人生を共にする家族
男の勤めていたオフィスの中、男の前に男の上司が自身の椅子に深く座りながら、溜息を吐きだす。
『君? ヤル気あるの?』
『……』
上司は机に置いてある一枚の紙と、その先のパソコンのディスプレイに表示されている表を見比べながら、口をへの字に曲げ、男へと視線を投げる
『まぁ、ノルマは確かにクリアしてるけど、なんというか、覇気が無いんだよ覇気が』
『覇気……ですか』
男は言葉を吐き出す。しかし、その返事に不満があったのか、男の上司は誰にでも分かる様な不満げな表情を作る。
『もっと頑張ろう、とか思わないのかねぇ』
『頑張る……』
『そうよ、もっと頑張りなさい』
男が顔を上げると、そこは男の勤めていたオフィスでは無く男の実家になっていた。男の視線の先には男の母親が模試の結果を見ながら難しそうな表情を作る。
『これじゃ、行ける大学にも行けなくなるわよ?』
『……でも俺、建築学科に行きたいし』
『どうせ前に視たドラマの影響でしょ? それよりも将来の事を考えなさい。建築学科はあなたには難しい上に就職だってし辛いんだから』
『……』
『それだったら、似ている土木に行きなさい。入りやすいし、就職にも有利よ?』
男は押し黙る。そんな男の様子を見た母親は『あなたの為を考えて言っているのよ?』と言いながら、どこかへと消えて行った。
『……』
気が付けば周囲の何もかもが残っておらず、ただ白い空間に男が一人、立ち尽くしている。
男は何かを言うわけでも無く、ただ少し不満げな無表情を白い地面へと向け続けていた。
・・・
男は視界に広がる天井にぶら下がる蛍光灯の紐を見つめる。
いつからだろうか、他人からの期待が重圧に変わったのは。いつからだろうか、他人からの言葉がやる気を削ぐようになったのは。いつからだろうか、自分の望みを押し殺すようになったのは。
「……朝か」
紐が風によってふわりと揺れるのを確認したのちに男はその重くなった身体を起こす。頭は重く、地面へと向かおうとするのを無理やり支え、周囲へ視線を回す。
畳の敷かれた8畳ほどの部屋に引かれた一組の布団から見られる景色は、当然のごとく極端に限られており、入口を仕切る染みの付いた襖に布団をしまう為の押入れ、開け放たれた曇りガラスの窓からはゆったりとしたそよ風と優しい朝の日差しが部屋へと入ってくる。
「……嫌な習慣だ」
時刻は7時。昨晩あれだけ飲んだにもかかわらず、平日である今日にこれだけ早く起きてしまっている自身と、重く怠く動かしにくい身体に嫌気がさしてくる。
とはいえ、仕事を辞めた今、男は今日という一日が丸一日使えると考えながら、二度寝を決意しその身体を薄い布団へと埋める。
「しかし……なんでここにしたんだっけ」
男は染みの付いた天井を見つめながら何故自分がこの宿に決めたのかを思い巡らす。
「確か……昨日は……、あれか……忘れた」
男はただ、気だるげに声を上げる。二日酔いの男にとって、考えるという行為はただ頭に痛みを齎すのみであり、何一つ答えらしい答えが出ないことを自覚していた。そのためか、はたまたただ単純に面倒なのか、男は気だるげに瞼を閉じた。
「……ゃっほぉーいい!!」
「おぶっ!?」
眠っているのか、起きているのか、決して疲れは取れないであろう微睡みの中でただ瞳を閉じていると、男の腹部に衝撃が走る。男は胃の中にあった液体状の刺激物を喉元まで出しかけながら、その衝撃の元凶を確認すると、そこには少年というにはまだ幼い一人の男児が手に持った竹製の定規で男の胸部をぺしぺしと叩いていた。
「ん……だよ……こいつ」
「あっさめしできたどー!! あっひゃひゃひゃ」
「あ゛~~~~、ダリィって!!」
