているのだから。
「もう……そろそ……ろ、お休み、の時間……みたい」
「……ああ、ゆっくり休め。」
最後の力を振り絞って話す彼女の言葉を、一言一句逃さず聴く。
それが自分にできる唯一で最後のことだと思い、何かを言葉にしようと動かす、今尚青紫色のままの唇を注視する。
「あな……た……、もし……かして……」
ザザッ
ふいに、目の前にノイズが走るような感覚を覚え、平行感覚を失った俺は、ドシャッと、訳も分からず彼女の横に倒れ込む。
「あ、れ?」
「……神、の……使徒?……」
頭の中に響くような彼女の声が聴こえたと同時に、俺の視界はあんて
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「……い、おいこら、甲斐駒。今しがた起こしたばかりだろう、ちっとは起きる努力をだなぁ――」
意識を失っていたのは数分、あるいは数十秒くらいだろうか。正確な時分は分からない。
何があったんだっけ。
覚醒したばかりの頭で先程の事を思い出す。そうだ、たしか――
「千草、あの子はっ!? あの女の子は何処だ!?」
ガバッ、と飛び起き席を立った俺は、名前も知らない血塗れのあの女の子はどこか、と辺りを見渡した。
「お前寝ぼけ過ぎだ。千草なら体調不良で保健室行っただろうが。廊下出て顔でも洗ってこい」
「……は!?」
探し求めた目に映るのは、苦笑する数多の同級生と数学教師の奥田だった。
どういうことだ。なんで学校に居るんだ。あの子は。
「授業の邪魔だって言ってんだ、出てけ!!」
幾らかの疑問が頭によぎるが、本気トーンの奥田に気圧され、足を廊下に向ける。
カチッ
そうだ、時間。一体あれから正確にはどれくらいたったんだ。
生徒の大半が静まり返った教室に響いた針の動く音に、とっさに時計を仰ぎ見る。
目に飛び込んできたちぐはぐで不可解な事実のおかげで俺の混乱は更に増大した。それというのも――
「……そんな、馬鹿な…………。」
――教室の時計の二本の針は、間違いなく2時30分を示していた。