何が面白いのか、涎を垂らしながら止めることなく男児らしい弱い力で定規を男の胸へと叩き続けている。男はそんな男児に多少の苛立ちを感じながら起きあがる。男児は男の身体をころころと転がり落ちながら、男の足元へと逆さまに着地する。
「……お? あひゃ、あひゃひゃひゃ!!」
「……何が楽しいんだよ」
だが、それに対して男児は怒るどころか更なる笑みを浮かべながら手に持つ定規を振り回す。男はそんな笑い転げる男児に対してか、それとも頭に響く痛みを抑えるためか、頭を手で押さえる。
「あさめしできたどー!!」
「あらあら、ごめんなさいね。ほら、けんちゃん、邪魔しちゃ駄目でしょ」
笑い転げる男児の横から一人の女性が男の部屋へと顔を覗かせる。女性は男児の姿を確認すると、男児を自らの胸元へと持ち上げた。女性は男児に向かって「駄目でしょ?」と軽く叱るが、男児は楽しげに笑っている。
女性が男児の涎を拭きながら来た道を戻ろうと踵を返し戻ろうとすると、男の部屋に小学3年生くらいであろうTシャツ姿の少年が女性を見上げている。
「かーちゃん、健治が……あ、こんなとこに居たのか」
「ゆうくん、悪いけどお客さん案内してくれる?」
「わかったー。よっと」
少年が頷くのを確認したのちに、女性は部屋から出ていく。少年はそれを見送った後に、男にかかっている布団を勢いよく剥がした。
「……なんだよ、次から次へと」
「おい、起きろ寝坊助! ごはんできてっぞ」
「いらねーよ……いって」
男の返事を聞いた少年は勢いよく枕を引っ張り、男の頭を地面へと落とした。
「……なんなんだよマジで」
「ほらっ、行くぞ……って、何してんだよ」
男は起き上がると、立ち上がるわけでも無く面倒臭そうに引き剥がされた布団を引っ張る。しかし、少年はそれを許そうとせず男の持つ布団を引っ張り返した。
「いや、返せよ。客だぞ俺は」
「うるせぇ……せっかく……作ったんだぞ……」
「……あー、もうわかったよ。食えばいいんだろ食えば」
布団が破けることを考えにも入れずに必死に引っ張る少年に、男は諦めた声を上げ布団から手を離す。少年は勢いよくつんのめり倒れるが、すぐに起き上がると見下した視線を男へと向ける。
「やれやれ、最初からそうしてればいいのに」
「……こんのくそガキ」
「あ、お前今ガキって言っただろ!! ガキって言った奴がガキなんだぞ!!」
「……はぁ」
少年は年相応に足らぬ言葉で男に反論をする。だが、そんな少年に二日酔いである男は観念したのか、頭を大げさに掻いたのちに観念して立ち上がった。
「ほら、行くぞ」
「はいはい。分かったから引っ張るな」
男は少年にズボンを引っ張られ、少し転びそうになりながら部屋からでる。男は重たい身体を引きずりながら少年の後を追い軋む廊下を進み、その先の襖を開けると、畳が敷かれた大きな部屋にこれまた大きな背の低い机が置かれている。
机の上には肉じゃがや焼き魚など、10人分はあろうかという数々の料理が並べられており、先ほどの女性がさらに次々と料理を運んでいる。机の側では見知らぬ老婆が先ほどの男児をあやしている。
「ほら、座れよ!」
「……お、おう」
少年は男を座布団へと座らせ、そしてその隣へと自身も座る。そして、少年はしばらくそわそわと足を動かした後に、おもむろに男の前の空の皿を持つと机の上の大皿料理を皿へと盛っていく。
「おい、そんなに勝手に」
「いいんだって、あ、これ俺が手伝ったんだよ。食ってみ」
少年は男の皿へときゅうりと昆布のような何かを和えたものを大量に乗せる。そんな様子を老婆は「仲良しねぇ……」とほほえましく見守っている。
「……なにこれ?」
「きくらげだよ。知らねーの? 常識だぜ?」
「いや、それは知ってたけど」
男は皿の上に盛られた大量の和え物を見つめる。きくらげは細く切られている為、一見して昆布か何かにしか見えない。男は「お前の常識だろ」と呟きながら、合掌したのちにそれを口に運ぶ。
「どうだ? 美味いだろ?」
「……まぁ、美味いけど」
キラキラとした純粋な目で見つめられ、男は食べずらそうにきくらげを噛み締める。忙しなく食を進める少年に、渋々そればかりを食べていると部屋の奥から先ほどの女性と、昨晩男が飲んだ店の店主が現れた。
「あ、お客さん。どうですか? おいしいでしょ?」
「あ、ええ。昨晩は申し訳ありませんでした」
店主は男の姿を確認すると、にこやかに笑顔を向ける。男は店主の姿を見た後に昨晩店主に宿が無いと伝えたところ、彼の家に泊まることになったことを思いだし、どこか居づらそうにしながら立ち上がり会釈をする。
「いえいえ、いいんですよ。それよりも、味はどうですか?」
「ええ、とてもおいしいです」
「俺が作ったんだからな! とーちゃんが作ったんじゃないぞ!!」
「はは、そうだな。お客さんに認められたってことは、勇太は才能あるってことだ」
「へへっ」
店主は少年の頭をガシガシと撫でると、少年は誇らしげな表情を浮かべる。しかし、そんな店主の顔に浮かべる笑顔は何故か硬直したまま動かない。
「で、だ。それはいいとして……」
「いてっ、父ちゃん痛い」
「なーんでお客さんの更にあんなに酢の物が乗ってんだ?」
「いたたたたたっ、痛いって父ちゃん!!」
「それに、まだ全員そろってないだろ?」
店主は少年から手を離すと、その背中を軽く押す。
「ほら、分かったらじいちゃん呼んで来い」
「はーい」
少年は不満そうに返事をすると、小走りに部屋から出ていく。店主はそれを見送った後、男を座らせその隣に座ると、適当な量の料理を皿に盛り始めた。
「いやぁ、なんだか息子が迷惑をかけたみたいですみません」
「いえ、私こそなんだかご迷惑をかけたみたいで……。あ、宿代は――」
「いいんですよ。私が勝手にやったことですから。そのかわり、今晩も来てくださいよ?」
「そう……ですか。あ、どうも」
店主は楽しげに笑いながら様々な料理が乗った皿を男へと差し出す。男がそれを受け取ると同時に先ほどの少年が祖父であろう老人を連れてきた。
「じーちゃん、こっちこっち」
「ああ、分かってるよ」
「お義父さん、おはようございます」
「ああ、おはよう」
老人は少年の頭を撫でながら席へと付く。少年は先ほど店主に叱られたにも関わらず、自身が作ったと自慢する和え物を老人の皿に大量に盛る。
「ほら、じーちゃん」
「おい、勇太」
「いいんじゃよ。儂が頼んだんだ」
老人は店主が叱るのを止め、大量の和え物を少しだけ口に運び、美味いと一言口にした。それを見て少年は嬉しそうにその様子を見続ける。
「私たちも食べましょうか」
女性の言葉に男は周囲を見渡す。気付けばここに住む家族であろう人たち6人が全員座っていた。
「では、いただきます」
「「「「「いただきます」」」」」
「い、いただきます」
店主の合図に少し遅れつつも、男は食事のための合掌を行い、目の前の料理を口に運ぶ。
「どうですか? あまり新しいお客さんが来ないもので、感想を聞きたいんですよ」
「ええ、おいしいです。とても」
男はそう言いながらも、その顔を少しだけ暗ませる。
実際、男にとってこの料理の数々は鮮度や味はもちろん、高級店や料亭などでは決して味わえないどこか懐かしさすら感じる温もりがあり、これからも毎日食べ続けたいとさえ思う料理の数々だった。
しかし、それとは逆に、いや、そんな温もりを感じたが故に、男の胸の底にある”寂しさ”や”空しさ”と言った感情が心の中からにじみ出てくるのを、男は感じていた。